見出し画像

なんでも学校のせいにするなや

この記事、アクセスランキング1位(ダイヤモンドオンラインにて・1時間・8/9日13時現在)だそうです。

いやー久しぶりに素敵なタイトルの記事見ました(笑)

反射的に反論するのはよくないので、しっかり内容を理解することにします。

私が読んだ限り、筆者のメイン主張はタイトルに照らし合わせると

・公教育に批判的教育が足りない
・日本人が「扇動」に弱い理由を考えるべき

もちろん細かいところは色々あるのですが、この2つが大きいところかなと。

2つ目の主張には、私も概ね賛成です。「日本人が本当に扇動に弱いのか」ということの検証は必要だと思いますが、考えること自体はとても大事なことなので。

公教育には批判的教育が足りないのか?

何を持って足りているというのかが不明です。大阪府知事の発言があってもうがい薬が売り切れなければOKなのでしょうか。

そして、決して批判的教育は足りていないわけではありません。

国語や算数数学など、昔から「教科」と認められてきたものに関しては、確かにそういう視点は少ないかもしれません。しかし、「道徳」「総合的な学習の時間」ではそういった教育も十分可能です。

これをもしカリキュラムでガチガチにして、「批判的視点を育成するためにこういう授業をしなさい」なんてことになったら、それこそこの筆者は発狂して批判しまくるでしょう。

教育に正解はありません。「起きていることは全て正しい」という勝間和代さんの著書がありますが、このタイトルには私も非常に共感できます。各々の生き方の集合体が世間であり、起きていることそのものだと考えているからです。

これを欠陥だと断言するならば、あなたは今までなぜそれを放置してきたのか、そしてなぜ記事の筆者はその欠陥のある教育の中で批判的思考を持てたのか検証して欲しい。筆者だってその公教育を受けてきたわけでしょ。

批判的教育が足りないというのは簡単ですが、「なぜ足りないのか」という視点まで掘り下げないといけませんよね。(今後記事にするのならすみません)

だったら教育公務員の価値をもっと上げてよ

で、色々な事情で各々に任せられている「道徳」や「総合的な学習の時間」ですが、当然人によって熱意の差が現れます。そういったことに前向きになって色々挑戦する学校や先生、逆に面倒だからやらない学校や先生。

当たり前です、教育公務員は努力をしてもそれが認められて何かに反映されることはありません。給与も上がりません。

なぜかってのは2つ。1つは「公務員だから」というどうしょうもない理由。もう一つは「活動の評価が難しい」点です。

どんなに努力して素晴らしい授業を展開しても、「この授業は素晴らしい」というのをどう測るかが難しい。それは先にも述べたとおり、「教育に正解がない」ことが源流にあるからです。ある人から見て素晴らしいと思っても、他の人はそう思わないかもしれない。生徒自身なんかは低学年であればあるほど「授業の評価」はできない。面白いか否かだけが判断基準。

逆に言えばそれが教育の面白いところでもありますけどね。全て自分の力量次第。

話を戻すと、正確に評価されることがほぼ不可能な中、そこまで本気で研究して授業を組み立てる熱意と根性はもう本人次第なわけですよ。努力しようがしまいが評価は同じなんだから。

そんな中で良い教員をたくさん確保したいのであれば、やはりなんらかの形で教師の努力を評価する方法を確立すべきなのではないでしょうか。時代はもう変わりつつあります。もっと教育公務員の価値を世の中が認めなければ、優秀な人は別業界にとられてしまいますよ。もうとられているけど。

家庭での教育も見直してください

最後に大事なことを一つ。

教育は、学校だけで行われているのではありません。家庭でも行われています。

現状を嘆くのは構いませんが、それで世の中が変わるわけではない。ならば今自分ができることに注力するしかないんです。

もし公教育に不満があるのであれば、それを家庭で補う努力をしてみてはいかがでしょうか。愚痴ったって何も変わらないですよね。

家庭と学校、互いに補い合えばもっと子供達を成長させることができると思いますよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?