見出し画像

平等さではなく公平さを求めると吉 ーフィンランドと日本の教育の価値観の違いからー

本記事ではMr.Kから日本の教育への提言です。「平等さではなく公平さを追求しよう!」ということで書いていきたいと思います。なぜなら公平な教育が1番個別のニーズに対応でき、成長を支援できるからです。

なぜ平等さではなく公平さなのか。結論へ入る前にまず「平等」と「公平」の違いについて明らかにしておきます。

「平等」と「公平」の違い

この写真が定期的にTwitterでバズりますが、非常に分かりやすく両者の違いが表されていると思います。教育の文脈においてどう意味づけできるかというと、

平等(equality)=全員に同じ支援

公平(equity)=個に応じた支援


ということになります。公平さを大切にする文脈下だと、1人1人支援のあり方が変わってくるということです。1つ例を挙げましょう。

フィンランドではインクルーシブ教育を採用しています。発達障害のある生徒も通常学級で学ぶのです。ですが、必ずしも毎時間、教室で勉強しなくてはならないということではありません。グループワークが苦手な自閉症スペクトラムの生徒は授業の内容によっては別室1人で活動することもありますし、それが可能な環境を作るために、学校には支援員がいて、移動の際は帯同します。また、私が現地校で見たのは、定位置が本棚の上の男の子。彼は衝動型のADHD傾向があり、時に感情をコントロールできず暴れてしまいます。また、彼は紙で勉強するのが苦手。そのため、常にタブレットで学習することを許可されていますし、個人で行う活動の際はイヤホンをつけて自分なりに集中する環境を創っていました。すごい…やっぱフィンランド好き!また行きたい!

一旦落ち着きます。これが公平さ、ということです。それぞれの生徒に必要な支援が柔軟に行われています。なぜそれが可能なのかを書くとかなり長くなってしまうのでそれはまた別の記事で。

日本の学校は平等だが公平ではない

日本の学校は(というか社会全体が)平等主義です。社会に馴染めるように周りと同じことができる、ということを非常に強く強いられがちです(それが悪とは言っていません)。そこで漏れてしまうのが、先ほどのフィンランドの学校の例で登場してきたような、発達障害の子たち。特にグレーゾーンと言われる強い障害の度合いが診断結果として出ていない子たち。こういった子たちに対して適切な支援がなされていないがため、授業についていけなくなり、こぼれてしまう例を短いキャリアの中で既に見てきました。最悪なのが、そういった子達は「努力不足」として片付けられてしまうことです。「やればできる」の努力主義の国なので。。。。。平等だが公平ではない。私の実体験を踏まえてサポートがうまくなされていない例を紹介します。

(実体験)家では集中できるのに…

周りに人がいると集中できず話し出してしまうA。どうやらAは、中学時代はテスト前になると学校を休んで勉強していたそう。テスト前は授業中に自習の時間を設ける場合が多いと思いますが、周りに人がいると集中できないためです。そのためAにとってはテスト前の「土日は天国」なのです。Aがこぼれてしまってるのは努力不足だからでしょうか?もちろん他生徒に比べて勉強の絶対量は確実に少ないのですが、Mr.K的考えでは「Aが集中できる環境を学校が構築出来るルールになっていない」ことがまず問題です。図書室への移動OKにしたり、イヤホンつけて勉強OKにすれば良いだけです。シンプルに考えればいいのに…

もっと公平さを

もっと公平さを。具体的にいうと「個の特性を教員も子ども自身も把握できる仕組みを構築し、適切な支援が出来るように柔軟な学校文化を築いていこう」ということです。ここで厄介なのが異様に厳しい・不合理な学校校則だったりするのです。厳しさも一度見直す時代に突入していすね。

======================================
最後までお読みいただきありがとうございました😊 
記事が面白かったらスキを押していただけたら嬉しいです❤️
またコメント頂けたら返信させていただきたいと思います。

主な発信はTwitterで行っています。ぜひフォローよろしくお願い致します😌


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?