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令和の育児『読み聞かせ』〜親子のための読書論 (あるいはK君への罪滅ぼし)

先日、親代わりのおばとLINE通話をしていた時です。
70歳をとうに過ぎているからなのでしょうが、彼女は矍鑠と言います。

おば
「私はしっかり終活してますから!部屋にも物を置かないようにしてるの。あなたに迷惑かけるつもりはないから安心してちょうだい!服も捨てたし、本も捨てたわ。」


「(物がないのは前からだけど)すっきりしたなら何よりです。うちもそうだよ、私なんていつも同じ服着てるし。本もほとんど図書館。読むべきものは大体あるからね。買うことはなくなったなぁ。」

おば
「あなたはそれでいいけれど、子供の本は買ってあげなさいよ。人生の長さが私やあなたとは全然違うんだから」


「いやいや、買うときもありますよ」

おば
「買うときもじゃなくて、なんでも買ったらいいじゃない、子供の本くらい!」

彼女は老後を気ままに過ごすため福岡に移住しました。
移住先で毎日ジムのプールに通い、年間少なくない数の(フル)マラソンを走り、マンションの自治会で会計と草むしりを担当し、
「習い事を始めるなら何がいいと思う?今考えてるのが、ピアノか将棋なんだけど、どっちがいいかしら」
と“終う”気があるんだかないんだかわからないことに悩んで、だいぶ、だいぶ丸くなったなぁと思うのですが、孫のこととなると、可愛いんでしょうね、口うるさくなります。

おば
「私、あなたには本は際限なく買ってきたと思うわよ!」

(はい。そうですね。)
「今度福岡で一番大きい書店にいく」約束をして通話を切りました。

福岡で海を見ることを息子は楽しみにしています。


令和の『読み聞かせ』事情

前回の記事でも少し触れましたが、今も昔も子供には本を読み聞かせしましょうということになっていて、それはいいんですが、
就学前に一万冊(一万回)の読み聞かせをしましょうなんていう育児書もあるようで、読み聞かせをすると頭が良くなる(東大生は子供のころから読書していた)という話を結構本気で信じて頑張って読み聞かせしている親御さんもいます。
保護者会で「なかなか読み聞かせができない」と悩むお母さんを見ると、そんなに気にしなくてもいいように思うのですが、よその家のことなので何とも言えません。
本好きの子は放っておいても読むし、読まない子は読まないんじゃないかな。そもそも本を読まないといけないってのも変な話だし。

どうもねぇ、モヤっとするんですよね、「読み聞かせ」。
令和の「読み聞かせ」の何が気持ち悪いんだろうと考えてみたんですが、
単純に下心が気持ち悪いんだなと思いいたりました。
親の「頭が良くなる」というご利益を期待する下心がなぁ……。
子供のころの私が、大人のそういった下心に嫌悪感を覚える質だったのもあると思います。子供だから褒めておけば喜んでやるだろうとか、大人の求める程度にできてほしい、できなくていい、とか。
それに、そもそも本を読んだくらいでIQが上がるかね。
んなこたないだろ。
東大生はみんな本を読んでるとか、
ピアノができる子に東大生が多いとか、いうけれど
東大に入るような子は本“も”読んでたんでしょうね。
ピアノを、習わせると頭が良くなるわけではなく、頭のいい子はピアノ“も”できる。

本当に本を読む子に育ってほしければ、(当たり前っちゃ当たり前ですが)親がまず読むのがいいと思います。
それでも読む子は読むし、読まない子は読まないけれど、少なくとも「大人は本を読むもんなんだなぁ」という前提は作られるのではないでしょうか。
そういう環境にあったから、なんとなく読むようになったという子も勿論いるでしょう。
親が読まないのに読め読め言ってもね。
私が子供なら「は?本を読んだくらいで私の頭が良くなると思ってんのか?お前の遺伝子積んでんのに?」くらいは思います。


読書は毒でもある

学生時代の友人にK君という読書家の男の子がいました。
下宿先のアパートの部屋の四方の壁は積みあがった書籍で確認できず、本はカビが生え、もうちょっとでキノコも生えそうな勢い。
よれよれのシャツで登校し、ひどいチェーンスモーカーで明らかに健康を害している。その割に人懐っこく、目上の方でも先生でもグイグイ絡みにいくけれど、普通は言わないような失礼なことを言って叱られて、それでもめげずにくっついていく。
友人関係もだいたい同じで、憎み切れない困ったちゃんでした。
とにかく本を読みすぎて、観念の世界に生きている。
現実の、個別具体的なことが考えられず、人との距離がてんでとれない。
文学の話をする時だけなんともおいしそうに煙草を吸い(普段はマズそうに吸っている)お酒が入るとすぐ怒る。
「K君てさぁ、生まれる時代間違えちゃったんだろうね」
そう言う友人もいました。
明治の中頃にでも生まれればよかったんでしょうか。

昔、町田康がこんなことを言っていました。
「俺が蜂なら志賀直哉の前では絶対に死なない」

私は思いました。
「私が大根や南瓜なら明治に生まれたK君の前で、絶対に転がっているわけにいかない」

本を読みすぎるとK君のようになると言いたいのではありません。
彼は自分の読める量以上の本を読んでしまった。
それによって自家中毒を起こしてしまったのだと思います。
用法・用量は守って、自分が読める分だけ読むべきかと思います。

いいじゃないか、スローリーディング

読書に数値目標を設定すると、しんどくならないだろうか。
大人はそれでもいいと思いますが、子供と一緒に読むんだし。
なのでうちの場合は本当にゆっくりゆっくり読んでいます。
つい先日「古事記」を読み終わりましたが、これは二か月ほどかけて読みました。

一日4ページほどのスピードで、寝る前に。
全てのページに挿絵があり、これがなんともかわええ。
対象年齢が少し上の本なので、5歳の息子にとってはわからない言葉も多く、それを一つ一つ解説していくと、なかなかの量になります。

例えばこのページ

とうとう、こうさん、ひれふし、あらそい、したがう、ちかった、つかえる、おさめる、はるばる、たずねる、つげる、やどる、いよいよ、お産

この2ページだけで、これだけの数の単語を一つ一つ説明します。
辞書を引いたり、例文をいくつも考えてみたり、実際に「ひれふし」てみたり(へへーっとやってみる)、息子が「そゆことね」と納得がいくまで、やってみる。
地名や動植物の名前も、スマホや地図で調べてみます。

一緒に声に出して読んでみるのもいいと思います。
書かれた言葉は、どこかで誰かが息をしながら書いたものです。
作者の息継ぎの仕方や、間の取り方を、読む方もなぞってみると分かるのは、心地よい呼吸もあれば、しっくりこない間の取り方もある、ということ。
頭で理解するだけでなく、体を使って読んでいく。
自分に合っても合わなくても、少しだけ深く、他者を理解できたような気になる。
そのことがただ、面白い。


そもそも本を読まないとダメなのか~リャマを飼い生きる

世の中には当然、読書というものが存在しない世界線もあるわけです。
昔、何かの映像で、アンデス山脈の高地に暮らす家族の様子をみたことがありました。
標高5000mを超える地域は一日の寒暖差が激しく、人が生活するのに快適な環境とはとても言えません。空気は乾燥して、浴びる紫外線の量も都会の比ではないでしょう。
その家族はリャマを飼い、畑を耕しジャガイモを育て、夜は灯したランプの明かりで糸を紡ぐ。小さな娘はもっと小さな弟を背負って、これまた小さなアルパカの世話をして働いている。それでもやっぱり子供なので、家畜と遊んでしまうのがまた愛らしい。
あの独特の配色をした民族衣装を着て、神や先祖に祈りを捧げ、歌い、踊る一族の長である父親が、岩に腰掛け両手を後ろについた体勢で、コンドルが大きく弧を描く空を見上げる。

その目が深い。

自然のなすままに身を置いてどのぐらいの歳月を過ごせば、あのような目が出来上がるのだろうか。
私がこの先、数十年生きたとしても、私の目はあんな風に深まることはないだろうと、当時も今も思います。
どこの国のどんな人間でも、子供の目は変わらないのに、大人の目はこんなにも違うのか。
私がこれまで、これから、どれほどの本を積み上げて読破していったとて、彼らより、より多く、より深く、物事を理解することはできないのだろうな。

しかしだからこそ、本を読んでいきたいとも思いました。
自然に教われないのなら、せめてそれを本の中に求めてもいいのではないか。


私はなぜ読み聞かせをするのか

ここまで書いてきましたが結局は、本を読むとどうなるとか、本はよむべきなのかとか、本を何冊読んだとか、
そんなことはかなりどうでもいい話なんです。
どうでもいい。
身も蓋もないのですが、読みたきゃ、読めばいい。

じゃあなぜ私が、毎晩息子に物語を語るのか。
その理由を述べるにあたって、さっき腐した彼の名誉のためにも記しておきたいのだけれど、K君の言葉をそのまま引用したい。

文学こそが確かなものだと僕が言い切るのは、文学に対する絶対的な信頼感があるからです。
ではその信頼感は何からくるものかと問われれば、「文学によって救われたという経験」と答える他ないように思います。

若さも美しさも何もない貧村でゾッとするほど美しい景色を見たり、
己が運命を自嘲しながらも禁じ得なかった男の涙や
素朴な善意があらわれるハッとするような人の表情
村人の勘違いによって崇められる犬や、部屋を泳ぐ魚
三度の理不尽に山賊へと転身した生真面目で善良な男
セメントになった男
一流ホテルのラウンジで片足を上げて座るはすっぱな少女の膝小僧

それもこれも、
私は本を読むことで見てきました。
絵が見えた。
そして確かにそれらに救われてきた。

息子がどう感じるかはわからないけれど、
私は自分が「これは確かだ」と言い切れるものを、息子の手にも握らせたい。

所詮これはママの自己満だから、いらなければ捨ててくれても構わないよ。
でもどこかで必ず、物語が君を助けてくれるはずだと、ママは信じているんだよ。


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