第1稿:Z世代のキャリア闘争〜ハーフのもがきと苦悩〜
今までたくさん悩んできた。今も考えもがき続けている自分の気持ちを吐き出すためにこの文を投稿します。去るもの追わず来るもの拒まずの精神で徒然なるままに寄稿していきます。
まずは簡単に少年〜青年期を紹介いたします。その方が自分のキャリアについて共感をしてもらえると思います。
僕は1996年生まれの26歳。母親がフィリピン人で父親が日本人のいわゆるハーフとして生まれました。妹と弟は一人ずついます。生まれはフィリピンで半年くらいたった後に日本に来ました。東京都葛飾区の実家から通う形で幼稚園から大学まで過ごしました。
#1 はじまり~幼稚園から小学生~
幼稚園の記憶はほぼありませんが、友達とサッカーをしたり、放課後母親の迎えを待つために、延長で幼稚園に待機して先生と遊んだりした記憶が残ってます。
幼稚園から続けてきたサッカーを小学生でも続けましたが、足でボールを操るのが得意ではなかったため、小学校4年生の時に当時の担任の先生から誘われてバスケットボールに習い事を変えました。
それまでの僕はハーフであるというだけでいじめの対象になったことが多々ありました。外見上は初見でハーフということがわかるような見た目ではないのですが、ミドルネームがあるために、そこから端を発してイジリが始まりエスカレートしていじめに発展しました。
バスケットボールを始めてから、いじめを受けることが少なくなりました。仲間とバスケをする時間が増えたからです。バスケに打ち込んだ努力が身を結び、レギュラーとして試合に出させてもらうことができたことは本当に嬉しかった。
また、学業でも両親や先生に褒められたい一心で、サボることなく一生懸命勉強して、テストでいい点を取り続けました。小学校高学年では、勉強も少しできてスポーツもそれなりにできる子になりました。
今思うと、ルールに徹し、与えられたことを一生懸命こなすことを最良とするような考え方はここから僕の身に染み付いたのだと思います。与えられた課題を効率よくこなすことが自分の中の常識となっていきました。
#2 階層の自覚~中学生~
小学校卒業後、地元の中学に小学生からのバスケメンバーとともに進学しました。
手前味噌ですが、小学生の時に関東大会3位になったメンバーと引き続きバスケを続けたので、中学校でも常に区大会では優勝、都大会ではベスト8くらいの実力をキープしてました。最高で東京都3位になりました。
唯一小学生の時にキャプテンを務めていた子だけが進んだ足立区の中学校との試合でした。負けましたがいい思い出です。
東京都で上位の実力をキープできなくなったのは、僕も含めメンバー全員が小学生時代からある程度区大会で労することもなく優勝できるような実力だったため、それ以上を求める努力をしなくなったからです。
小学生の時は全国大会優勝を目標にぶち上げ狂ったようにみんなで努力しました。その時培った貯金で周りにある程度勝てていた状態です。
中学時代に後悔があるとすれば、みんなともっと真剣にバスケをやっていればよかったという1点のみです。自分は周りに合わせるタイプだったので、楽な方に流されていました。チームで頑張ろうと素直な心でみんなに声をかければよかったと今は思います。
学業の方は引き続き、承認欲求に絆され、それなりに努力を続け、大体学年で30〜20位以内くらいをキープしていました。高校受験を意識して2年生くらいから塾に通い出した人たちが上位にひしめいた記憶があります。
僕は中学生ながら、そこまで自分が裕福な家庭ではないことを自覚していました。なので塾に通うことは全く考えていませんでした。両親の負担になりたくなかったからです。流石にまるっきりの独学は不安があったので、進研ゼミをお願いして利用させてもらいました。気が向いた時に他の人の宿題をやる代わりに100円もらうみたいな小狡いこともやってました。
高校受験はもちろん公立一択、地元でバスケも強くて、それなりに勉強も頑張っている高校を選びました。いわゆる自称進学校というやつでしょうか。文武両道を推す偏差値60前後くらいの高校です。中学校3年時の担任から厳しいと言われた志望校でしたが、勉学の努力が身を結び、なんとか進学することができました。
ちなみにハーフですが、全く英語やタガログ語を喋れない方の残念なハーフです。勉学上のアドバンテージはなかったです。これが後々コンプレックスという形で僕の進学に影響を及ぼします。
少し長くなってしまいましたが、中学校までで一旦切りが良いので本稿はここまでにします。次回は高校〜大学までを寄稿します。
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