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愛について大学生が考えてみた!④Final

いよいよこれが年末から続けてきた僕の振り返りの最後です。

葛藤の状態から完全に抜け出せたわけではありません。ただ、今までの振り返りからなぜ「愛」にまでたどり着くことになったのか、それを今回はお話しさせていただきます。

大学4年間に数々の苦悩を体験した僕。それは以前の①~③でお伝えした通りなんですが、②,③の苦悩があってこそ、①のように世間を広い視野で見ることができました。だからこそ、この3つは僕の「愛の伝道師」活動のベースを支えてくれています。

キャラに苦悩したこれまでの学生時代

僕は大学4年間で数々の方とのご縁があり、そのたびに、様々なキャラクターを演じました。あるグループでは「真面目キャラ」として。ある時には、「盛り上げるキャラ」として。こんなことをしているうちに、自分がどこにいったのかわからなくなったのです。もしかすると、今このnoteを書いている自分もあるキャラが演じているだけなのかもしれません。このキャラ探しを僕は過去ず~っとしていたのかなと感じます。

それは、今もしているし、これから先もし続けるでしょう。実際、「愛の伝道師」も「愛について語る」というキャラなのですから。今までは、そうしたキャラを演じるのではなく、「ゆうき」として見てほしい思いが強かったんです。そんなキャラで自分が見られることに自分は耐えられなかったのです。

高校生の時に、「勉強できるキャラ」と認識されてから、「おれから勉強とれば何が残る?」と聞いた時に、何にも思い浮かばなかった友人を見たときにショックを受けたことを覚えています。それ以来、勉強することが怖くなったこともありました。勉強できるのはいいってみんなは思うけど、それをみんなが認知し始めると、勉強のことでは頼られるけど、それ以外では深い話まではされませんでした。果たして、僕の趣味を知っている人はどれくらいいるんだろ…とも思いました。(なお、大学に入って高校時代の友人と会って話した時は、僕のいろんな性格を見て驚かれます。それは、今となっては新たな一面を知ってくれて嬉しい気持ちはあります)

大学に入って部活に入っても仕事を淡々とこなすだけで「真面目やな」と認識されて、自分が真面目でないといけない「真面目キャラ」を演じることになったあの苦悩も覚えています。先輩には、「ゆうきは真面目なのが売りなんだから。真面目って努力で身につくってわけじゃないからうらやましいな」と言われました。けど、やっぱり腑に落ちなかったんです。それは、「真面目=おもんないやつ」という方程式に当てはめて、そう言われることは嫌で嫌でたまらなかったからです。やっぱり、高校生の時のトラウマ(?)みたいなものがあり、その一面で見られることで、残りの自分を捨象される気がしたのです。「僕の一面しか知られない…」そのことが怖かったんです。

以前にお見せした日記の中にはこのようなことを書いていました。

今まで自分は「本当の自分」というものを見せたことはない。いや、正確にいうならばどれが本当の自分なのかわかっていない。本当の自分がわからず常に自分は演じ続けている。その演じ続けた自分がどこに居場所があるのかわからなくなり迷いだしている。そんな中で精神的に疲れだしている。

青年期の課題で「アイデンティティの拡散」(エリクソン)というものがありますが、まさにそんな状態でした。「本当の自分」それがどこにあるのか、それを探し続けることがもしかすると、大学生の自分の課題だったのかもしれません。

過去と今での「自分」観の変遷

「本当の自分」は僕はどこにあるのか、それは今も知りません。ただ、それでも僕はそれを見つけることをやめたんです。

今までの自分なら、このキャラは分身であり、その分身の元の部分(核)は、失われることはないと思っていたんです。けど、分身がいろんな姿になっているから、その分身を追ったとしても、核なる自分がわからなくなる。「キャラを演じる根本の部分が本当の自分だ!」そう信じていました。どこか別のところに本当の自分なるものがある気がしたんです。それは、どんな状況下でも変わることのない自分です。しかし、その自分を探し続けても、キャラが増えていくばかりで、本当の自分がどこにあるのかわからず、パニック状態に。それが上の日記の「精神的な疲れ」となって表れたのかもしれません。

しかし、よくよく考えれば、キャラを演じているといえども、それは「自分」がやっているし、それを監督のように見ているのも「自分」なんです。自分が自分に指示を出していて、それを演者である自分が演じる。監督兼脚本兼主演のような感じです。別に、そこで自分という存在を細分化しているわけではなく、監督であっても、脚本であっても、主役であっても、全て「自分」がしているんです。キャラを演じるといえども、自分が細分化して、自分の一部を切り売りして、演じているのではなく、自分のすべてを使って演じている。「ゆうき」という核はずっととどまりながら、色々な場面で演じている。

過去…A+B+C+D+E+F…の集合体→「ゆうき」

今…Aにいるときの「自分」=Bにいるときの「自分」=Cにいるときの「自分」…

過去の自分は、数々のキャラの集合体、もしくはそれらの重なりの最大公約数的なものが「自分」だと思っていました。「真面目な自分」「盛り上げてテンションが高い自分」「ドジな自分」など。それらの輪の重なりの部分が、「自分」だと。ただ、そうなれば、重なり以外の部分は自分ではなく、だれか別の人間に(社会に)操作されていることになります。それが、「演じる」という言葉の背後にある「させられている」「操られている」感の原因だと考えました。その他者がハンドルを握っている雰囲気があったから、「それで本当の自分とみてほしくない」と思ったのでしょう。高校の時に、「勉強できる自分」は、自分でハンドルを握る部分があるけど、友人が操作している部分(例えば勉強できる自分を利用して自分の点数を上げようとしている)もあり、それのバランスが崩れたから、「勉強できる自分」として見られることに耐えられなかった。大学に入ってからの「真面目キャラ」もそのバランスが他者の方が大きくなったから、腑に落ちなかったのかもしれません。

そんな中で、②、③に書いたような経験を通して、その考えが変わってきました。そのキャラを演じているのも「自分」なんです。それが部活だろうと、Facebookだろうが、家族だろうが…それが「自分」なんです。なら、それを丸ごと受け入れる。それが必要だと感じました。

それは負の感情に支配されることもあったり、有頂天な気持ちになることもあるでしょう。ただ、その気持ちになっているのは紛れもなく「自分」なんです。デカルトの言葉にある「われ思う。ゆえにわれあり」に似た感覚でしょうか。

Aで盛り上げている自分がいる、それは「自分」の中にある「テンションが高い」自分が発露した結果。Bで真面目に仕事をこなしている自分がいる、それは「自分」の中にあり「真面目」な自分が発露した結果。

「愛の伝道師」も、自分が過去の様々な苦悩の中でたどり着いた「愛の必要性」が発露した結果だと考えています。

今まで「本当の自分はこんなんじゃない!」と否定していた自分が多いですが、それも自分じゃんと認めると、気持ちがかなり楽になりました。そう思ったのも自分なんだから、無理に「本当の自分」を探そうと思わずとも、それ自体が「本当の自分」じゃん、と。

最大公約数的な見方じゃなくて、その輪それ自体が、「自分」。そうやって重なっていけば、それが「自分」のいろんな場面で出てくる自分の共通項、ひいては、自分の中を流れている「自分の核」的なものなのだと考えています。

重なり=自分と思っていた過去から、重なり=自分を通底している「核」みたいなものと思考を切り替えられたんです。その「核」=性格というわけではありません。今まではその「核」探しに躍起になっていましたが、ある時を境に(それはいつかは正確には分かりませんが)その「核」探しをやめたんです。

「本当の自分」という表現も今考えると、おかしなものだなと上の日記を見ながら感じていました。

さて、こうした僕のいろいろな変遷を経て考えたこと。それは、孤独な感情や孤立の感情を抱きやすい中で、「愛」って必要だなということです。昨今、違いを強調すること、チーム的な意識が強まり、個性を出すことを言われながらも、個性なんて出すことを許さない社会。それが、より、孤独や孤立の感情を抱きやすくなっています。(それが現前することもありますが)

そんな時に少しでも「愛」があれば、変わってくるのではないかと考えたのです。傾聴や共感とはまた違う「愛」。当初は、この「愛」についても「本当の自分」的に、最大公約数的なものを探していました。しかし、それは結局、「愛とは…である」と決めて、それ以外を除外することになることに気付きました。孤立や孤独を味わいたくない思いが、逆に、味わわせることになる。そのため、僕はそれをやめて、今いろいろ言われている「愛」をいろんな方向でいろんな人と話して考えてみようと思ったのです。

人の生き方は人の数だけあるように、「愛」の捉え方も人の数だけある。ならば、それを味わい、尊重する。それが今の僕たちには必要なのだと考えました。そうしていく中で、傾聴や共感というものが登場し、孤独や孤立の感覚を持たずにすむ、と考えたのです。

残念ながら、僕の大学時代のような苦悩になってほしくないから、「愛の伝道師」をしているわけではありません。そうした人生訓的なものを教えるのではなく、自分の人生の中で「愛」ってどんな位置づけだったんだろう、「愛」について何を思っているんだろう、そのありのままの感情に従って見つめることを大事にしてほしい思いから「愛の伝道師プロジェクト」を始めました。

1回目は「愛の概念」2回目は「母性愛・父性愛」特別編では「不登校×愛」3回目では「恋愛」をテーマにありのままに自分の想いをぶつけていただきました。次回以降も、「愛」を伝導するよりは、「愛」を味わうことをモットーにイベントを企画しますので、お楽しみに。

長くなりましたが、これでひとまずペンを置くことにします。


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