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AI時代に必要なのは教養である

みなさん、こんにちは。
今日は、AIをテーマに書いてみようと思います。

AIについては、また別途しっかりと述べるものを書きますが、まずはライトなものから私見を述べようと思います。

タイトルにあるように、「AI時代に必要なのは教養」である、というちょっと皮肉めいた逆説的な内容を考えていきます。

私ごとですが、最近は業務でもゴリゴリAIを活用しまくっています。

日々のアイデアや文章作成、フィードバックはChatGPTに投げかけ、画像作成ではDall-EMidjourneyを使い、AI VoiceはNaturalReader、動画制作はSyntheasiaと、ここ2ヶ月くらいかなりAIに依存した業務を行っています。一人でできることの幅は本当に広がっています。

これまで上記のツールを使う前は、業務委託や社内での制作をしていましたが、8割のクオリティのものであれば上記だけで完結してしまう世の中になってしまいました。

これ自体は本当に驚異的だなと思いつつ、ただしまだまだ使いこなせていない自分自身に少しもどかしさを感じています。

そこで感じるのが、「教養」の必要性です。

どういうことかを述べていきます。


AIに命令するために必要な教養

まず基本的にAIを使うためには、命令、すなわちプロンプトの質が極めて重要になります。

一度はChatGPTやGeminiを使ったことがある人であればわかるでしょう。

抽象的な表現やざっくりとした指示では、期待されるアウトプットは得られません。

自身が期待するアウトプットに限りなく近い形で表現してもらうには、以下の2点が必要になると考えられます。

1. AIに命令をするための作法を理解している
2. 期待するアウトプットになるための前提知識を持っている

AIに命令をするための作法

「AIに命令をするための作法」については、どこまでの条件を細かく提示してあげれば良いのか、ということです。

例えば、あなたは数学の問題プリントを作りたい、状況であるとします。
その際に、AIに対して「数学の問題プリントを作ってください」と乱暴に投げるだけでは、確かに問題自体は作ってくれますが、自分の欲しい情報ではないでしょう。

「誰を対象に」
「どのような問題形式で」
「どのような難易度で」
「どれくらいの量で」

など条件を細かく提示することが必要になります。

さらに前提に立ち返れば、そもそもこのような条件を明確にしてあげなければ、AIといえど期待するアウトプットが出ない、ということを知っている必要があります。

それがすなわち作法を知っている、ということです。

AIなんてあてにならない。自分の欲しい情報なんてくれない。
と考える人は作法を知らないと言えると思います。

個人的には、人類がまだ到達していない領域、例えば、宇宙の解明に重要なニュートリノの研究や数学のまだ解き明かされていない問題などを除けば、AIは既にある程度のものは出せるレベルまで来ていると思います。

期待するアウトプットになるための前提知識を持っている

次に、「期待するアウトプットになるための前提知識を持っている」という部分についてですが、基本的にAIに投げかける前から、成果イメージがないと的確な命令はできません。

例えば、AIを使わずとも、部下やチームメンバーに仕事を振るときには「こんなイメージのチラシを作って欲しい」というのを持った上で、チーム内のメンバーに業務の依頼をすると思います。


AIに対しても同じで、ある程度の成果物のイメージがなければ、適切な指示は出せません。

つまり、成果物のイメージできるもの"のみ"にしか、命令はすることができない、ということであり、その成果物のイメージとは、これまで勉強してきた内容や経験に依存するというわけです。

その成果物を知っていれば、命令できますが、知らなければ、命令ができることすら認知していないことになります。

これは格差を生んでしまうでしょう。

AIから出てきたアウトプットを検査する教養

次にさらに大事になってくるのは、AIから出てきたアウトプットの検査です。実はこれがAIを使いこなすには必須の工程であると思います。

ChatGPTを使ったことがある方であればイメージできるかとは思うのですが、最初に作成したプロンプトだけで100%理想的なアウトプットを生む出すということは非常に困難です。(というかほぼ不可能です。)

そこで必要になってくるのは"検査(Inspection)"というプロセスです。

果たしてこの文章は正確なのか、このアウトプットに信頼性があるのか、など、最終的な判断についてはユーザ側に委ねられます。

しかし、肝心なユーザ側にそれを判断することができるリテラシーや教養がなければ、このアウトプット自体が良いのか、悪いのか、またどのように改善すれば良いのかの検討ができないわけです。

ここで例を考えてみましょう。

私は、非エンジニアですのでChatGPTに、あるWebサイトを構築したく、そのWebサイトについてのコードを書いて欲しいと命令をすることはできると思います。

そして、指示通りChatGPTは一瞬にして書いてくれるでしょう。しかしながら、私はそれが良いのか、またさらに良くするにはどのプロンプトにすればいいのか、判断がつきません。

もう一つ紹介しましょう。
ある日本語の文章をアラビア語に書き換えて、と指示を出したとします。

もちろん一瞬でChatGPTは表現してくれます。しかしながら、文章ですから、自分の表現したいニュアンスや使いたい単語の微調整は必要になります。私はアラビア語の挨拶すら知りませんから、どの部分の表現を修正したいのかの検討もつきません。

この2つの例にあるように、結局のところどんなに優れたツールを持ってしても、扱う側のリテラシーやスキルによって、アウトプットの限界値が決まってくるというわけです。

反対に、それらの教養を持っている場合は、これまでスクラッチから考えていたり、制作していた時の工数よりも1/5にも1/10にもなり得ますし、クオリティも高まるわけです。

AI時代に学校教育が果たす意義

さて、ここまでAIを使いこなすには教養が必要である、ことの理由について述べてきました。

そして、教養が大事である、ということは学校教育が非常に重要な役割を担うのではないかと思っています。

もちろん学校に通うこと自体について再考する流れもありますが、ここで言いたいのは、知識を習得する、必要性ということです。

AIが台頭していることで、もう私たちは学ばなくて良い、もう暗記なんて必要ない、という風潮があります。

確かに歴史の年号まで正確に覚える、ということ自体は必要ないかもしれません。

しかしながら、なぜこのような歴史になっているのか、どのような変遷を辿って今に至っているのか、など、教育課程で学ぶ内容については知っていた方が、AIのポテンシャルを最大限引き出すことのできる可能性がある、ということです。

つまり、AI時代はより教養の価値が高まっている、という風に言えるのではないでしょうか。

みなさんのご意見もぜひお聞かせください。

私が代表を務める一般社団法人国際エデュテイメント協会では、「今、これからを生きる力を。」を理念に教育事業を展開しています。

「どのような生きる力が必要なのか」、ということを考える上では、ほぼニアリーイコール「何を学べば良いのか」ということを考えることだと思います。

学生も社会人も、みなが幸せに豊かに生きるために「何を学べばよいのか」を考えるイベントを2024年8月7日(水)に開催いたします。

ここまで読んでくださった方にはぜひご参加いただきたいと思いますし、現在スポンサーも募集しております。

今日取り上げたテーマも含めて、当日はみなさんと意見交換をしたいと思います。

参加申し込みは上の特設Webページよりお申し込みが可能です。
たくさんのご参加お待ちしております。



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