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猿の手

セラピストの絵里子さんが同僚と焼肉を食べに行った時のこと。
上ロースの中に異様な肉片が混じっていた。 絵里子さんが店員を呼びクレームをつけると、店員は「お客様、これは大変貴重な猿の手です。これを食べると3つの願いが叶います。お客様があまりにも美しいのでサービス致しました」と厭な笑顔で立ち去った。
絵里子さんは、店員の異様な雰囲気に気おされてそれ以上は何も言えずに固まってしまった。
するとそれを見ていた同僚の麻衣さんが「絵里子、食べると願いが叶うんだって、食べてみましょうよ」と嬉々としていう。
絵里子さんは、麻衣さんにも薄気味悪いものを感じて黙っていると
「食べて何かあったら店に責任取らせればいいじゃない。絵里子、食べよ」と誘ってくる。
「でも…。」
「じゃあ、私が2/3食べて何ともなかったら絵里子が残り食べるのよ。」と言うと麻衣さんは、食べごろに焼けた猿の手を口に入れた。
「わぁ、上ロースよりも美味しい。さあ、絵里子も」とさらに誘う。
絵里子さんは、麻衣さんのキレると手に負えない性質を知っているので、仕方なしに猿の手を口にする。確かに美味しい。ジビエ料理店で食べた鹿肉に似たさっぱりとした旨みがある。
麻衣さんは「ね、美味しいでしょ。」と言って、目をつぶっている。どうやら願い事をしているようだ。
「絵里子も何かお願いしなさい」
形だけでも願い事をしないとまずい雰囲気だ。目を閉じて、お祈りのポーズをする。
「ねえねえ、絵里子は何をお願したの」
何も願い事をしてないとも言えず「息子と笑顔で暮らせますように、とお願いしたわ」と答えると「何だ、平凡ね」と笑われた。
しかし、シングルマザーで中学生の息子を育てている絵里子さんには、彼の笑顔が何よりのエネルギー源なのは、偽らざる思いだ。
「どうせ、平凡ですよ。そういう麻衣は何をお願いしたの」と聞き返すと「内緒」と薄ら寒い笑顔で答える。

絵里子さんは麻衣さんと別れて、折角のお給料日のご馳走にミソをつけられた思いを抱えながら息子を預けている母のところへ向かう。
母の家へ着いて玄関を開けると、息子が「ママ~」と抱きついてきた。中学生になっても親離れ出来ない息子を抱きしめ返す。そう思う自分も子離れ出来ていないのだ。モヤモヤした気持ちが息子の笑顔で吹き飛んだ。親バカ上等と心の中で呟きながら、もう願いが叶っちゃた、と思う。

数日後、サロンのオーナーの奥さんの訃報が入る。麻衣さんとオーナーが不倫関係にあったのは公然の秘密だった。
「麻衣の願い事はこのことか」と絵里子さんは感づいたが、そんなことは誰にも言える訳がない。麻衣さんと会うのがきまずいだけである。
サロンのメンバーは、葬儀の手伝い組とサロンの通常業務組に分かれた。運良くというか、サロン組の絵里子さんは葬儀の手伝い組の麻衣さんとは顔を合わせずに済んだ。
お通夜に行くと、オーナー親族と甲斐甲斐しく働く麻衣さんの姿を見た。彼女と一瞬目が合うと、暗にあのことは黙っていろよ、という指し図が籠った不敵な笑みを送って寄越した。

麻衣さんは、葬儀が一段落してもサロンには出勤して来なかった。
店長から麻衣さんがオーナーと結婚準備で退職した、とそれとなく聞かされて、やはりと思った。絵里子さんは、これで彼女と顔を合わせずに済むとホッとした。

それから数ヶ月後、麻衣さんはオーナーと結婚した。
絵里子さんのもとには、麻衣さんからオーナーと幸せな笑顔で写った写真と一緒に結婚報告のLINEが届いた。
絵里子さんは、麻衣さんがオーナーの前の奥さんを呪殺したと思っているので「おめでとうございます。お幸せに」とお祝いのスタンプと返信するのが精一杯だった。
麻衣さんからは、それからも度々幸せそうな近況報告のLINEが届く。今はオーナーの奥さんに収まった麻衣さんからのLINEを既読スルーする訳にもいかず、当たり障りのない返事をするのがとても苦痛だった。怪談好きの絵里子さんは「人を呪わば穴二つ」を信じていたし、自らも人を呪わないように心掛けてきた。だから、どこかで麻衣さんの不幸を願っているような気がして、LINEをブロックしたい衝動に苛まれている。

しばらくすると、麻衣さんに赤ちゃんが出来たというLINEが届いた。前の奥さんとの間に子供がいなかったオーナーも大層喜んでいるということだ。子供好きの絵里子さんは、この時ばかりは健康な赤ちゃんを産んでね、と心から祈った。
しかし、麻衣さんの段々と大きくなるお腹の写真を見るたびに、この子が障がいなどを持って生まれたたらどうしよう、という不安が募ってくるのだった。
麻衣さんから「母子ともに健康」という出産報告のLINEが来た時は、自分のことのように喜んだ。
赤ちゃんを抱く麻衣さんを優しく見守るオーナーの姿がう写った写真も添えられていた。

「麻衣さんに不幸が訪れるということは、絵里子さんの取り越し苦労だった訳ですね」と言うと
「ひとつ不思議なことがあるんですよ」と絵里子さん。
麻衣さん宛に出産祝いを贈ったところ、お返しに高級ハムが届いたけれど、塊のハムの他にどうみてもあの時の猿の手に似たものも入っていたそうだ。
「今度ばかりは気味が悪いので捨てましたけどね。それに呪いは、幸せの絶頂に発動するするそうですよ」
絵里子さんの厭な笑顔を見て、私は取材のお礼もそこそこにその場を足早に立ち去ったのである。

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