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問うべき人間は誰なのか?

今日は「問い」について述べていきます。みなさんは「問い」と聞いて何を連想しますか?

最近では教育業界において「問い」という言葉を頻繁に耳にします。総合的な探究の時間や各教科において「問い」を立てることの重要性が多方面から言われています。

私自身も「問い」についてこれから考えるべきテーマだ、と漠然と感じているわけですが、「問い」と聞いたところで実際何を指しているのかよくわからず、そもそもなぜ「問い」自体が脚光を浴びているのか、真剣に考えたことはありませんでした。

バズワードのように「問い」を投げかけられればかっこいい、「問い」を立てられれば何か良い方向に向かうことができる、のようなイメージがありますが、いまいち自分の脳内では理路整然としていない状況が続いています。

そのようなわけで、タイトルにあるように問うべき人間は誰か、を本題にしていますが、そこに向かうまでに、まず以下の点を考える必要があります。

問いを立てるとは何か
・なぜ問いを立てることが重要なのか

問いを立てるとは?

タイトルの核心に迫る前に、まずは問いを立てるとは何か、からスタートしたいと思います。

問いを立てる、とは「考える」ことだという話を、これまた何度も登場している私の大好きなPodcast「超相対性理論」の"考えることを考える"の放送で述べられていました。

どういうことかというと、問いを立てると、当たり前ですがその問いに対する解を求めようとします

どうやら人間には問いを立てれば、その問いについて考えるという自動システムが組み込まれているようです。

例をあげると、自分はなぜ生きているんだろう、という問いを立てたとすると、自ずとその意味について私たちは考えを巡らせます。

このことから、問いを立てるとは「考える」の同義語として括られるのではないか、とPodcast内では語られていました。

人は”考えるため”に「問いを立てる」わけです。

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そして、追加でこんなことも経験はないでしょうか。

何か物事を考えようとしたときに、同時に頭の中で無意識にそのテーマに関連する問いを立てているという瞬間に。

例えば、”環境問題について考えよう”とする場合、皆さんはどう考えますか?

以下のような問いを立てることで環境問題について考えることを行うのではないでしょうか。

・環境問題にはどのような種類の問題があるのか?
・今、どのような課題に対してどのような活動をしているのか?
・人々の環境問題への意識はどれくらいか?
...etc.

考えるものがある時に、人は勝手にどう考えるのか、を考え、そのために問い立てします。

つまり、問いを立てる→考える、という順序だけではなく、考える→問いを立てるもしくは考える=問いを立てる、のような順序で頭の中で想像することもあるということです。

どちらにせよ、何かについて考えようとするときに、問いを立てもセットでついてくることがわかります。

問いを立てる、とは考えることなのです。

問いを立てる重要性

上の問いを立てるとは?について述べた通り、問いを立てる≒考える、ということが浮き彫りになってきました。

このことから言えるのは、昨今の”問いを立てることが大事だ”、という論調はすなわち、考えることが大事だと言い換えることができます

では、なぜ考えることが大事なのか。

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これは様々な場所で語られる、大量生産、大量消費時代に「大量に、早く、安く、正確に」が求められ、そこには明確な答えがあり、その答えに向かって効率的に業務をこなしていけば評価される時代、「読み書き算盤」の教育システムから変化が起こっていることが関係しています。

でもみなさん思いませんか、「読み書き算盤」だって"考える"ことは必要だということを。

問題を解くには考えるプロセスが必要になります。143,054+1,394,394=?という問題だって考えなければ解は導き出せません。

ここで違和感が生じます。では、単純な四則演算のように明確な問題を解くために考えることと、オープンな問いを立てた際に生じる考えること、とでは何が違うのか。

この二つの「考える」の性質の違いは、フレームワークの中にあるものか、そうでないかと言えるでしょう。

つまり前者は誰もが想像する答えがあるものに対して特定の方法で思考を巡らせ(考える)、後者は個々人がクリエイティブな発想で答えを探すために思考を巡らせる(考える)、という違いがあります。

そして、私たちが生きる現代社会においては言わずもがな後者が必要になっています。

なぜか。一時代前はメインストリームが一本あり、その道を歩んでいければ安泰だ、ということがありました。VUCA時代と称されるように、そういう時代でなくなってしまった、社会の多様化が引き起こしている、不安の表れや自分自身のインデペンデンスな振る舞いが必要になっている、ところから問いを立てる必要性が来ているのだと推測します。

問うべき人間は誰なのか?

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さて、いよいよ表題について考えたいと思うのですが、教育現場において最近では総合的な探究の時間やPBLへの注目が高まってきていますが、議論したい点としては「問うべき人間は誰なのか」ということです。

弊社も英語を絡めた探究学習的に学べる教材「Thinking Critically about SDGs」を開発しています。教材内ではCritical Questionと呼ばれる"答えのない問い"を用意しています。

「あなたにとってWell-beingとは何か」などオープンで自分の論をいかようにも構築できる問いがたくさん入っています。

また、学校現場でも先生が生徒に問いを投げかける場面が増えています。

つまり構図でいうと、先生 to 生徒もしくは教材 to 生徒といった形で問いが生徒に向かって発信されている関係性になります。

果たしてこの方向性が正しいのであるか、という点について議論をしたい点になります。みなさんはどのように考えますか?

個人的な見解として、この方向性は一定では正しいが、本質的には正しくない、と考えています。

理由を述べます。確かに上の「あなたにとってWell-beingとは何か」という問いに対してはそこに明確な答えがないので、様々なアプローチから問いについて考えることができます。そのような意味では、上に述べた後者の”個々人がクリエイティブな発想で答えを探すために思考を巡らせる(考える)”に該当します。

しかし、その「考える」では"まだ"不十分なのではないかと考えます。

なぜなら「超相対性理論」で言ってましたが、誰がその問いに対して主導権を握っているのかが重要とも述べられており、例えば先生から生徒への問いの投げかけに関して、生徒は「考えさせられる」わけで、問いの主導権は先生にあることになります。

また、教材も同じで、教材内に書いてある問いを単純に解き明かそうとするだけでは、問いの主導権は教材にあります。

では、問いの主導権は誰が握るべきでしょうか。

ここで必要となる重要ワードとして「当事者意識」「自分ごと」を取り上げます。これからの社会を生きるためには、自分なりの生き方を考え、実践する必要があります。この"自分なり"というのが"当事者意識"に該当します。

そのように考えると問いの主導権は自分自身になければならないのです。つまり自問自答をどれだけできるか、ということです。(Podcastでも同じことをおっしゃられています。ぜひご興味のある方は!)

つまり、何らかのテーマに対して自分なりに問いを再構築して、自分の問いにする、というプロセスがもう一つ必要となります。それこそが高次元に考えるということであり、問うべきものは自分にあるということです。

ここまでをまとめると、以下のように考える次元のレイアーを整理することができます。

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少し話が変わりますが、最近『ヴィゴツキー入門』(柴田義松 著)の本を読んでおり、本著では「科学的概念」と「生活的概念」についてが述べられています。学校で教えられる様々な概念や情報というのは長年の研究や積み重ねから導かれたFACTであるためこれらを「科学的概念」と呼び、授業では基本的に科学定概念を獲得しています。

一方で「生活的概念」というのは経験主義的な考え方で、自分が日常生活やこれまでの人生の過程で得られた経験の概念のことを指します。(こちらの内容も別のブログで書こうと思います。)ヴィゴツキーはこの二つの概念がお互いにドライブし合うことが子どもの発達には重要だと主張しています。

ここから何が言いたいかというと、問いの主導権が先生や教材であるかぎり、「科学的概念」の習得でしかなく、それはただの物知りであるだけです。一方で、自分ごとに落とし込み、問いの主導権を自分自身にすることに成功すれば、それはすなわち「生活的概念」と接続した問いになります。

つまり、より思考の発達には問いの主導権が自分自身であることが必要になります。

問いの主導権を自分自身にするために

だいぶ長くなってしまいましたが、問いの主導権は自分自身にあるべきだ、ということを述べてきました。

では、学校現場や教育業界においてどのように生徒自身が問いの主導権を握るようになるか、を考えるべきでしょうか。

まず大事なのはこの認識自体を教職員、教材開発者、教育に従事する人間が持つことです。

安易に生徒に問いを投げかけておけばいいや、と思っておくのは大変危険だということです。

それは「科学的概念」のみを押し付けているだけであり、これまでの知識伝達型教育となんら変わらない発想です。

一方で、生徒の発達段階において自らが適切な問いを立てられる力というのはまだそこまで養われてはいません。もしかしたら成人の我々ですらこの部分をトレーニングされてこなかったがためにうまく立てられないかもしれません。

しかし、問いの立てる精度を高めるために「科学的概念」が必要であるわけです。高次元な問いを立てるには、様々な前提知識が必要となります。ですから一定数の問いの発信というのは先生や教材からすることによって、生徒個人の想像の範囲外の「科学的概念」をインストールすることができます。

その上で、「生活的概念」との関連性を持たせながら、いかに問いを再構築し、自分ごとに落とし込めるか、という点においてあらゆる教育的なアプローチが必要になるということです。そのアプローチとして最近ではコーチングやファシリテーションといった役割が重要と言われているわけです。

これらを理解すると確かにそうだろうな、と腹落ちするのではないかと思います。少なくとも私の以前からぼんやりと思っていた「問い」ばかりが脚光を浴びることへの違和感について整理されたように思います。

みなさんも問うべき人間は誰なのか、について様々な意見をお聞かせください。



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