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「人は必ず死ぬ」と実感すると「人生」が変わる


第1章 幼なじみの死に想う


とある土曜日の朝、僕が目を覚ますと、いつもベッドで一緒に寝ている妻と子どもたちはいなかった。

しかし、家族が家出をしたわけではなく、用事があって里帰りをしているだけだ。

いつもの子どもの寝相(ねぞう)に邪魔されることなく、いつもよりぐっすりと眠れた気がした。

「久しぶりの独身生活を満喫するぞ~」と意気込んで、土日の計画を立てていたが、スマホに飛び込んできた1つのメッセージで全てが変わってしまった。

そのメッセージの送り主は、名古屋に住む友人だった。

その友人とは、自分の幼なじみと3人で、朝まで飲み明かしたことがあったが、もう5年以上会っていなかった。

直感的に少し嫌な予感はしたが、残念ながらその予感が当たってしまった。

久しぶりの連絡だと思って、メッセージを開いてみると、そこには次のように書いてあった。

「おはようございます。ご無沙汰しております。昨夜○○さんがお亡くなりになられました。通夜葬儀は明日明後日、場所は名古屋の○○となっております。詳細が決まったら改めてご連絡致します。非常に残念でなりません」

「この土日は、久しぶりの独身生活を満喫するぞ~」なんていう気持ちはどこへやら、朝から絶句だったのだ。

まさに絶句という気持ちを、久しぶりに体感した朝だった。

メッセージに対して返す言葉が見つからないし、様々な感情がある上に、それらを頭の中で整理することができない。

思っていることを、文章にまとめることができない。

もちろん、冗談でこんなメッセージを送ってくることはないので、信じたくはないけど・・・。

きっと彼は亡くなったんだという現実を疑ってはいなかったけど、身体が動かなくなってしまった。

幼なじみの彼は、5年前に大腸癌ステージ4と診断された。

それを知った時に、なんと声をかけていいのか分からなかったけれど、感情のままに電話をすると彼は出なかった。

しかし、メールをすると返事が返ってきた。

そこで改めて電話をすると、なぜかその後も彼は電話には出てくれなかった。

その時に、彼の覚悟と、事の重大さを知った。

そこで共通の友人(医師)に聞いてみると「これから治療をして、手術ができるようになると回復が見えてくる」と教えてくれた。

そして嬉しいことに、数ヶ月後に彼は手術を受けて回復に向かっていったのだ。

それから少しずつ仕事も再開し、趣味の1つであるサッカーもできるようになっていった。

そんなサッカーをした数ヶ月後に、今日の知らせが届いてしまったのだ。

まだ50歳手前なのに、彼は人生の幕を下ろしてしまったのだ。

メッセージをくれた名古屋の友人に返事をする前に、亡くなった彼を含めた昔からの幼なじみに連絡をすると、すぐにみんなから返事が来た。

そのやりとりのおかげで、少しずつ正気を取り戻していき、やっと最初にメッセージを送ってくれた友人に返事をすることができた。

お通夜は明日、そしてお葬式は明後日の月曜日。

明後日は平日で仕事の都合がつかないので、日曜日のお通夜に参列しようと思っていると、他の仲間も同じ考えだった。

そして翌日(日曜日)の午後には、みんながお通夜の会場である名古屋に集まった。

その中には、海外から急遽帰国した友人もいた。

悲しい再会ではあるけれども、久しぶりに会ったことで、照れ笑いも含めて笑顔になる場面もあった。

中には中学を卒業してから30年ぶりの友人もいて、懐かしい気持ちも芽生えるひとときだった。

しかし、いざお通夜の会場につくと、いやでも寂しい気持ちになった。

参列者にはすすり泣く人もいて、直視できていなかった現実を実感していった。

そして何よりも彼の家族を見た時に、こみ上げてくる涙を必死で堪えた。

彼には一人息子がいたが、僕の息子と同い年の中学1年生だった。

残された家族の悲しさは計り知れないものがあると思うが、大切な家族を残して逝ってしまった彼の無念さの方が、僕の心に強く残った。

彼の人生は好きなことにチャレンジした素晴らしいものだったけれど、それとは別に家族への愛情があったはずだ。

そこに関してはどんな捉え方をしても、言葉にはできない無念さがあったはずだ。

お通夜が終わり、最後に彼の顔を見ようとすると列ができていて、僕もその順番を待つために並んでいると、椅子に座っていた一人息子が泣いていた。

お母さんは喪主の役割があり、隣に座ってあげられないでいた。

一人ぼっちだった彼に声をかけようと何度も思ったけど、かける言葉が見つからなかった。

やがて列は少しずつ前に進み、その中でタイミングを失い、結局僕は声をかけられなかった。


第2章 父が教えてくれたこと


色々な想いを持って名古屋に行き、お通夜に参列したけど、終わってみれば呆気ないものだった。

お通夜は、時間にして1時間くらいだっただろうか。

もちろん、悲しく寂しい気持ちでいっぱいだったが、それ以上に脱力感というか、身体に力が入らないような感じだった。

お通夜が終わった時に、時間は19時を過ぎたくらいだったが、それぞれの家路までの道のりを考えると、それほど時間に余裕はなかった。

僕が帰りに乗った特急の車両にお客さんは少なく、ガラガラだった。

人には「運命がある」なんて言う人がいるが、幼なじみの死を「運命だから」なんて簡単には整理はできない。

でも、運命のような見えない力があることも感じずにはいられない時もある。

ふと電車の窓を見ると、そこに映っている自分の姿がすごく弟に似ていた。

こんなに似ていると思ったことは、生まれて初めてかもしれない。

そう思いながらまじまじと見ていると、僕の父にも似てるように見えてきた。

僕の父は、64歳の時に突然亡くなってしまった。

その時に、当たり前のことだけど「人は必ず死ぬ」と心の底から実感したことを覚えている。

僕が大阪に出張していると、母親から次のようなメッセージが留守電に入っていた。

お父さんが緊急入院しました。
どうなるか分からないけど、取りあえず報告します。

何となく嫌な予感がしたことを、今でも鮮明に覚えている。

そして、次の日の自分の予定を見てみると、1ヶ月に1度あるかないかの内勤日だった。

だから実家に帰ろうと決めた矢先、母親から電話があり「お父さんの容体が回復して、普通に話せるようになったから安心してね」と言われた。

安心したが、久しぶりに実家に帰れるスケジュールだったし、会社に有給の申請をして、出張先の大阪からそのまま実家のある茨城に戻った。

その晩は、母親と一緒にご飯を食べたが、お互いに「容体が安定して良かった」という安堵の気持ちでいっぱいだった。

父親は、同窓会で旅行に行った時に、宿泊先のホテルで気分が悪くなったらしい。

しかし一晩中我慢し、明け方になって堪えきれなくなり、自分で救急車を呼んだそうだ。

我慢強く強がりな父親が、自分で救急車を呼んだのであれば、相当苦しかったのだろうと推測できる。

だからこそ、容体が回復して本当に良かったと思っていた。

しかし翌朝目を覚ますと、母親に1本の電話が入った。

それは病院からの電話であり「容体が急変した」という知らせだった。

そこから病院で父の最期を看取る直前までの間の記憶が、ほとんどない。

覚えているのは、テレビドラマで見るような心拍数がゼロになり「ピー」という音が鳴り、お医者さんから「まだ声が届くと思うので呼びかけてください」と言われた場面だ。

状況があまりにも早く変化するので、思考が追いつかないし、現実を受け入れられないでいた。

それでも、父の死期は目の前に迫っていることを頭では理解していたと思う。

そこで再度お医者さんが「まだ声が届くと思うので呼びかけてください」と言い、僕の背中を押して、父の前に誘導してくれた。

ドキドキしながら顔を近づけてみたが、なんと言っていいのか分からない。

ここでお別れを伝えると、父の死を受け入れることになってしまうようなことを考えていた記憶があるが、僕は「ありがとう」と何度か声をかけたと思う。

そこからの記憶で覚えていることは、気丈に振る舞う母の姿と、父の最期に間に合わず、悔んで呆然としている弟の姿だった。

奇しくも、そのちょうど1ヶ月後に、父の初孫となる僕の娘が生まれた。

きっとここまで我慢したら「死ぬ」ということが分かっていたら、父はもっと早く救急車を呼んだだろう。

だけど、死んだ経験がない人にその境界線は分からない。

だから父が亡くなってから、僕は身体に異変があったら、大げさだと思われても、すぐに病院に行くようにしている。

それが、父から教えられたことの1つだと思っている。

そして実家と離れて暮らす僕は、父が亡くなってから、週に1回は母に電話をするようになった。

それまでは、母に連絡することが1年に数回あるかどうかという状況だったが、そこのコミュニケーションは劇的に変わり、15年経った今も週に1回は電話をしている。

これも、父が教えてくれた大切なことだと思っている。

また、生きているうちにしかできないことがあるということも、父が命を持って教えてくれた。

だから命があることに感謝し、できることを大切にしたいと思って僕は生きている。

そして何よりも父が教えてくれたことは「人は必ず死ぬ」ということ。

この感覚が、僕の人生観を変えたのだった。


第3章 天国にいる少年が見ている


(1)五体満足

僕は「生きる義務」があると思っている。

「生きる義務」と言うと、少しかたい表現かもしれないけど、生きる喜びや生きる楽しさではなく、生きる義務なのだ。

そんな風に考えるきっかけになったのは、1人の少年の存在だ。

その少年の名前は、ケンくん。

僕より3つ年下の男の子だけど、23歳8ヶ月で天国に逝ってしまった。

その時、きっとケンくんはもっと生きたかったと思っていただろうし、ご家族の方も、もっと生きて欲しかったと願っていただろう。

そんなケンくんが生きられなかった未来を僕は生きているんだから、喜んで楽しく生きなきゃいけない。

そんな「生きる義務」があると、僕は思っている。

適当に生きていると「それだったら、その命を僕にちょうだいよ〜」って言われちゃいそうで、天国にいるケンくんに見られても恥ずかしくない生き方をしようと思っている。

ケンくんは、生まれながらに重い心臓病を患っていて、生まれた時にご両親は「この子はそんなに長くは生きられないかもしれない」とお医者さんから言われたらしい。

僕とケンくんは直接友だちだったわけじゃないけど、母親同士が仲良しだったので、ケンくんの話はよく聞いていた。

そんなケンくんのことを僕が直接知るようになったのは、ケンくんが小学生になってからだ。

生まれた時に「この子はそんなに長くは生きられないかもしれない」と言われたケンくんだったが、ご家族やお医者さんのサポートもあり、小学生になっていた。

何よりも本人の努力があって小学生になったケンくんだったが、周りの子と比べて身体は明らかに小さかった。

そして何よりも特徴的だったのは、胸が大きく膨らんでいることだった。

何度も心臓の手術を繰り返して来たため、横から見ると、ケンくんの胸は大きく膨らんでいたのだ。

その姿は、小学生の僕にとってもびっくりする姿だった。

ケンくんは同情されることを望まないと思うけど、正直僕は「可哀想だな〜」と思っていた。

しかしその発言は、自分が五体満足でいることが当たり前という前提であり、大人になった今は、五体満足が当たり前ではなく、ありがたいことだということを実感している。

僕の長女が生まれてくる前に「ひょっとしたら、ダウン症のような症状があるかもしれない」とお医者さんに言われた。

しかし、それが生まない理由になるはずもなく、出産を迎えた。

結果的に大きな障害はなく生まれてきてくれたが、五体満足は当たり前ではないんだと思った。

そんなケンくんが重い心臓を患って生まれてきて、その後頑張って生きてきたから僕の心に残っているのではない。

そうではなく、彼の生き方とお母さんの関わり方が強く印象に残っていて「生きる義務」を感じるようになったのだ。

(2)お母さんの決断

好奇心旺盛なケンくんが小学生になると、1つのことに興味を持つようになっていた。

それは、サッカーだ。

しかし重い心臓病を患っているので「サッカーをする」ということは、当然ドクターストップの行為だ。

その重要性を誰よりも理解しているのが、ご両親だ。

本人以上に、ケンくんの身体を心配していただろう。

それは当然のことだし、僕も2人の子どもの父親という立場で、子を持つ親の気持ちは分かる。

だけど、ケンくんのような重い病気を持つ親の気持ちは、間違っても「分かる」なんて言えない。

どんな思いで、ご両親はそしてお兄さん(ケンくんには5つ年上のお兄さんがいる)は、ケンくんと接してきたのかは、僕には想像しかできない。

そんな中でケンくんは、サッカーがしたいのだ。

しかしご両親をはじめ、周りの人は「絶対にダメ」と考えただろうし、そうやって考えることは当然のことだ。

しかしある時、ケンくんの人生に大きな分岐点がやってきたのだ。

それはお母さんが「これはケンの人生なのだから、やりたいことを思う存分させてあげよう」と覚悟を決めたことだった。

つまりケンくんがサッカーをやりたいのであれば、思いっきりさせてあげようということだ。

そして病院に連れて行くようなことがあったら、親として何度でも病院に連れていってあげようというのだ。

果たして僕がケンくんの親だったら、こんなことができるだろうか。
考えるだけでも、胸が張り裂けそうな思いだ。

僕はこのことをケンくんが亡くなった後に聞いたが、このお母さんのような子どもとの関わり方は、なかなかできることではないと思った。

(3)生きたかった未来

ケンくんが生きたかった未来を、僕はおかげさまで生きているのだ。

生まれた時にお医者さんから「あまり長くは生きられないかもしれない」と言われた言葉とは裏腹に、ケンくんは小学校生活を力強く生きていったのだ。

中学と高校は、バスで通学した。

自宅からバス停までの道のりさえ、歩いていくことがきつい時もあったそうだが、お母さんは玄関で見送った後は、その背中を後ろから見守っていたそうだ。

ケンくんは高校を卒業した後、大学に入り勉強をした。

ここまでの生き様だけでも凄いんだけど、大学卒業後には大企業の身障者を雇用する枠で内定をもらい、地元のスーパーに就職することになったのだ。

今僕が勤めている会社にも、身体にハンディキャップを持った同僚がいる。

その彼は過去に交通事故に遭い、なんと2ヶ月半もの間、意識がない状態が続いたのだ。

後にも先にも、面接で涙が出そうになったのは、今のところ彼しかいない。

「本当に生きててよかった〜」と思っているし、一緒に働くようになってからは、彼が頑張る姿にいつも勇気をもらっている。

きっとケンくんが働いている時にも、周りにいる人たちは勇気をもらっていたに違いない。

そんなケンくんが働いている姿を一目見ようと、ある日お母さんがこっそりとその仕事ぶりを見にいくと、そこには店長から罵倒されるケンくんがいたそうだ。

こういうことが、色々なところで起きているのかもしれない。

お母さんは、さすがにこれは見ていられないと思い、ケンくんが店長の前からいなくなった後に「ケンの母ですが・・・」と、先ほどの態度に対する率直な感想と、ケンくんの心臓病を含めた身体のことを伝え配慮を求めた。

すると・・・この店長は、悪人ではなかった。

ケンくんの身体に不自由があることは分かっていたが、そこまでの重い心臓病を患っていることは知らず、その場で猛省しお母さんに謝罪したそうだ。

そんなケンくんが給料をもらい何に使おうかと悩んでいると、ケンくんのお兄さんが「ケンの好きなものを買えばいいんだよ〜」と助言をしたそうだ。

それを受けて、ケンくんは子犬(パピヨン)を買い、笑顔で一緒に写真を撮ってもらったのだ。

しかし、その翌日・・・ケンくんの容体は急変し、23歳8ヶ月で生涯を終えることになった。

今思えば、ケンくん本人もご家族も「その時」を事前に感じ取っていたのかもしれない。

そして何よりもケンくんは「もっと生きたかった」と思っていたに違いない。

そんな生きたくても生きられない命を考えると、僕には生きる義務があり、生きていること自体に感謝をするべきだと思うのだ。

そんなケンくんの存在は、僕の心の中でいつも生きる原動力となっている。

少しでももったいない生き方をしていると、天国から「それだったらその人生を僕にちょうだいよ~」って言われているような気になる。

だから、ケンくんの存在に心から感謝している。


第4章 僕の分岐点


僕は、43歳で脳梗塞になってしまった。

忘れもしない2018年11月22日の夜、メールをチェックしてから寝ようと思い、パソコンを見ると、文字が見えないのだ。

視界が真っ白とか、そういうことではなく、焦点が合わないのだ。

こういうことは今までにもなかったけど、次の日が休みで少しお酒も飲んでいたせいだったかもしれない。

ひょっとしたら疲れているのかなと思って、その日はそのまま寝ることにしたのだ。

しかし翌朝目を開けてみると、焦点が合わないどころか、見たことのないような幾何学模様の気持ち悪い世界が目を開けると広がっていたのだ。

今思えば、焦点が合わなかった前夜に病院へ行くべきだった。

人間は右目と左目でものを見て、その2つの画像を瞬時に焦点を合わせて、1つの画像として認識するんだろうけど、その機能が働いていないという感じだった。

2つの画像が1つにならずに、視線を動かすたびに2枚、4枚、6枚、8枚、10枚・・・と2枚ずつ画像が追加されていくような感じだった。

それが結果的に、見たことないような幾何学模様の圧倒的に気持ち悪い世界になったのだと思う。

目を瞑っていれば大丈夫なんだけど、当然これは異常な状態なわけで、すぐに妻が救急車を呼んでくれた。

目を開けられないので、救急車に向かう時にも救急隊員に家の中まで来てもらい、そこから両脇から支えてもらって、救急車まで移動した。

知らない人が見たら、連行されているような絵面だったかもしれない(笑)

救急隊員が受け入れ先の病院を探している中で、人生で初めて乗る救急車の中で僕はひたすら目を閉じて横になっていた。

横になっている間に、耳には救急隊員のやりとりが聞こえてきた。

その中に「脳梗塞の疑い」というキーワードが何度か出てきた。
そのキーワードを聞いて正直動揺した。

その時は、自分に起きている症状が、これほど大きな病と関係しているとは思えなかったが、気持ちはドキドキしていた。

自覚症状から、すぐ死ぬことはないと思った。

だけど、もしかしたら一生残るような後遺症があるかもしれないし、身体に不自由が残るかもしれないと思った。

一瞬不安にはなったが、すぐに自分の覚悟は決まった。

覚悟とは、不思議なものだ。

覚悟をしても、現実が変わるわけではないが、心は間違いなく変わるのだ。

ひょっとしたら、後遺症や身体の不自由が一生残るかもしれないけど、もしそうなったら仕方がないし、その現実を受け入れるという覚悟だった。

そしてそれを治すためにはどうしたら良いかを考えれば良い、ただそれだけのことだと気持ちの整理がついた。

「ひょっとしたら」とか「もしかしたら」と思うことのほとんどは、自分の力ではどうしようもないことばかりだ。

自分の力でどうしようもないことを、どんなに考えても、現実を変えられる可能性は0%だ。

だから自分の影響が及ばない範囲のことは、その現実を受け入れるしかない。

だから前向きという言葉の定義は「自分の影響の及ぶ範囲に注力すること」だと僕は思っている。

そんなことを考え、MRIなどの検査を受けていると、翌日正式に脳梗塞と診断された。

この時は両眼の焦点を合わせることができないという症状で、いわゆるロンパリみたいな表情だった。

そこから手術をせず、点滴とリハビリで2週間の入院をしただけで、無事に退院することができた。

僕の中では、この2週間の入院が人生の捉え方を大きく変える出来事であり、人生の分岐点となるものだった。

この2週間の入院で思ったことは、やはり家族のありがたさだった。
もし独身だったら、どれだけ心細かっただろうか。

いつも当たり前にいてくれる妻には、当たり前だが感謝だ。
そして、2人の子どもの存在も大きい。

家族の為にも、こんなところでくたばってはいけないと心から思ったし、そんな存在がいてくれることは本当にありがたい。

だからしっかりと病気を治して、前向きに生きようというエネルギーが全開になる。

お見舞いに来られなくても、メールやLINEなどで励ましてくれる仲間もいた。
本当にありがたかった。

脳梗塞という病名で不安になっていても、日常と変わらない行為をしているだけで、何か元に戻れるような気持ちになり安心するのだった。

この時に思ったことは、今まで目の前にあった「当たり前」のことは決して当たり前ではなく、感謝しなければいけないことだということ。

・家族や仲間への感謝。

・目を開けられることへの感謝。

・自分の目で景色を見られることへの感謝。

・自分の目で本を読めることへの感謝。

・自分の力で歩けることへの感謝。

(入院当初は、近くに壁がないと歩くことができなかったのだ)


今まで「ない」ことに目を向けていた時は、不満が先行していたかもしれない。

しかし、この入院を機に「ある」ことに目を向けるようになると、感謝しかないのだ。

だから、僕は43歳で脳梗塞になったことに感謝なのだ。

この入院で少し人生観が変わった。
それは、直接会うことのない人にも何かできることはないかと考えるようになったことだ。

世界には80億という人がいる中で、人生で直接会える人はごくわずかだ。

言い換えればほとんどの人とは、直接会うことはできないのだ。

だから、直接会うことのない人に喜ばれるようなことをしたいと考えるようになったのだ。

そこでまず始めたことは、ブログだった。

少し前から考えていたことだけど、この入院がきっかけで始めることができた。
ブログの開設も、入院中だった。

仕事では、自分の役割を全うする。
これは当然のことだ。

会社に不満は何もないし、感謝の気持ちでいっぱいだが、会社での役割以外に、自分にできることがもっとあるんじゃないかという思いがあった。

そんなブログだが、週に1回は何かを発信していこうと思って、気づけば5年も続いている。

そしてそのブログがきっかけとなりSNSを始めるようになり、さらには電子書籍も出版することになったのだ。

まさかこんなことになるとは、人生なんて分からないものだ。

だから、どんな出来事に対しても感謝して前向きに受け止めることができると、人生はハッピーになっていくのだ。


第5章 どうせ生きるなら


僕は、余命宣告をされたことがない。

もし今この時に「あなたの余命はあと半年です」と言われたらどうなるだろう。

きっと残り半年の生き方を考え、今までの延長線上とは違う過ごし方をするだろう。

なぜならば、死ぬ時から逆算して考えるからだ。

しかし、ほとんどの人は余命宣告をされずに生きている。

もちろん余命宣告をされずに、家族や周りの人にも迷惑をかけずに人生を終えたいと思っているが、自分のことでさえ未来がどうなるかは分からない。

でも平均寿命から考えると、大体あと何年ぐらいは生きられるということを計算することはできる。

しかしその計算に、どれだけの重みがあるだろうか?

僕の幼なじみは、50歳手前であの世に旅立ってしまった。

人の死は悲しいけれども、人の死から学ぶこともたくさんある。

僕自身の脳梗塞の時には、目の前の「ある」ことへの感謝を再認識し、これからの人生をどう生きたいのかを考えるきっかけにもなった。

この世には、生きたくても生きられない人がいる。

だから生きている僕らは、生きられていることに感謝し、人生を大切にする義務があると僕は思う。

そしてどうせ生きるのならば、楽しい人生の方が良い。

その楽しいという定義は、人それぞれかもしれないけど、僕は「最大の自己満足は相手に喜ばれることだ」という言葉が今のところしっくり来ている。

自分自身が楽しいと思える人生がいいんだけれど、それは1人で創れるものではない。

結局周りの人に「ありがとう」と言ってもらえたり、喜んでもらえるようなことが起きることで、自分も楽しめるのが人生なのだと思う。

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