饒舌なアート、寡黙なアート〜親子のための批評入門
アートにもトレンドがあるようです。
東京都写真美術館
国立西洋美術館
東京都現代美術館
最近訪れたこれらの美術館での展覧会でふと気づいたことがありました。
というのは、
言葉とセットになっている作品が、すごく多い。
こういった作品をみているうちに、私はなんだか頭が混乱してきました。
言葉で作品を補完するというのはいかがなものか、
といったことを言いたいのではなくて(言葉という素材を使うのもまたアリでしょう)
ただその場合、二つのことに留意する必要があるんじゃないかと思います。
一つは、添える言葉にも、相当に気を使う必要があるということ。
二つ目は、添えた言葉を「律儀に読む」「流し読み」「読まない」「読めない」といった4パターンの鑑賞者が現れることになる、ということです。
その鑑賞者たちは同じ空間にいながら、全く違った作品を見ていると言ってもいい。
作品の見方なんて決まっていないのだから、問題はないのですが、
私はちょっと頭がぐるぐるする。
全く違うものを見ている(少なくとも)4種類の人間たちが一つの場所にいる。これこそが日常を異化するという体験にならないか?
人間なんて目が開いているようで開いていないようなもんなんだから、見えてるものが違くても当然、と言われれば、まあそうなんだけど、この現象が言葉によって引き起こされている。
それがなんだか奇妙な構造を作っているように思う。
むーん。
もしこれを完全に狙ってやっているクリエイターがいたなら、なかなかのものだなぁ。
まぁ、そういないだろうけど。
おそらく作品そのものより、クリエイターの狙いの外で起きているこの現象の方が、よほどアートっぽい。面白い。
お邪魔します〜アイヌ文化に闖入者
子供と美術館(博物館など)に行くと、作品をゆっくり見ることができません。
言葉の多い展示でも息子は読めませんから、パッとみてつまらなければ、さっさと先に進んでしまう。
私は「あ、あ、ちょっと、」と言ってる間に引っ張られてなかなか立ち止まれない。
つまり、キャプションを
「読めない」×「流し読み」
という組み合わせの親子ということになります。
この展覧会で変わった展示がありました。
(変わった展示ばかりだけど)
展示室に入る前にパスポートの内容を確認し、署名した人だけ入れる部屋が、まるっと作品になっているのです。
その部屋はアーティスト本人の「くつろぎの空間」でそれを尊重して鑑賞できる人だけ入ってくださいとありました。
どきっとしますね。
簡単に署名なんかしちゃっていいのかしら。
ささっと署名し、アイヌに関する何かの作品なんだなということしかわからずに入ると、ある程度の広さのある空間に
壁に貼り付けたぬいぐるみ(大小20個ほど)
テレビ、ラグ、一人掛けソファ。忘れてしまったがテレビには何かの映像。
別の場所にローテーブルとゆったりした大きなソファ、テーブルの上には自由に見てよさそうな雰囲気の写真集などが置かれており、ちょっとした置物もある。
低い棚には本と熊の置物(熊が鮭を咥えているあれ)その他のインテリアと
部屋の中央に大きなベッドが置かれていました。
ベッドの上には、おそらくアーティスト本人でしょう、クッションを背に当てもたれかかり、何やら紙の束を整理している人がいる。
そしてこの部屋、すごく暗いんですね。
真っ暗ではないけれどかなり暗い。
全然見えないよと思っていたら懐中電灯が用意されていました。
ライトで照らして見ていると、息子がうるさい、俺にもよこせと言ってきかない。
私の手からライトを奪うとスイッチをカチカチカチカチ点けたり消したり。
やめなさいやめなさいと言って奪い返すと、今度はくるりと背をむけ、しっかりとした足取りでベッドへ向かっていく。
(ダメ、息子、ダメ…!)
と心で叫んだところで息子の背中は遠のくばかり。まあまあの声の大きさで
「この人なにしてるの?」
小首を傾げる17kgの四歳児を担いで
(お邪魔しましたーー!)
素早く立ち去りました。
そういやこの人パスポートに署名してないしな。
ただ、説明文を「読めない」彼にとっては、
この「この人なにしてるの?」はもっともな疑問でもあります。
聞いてないからね、尊重せよとかね。
「まぁ、子供だから」と済ますのは簡単ですが、ではその「子供」とは。
アイヌ文化という、多くの人にとってよく分からないものに近づこうとする中に、アイヌ文化と同じくらい(いやそれ以上か)分からない生き物が闖入する。
アイヌと四歳児という「ねじれの関係」を目撃するのもまた一興です。
(たぶん)
君のそのムーブ、悪くないよ。
はじめの一歩を踏み出す人
10年ほど前、小説家を志す青年と話をする機会がありました。
彼はすでに匿名の掲示板で作品をいくつか発表していて読者もちらほらいるらしい。
彼の最近の悩みは、自分のホームページを作ろうかどうしようかというもので、私なんかは作っちゃえばいいじゃん、掲示板から読者を引っ張ってくればいいじゃんと思っちゃうのですが、
「ちゃんと読んでくれる人ならいいんだけど…」
というのが彼の不安なポイント。
(まあね。批判してくる人もいるよね。クソつまんないとか、パクリとか)
「いいじゃない。どこに出たって批判はされるだろうし」
「まぁ、そうなんですけど」
「むしろ批判でもなんでも受け付けますって窓口をちゃんと置いておいた方がいいんじゃない?」
「そういうもんですか?」
「書くことにずっとずっと真剣になると思うよ。本名じゃなくてもいいからさ」
いいじゃないか。
君がまず書くことで誰かの批評が始まるんだから。
最初の一歩を踏み出した時点で、君はまず一勝しているんだから。
いつでも初めに踏み出す全てのクリエイターに敬意を表し、
私も批評をやってみようと思う。
親子のための批評入門〜私を動かすもの
批評と聞くと、なんだか難しく聞こえますね。
多くの人にとって、“批評”は遠い。
アイヌとどちらが遠いだろうか。
批評って、きっと偉い人がするものなんだろうな。
そう思っている方もいると思います。
しかしここはnote。
ひっそりと温めておいた批評の芽に水やりしている人もいる。
では批評とは何か。
簡単に言えば批評とは、比べる作業です。
どんどん何かと比べてみればいい。
同時代の別の作家であったり、
一人の作家の処女作と晩年の作品であったり、
古い概念と新しい概念
洋の東西
親子できたなら、お互いの感想を話し合う
などなど。
これらに物差しをあてがって
「ふんふん、こっちが長いのね」
「あらぁ、意外に小さい」
と、比べっこ。
ただし、この物差しは単なる物差しではあってはいけない。
批評家は、測量技師ではありません。
批評を通して新しい価値観を切り開くのが批評家ですから、彼らもまたクリエイターなのです。
ですから当然、批評家の使う物差しは彼ら自身の肉体と言葉から作られた、「完全なオリジナル」の物差しでなくてはならないのです。
他人から見ればナンセンスな物差しであっても、本人だけは
「フン、俺の物差しの餌食にならなくてよかったな」
なんて思ってたりする。
大事に懐にしまっておく。
自分でこしらえた物差しではなく、どっかから借りてきた物差しで測ろうとする人間は、
批評家ではありません。
では、知識もないし経験もない、ふらりと美術館に訪れた人はどうやって比べればいいのか。
そんな時は、その作品を
「知る前の自分」と「知った後の自分」
で比べてみる。
絵画であれ小説であれ、音楽、演劇、映画なんであれ、
「知る前の自分」にはもう戻れないな、と思わせる作品。
「知る前」と「知った後」で鑑賞者を動かしてしまう作品。
それこそが価値のある作品だと言えるでしょう。
饒舌なアート〜みんなでハイキングに行くような
しっかり説明文が用意されている作品。
鑑賞者が道に迷わないよう、ガイドラインが示されている作品。
これらはとても賑やか。
みんなでわいわいお喋りしながら、高尾山を登るようなものかもしれない。
顔を見合わせつつ、みんなで山頂を目指す。
とても賑やかな、饒舌なアートです。
アーティストが普段感じていること、考えていることを文章でまず先に知ると、
次に見る作品は、アーティストの主張の「こんなふうに」の部分にあたるのではないかと思います。
言葉では伝えきれないことを、作品を用いて「◯◯のように」という直喩の形で拾い上げる。
あの手この手でわかってもらおうとする。
仲良くなりたいと思う。
どうしてもお喋りになる。
饒舌なアートとは、
伝えたい気持ちの溢れるアートなのでしょう。
寡黙なアート〜「赤い部屋」の静けさ
東京都現代美術館には、通称「赤い部屋」という作品があります。
現美の所蔵作品です。
先ほどの多弁なアート群とは対照的で、タイトルこそありますが、このように鑑賞してくださいという但し書きはありません。
とても広い展示室に
電光掲示板だけがチラチラと赤く光っています。
静かな空間です。
企画展ではないので人もまばら。
ベンチに腰掛けてふぅと息をつき、ぼんやりと眺められます。
目の奥が温かくなるような気がする光です。
息子も黙ってママの横に座りました。
子供だからといって、ところ構わず騒ぐわけではありません。
彼らはわかっているのですね。
作品がどのように語りかけてくるのか。
この作品にも勿論、作者の思いというものはあるでしょう。
けれど見ている私たちは、その思いに気を遣うことなくいられる。
作者の顔は見ずに、目的地も意識せずにいられる。
寡黙なアートは、私が私のためだけに、自分の内側だけに目を向けることを、許してくれる。
しばらくすると息子は、ゆっくりと部屋の中を歩き始めました。
静かに歩き回る様子はまるで、
作品の周波数と、彼自身の音叉を響き合わせているかのようです。
批評というより、これは対話だ。
私はそう思いました。
話し合うには、
十分な静けさでした。
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