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会議は踊る、されと進まず

会議や話し合いで結論にたどり着かず、延々と進まないことはないだろうか?
なぜそうなるのか、議や話し合いなどの「議論」の本質について考察してみよう。

まず議論の目的は何か?それは言うまでもなく、皆が納得する結論を得ることだろう。
しかしその内実を見ると、結論への志向性が2パターンに区別できることが分かる。

1つは最も理想的な答えを議論の参加者全員で目指すもの。
もう1つは、議論の参加者それぞれが自身に都合のよい結果となるように主張し合うものである。
前者をイデア型、後者をゲーム型と呼ぼう。

イデア型は、議論参加者が皆で知恵を出し合い、理想的な結論を導こうと協力しあう形態で行われる。

ゲーム型議論の典型は外交交渉である。
「会議はおどる、されど進まず」の語源であるウィーン会議も一種の外交会議だ。参加者は最も自国の利益につながる結果を望み、あとは双方がどこまで譲歩できるかその妥協点を探すための議論である。
つまり参加者各自の理想的な結論すでに決まっており、その結論同士が対立する関係にあるため、その均衡点をどこに見出すのか、というのが議論の目的になる。
もし参加者全員が自己の理想的結論に拘泥する場合、いつまで経っても決着が着かず、まさに「会議は進まず」ということになる。

この2類型の議論のあり方を念頭に置いた場合、一番の問題は、あなたがイデア型議論のつもりでいるのに、参加者の中にゲーム型の議論を仕掛けるものがいた場合である。
イデア型の場合、理想的な結論を導くためのものであるから、その目的を達成するため、参加者は自らが持っている有用な知識や情報を共有する。皆の知恵を出し合う事で、よりよい結論に至る可能性が高まるからだ。
ゲーム型議論の参加者は自らの主張を通すことが目的だから、自分の主張が不利になるような情報は隠そうとするし、逆に有利な情報は誇張して伝えようとする。ともすれば、口先三寸であることないこと話し、自分の主張が優勢になるように策を弄するものもいるであろう。
イデア型の参加者であるあなたは、皆で協力し最適な結論に向けて議論を進めているつもりなのに、いつの間にかゲーム型参加者の都合のよい結論に導かれている、といこともあるかもしれない。
したがって議論に臨むにあたっては、議論場での相手の発言をそのまま受け取るだけでなく、相手がその発言をしている意図までを汲み取ることも重要になる。

ゲーム型議論の説明の際にも述べたが、議論が長々と続き決着がつかない場合、ゲーム型参加者が全く譲歩する姿勢を見せない、という状況がありうる。
外交交渉は国民の利益を背負って行うものだから、絶対に引けないという状況がありえるだろう、ということは理解できる。そして国民でなくても例えば、会社や部署、家族といった自分以外の誰かを代表して議論の場に立っている場合も簡単には引けないという気持ちは想像しうる。
しかしそうではなく、議論の場で相手を説き伏せることそのものを目的として、あるいは自身の威厳やプライドを保持するため、自分の主張を認めさせようと一歩も引かない者がいる。
これが一番厄介な「会議は進まず」の要因である。

「論破」という言葉がある。
議論により相手を打ち破ることを意味する言葉だ。
この言葉は議論に勝敗があることを前提としており、したがって、ゲーム型議論を想定した言葉である。
外交交渉のようなゲーム型にならざるを得ない議論ならまだしも、そのような場でないにもかかわらず、「論破」=「勝利」=「良いこと」と論破をすることを勲章のように思い込んでいる人をたまに見かける。
そのような人にとって、理想的な答えを探すことは二の次で、相手を言いくるめ自分の主張が認められることそれ自体が目的となる。
本来イデア型の議論をすべき状況下において、それは本末転倒である。
彼の主張が理想的な答えから外れているのであれば、真の目的到達を阻むための障害になる。

古代ギリシアにソフィストと呼ばれるものたちがいた。
「詭弁家」と訳されることもある。
この者たちが考え出したのが、弁論術、つまり自分の主張をいかにも正しいと思わせ、相手に納得させる術である。
ソフィストの代表格にプロタゴラスという哲学者がいる。「人間は万物の尺度である」というのは彼の有名な言葉である。
つまり彼の考えでは、真実や正しさは人によって異なるので、正しさとは相対的であり、よって絶対的な正しさは存在しないと目されるのである。
上記で例に挙げた外交交渉のように、それぞれの国にはそれぞれの正義があり、どちらが正しいとは一概には言えない。だから議論の場においては、絶対的な正しさの追求ということはありえず、自分の主張をいかにもっともらしく正しいと思わせるのかが肝要ということになる。つまり本当に正しい答えは存在しないので、結局大事なのは、相手を論破するための技術を磨くことだ、ということである。
これに真っ向から反対したのは、ソクラテスとその弟子プラトンである。
彼らは、絶対的に正しいとされるものが存在し、それを追い求めることが大事であると説いた。その絶対的に正しいもの、プラトンはそれを「イデア」と名付けた。

さて、西洋哲学史上ではソクラテスとプラトンが正統となった。普遍的な正しさの追求はその後の西洋における学問の礎となった。
※プロタゴラスの相対主義も懐疑論として近代以降も一つの哲学的主張の源流の一端となっているので、完全に断たれたわけではない。

現代思想においては、ソクラテス、プラトン以来、西洋哲学史の王道として脈々と受け継がれてきた「合理主義」(簡単に言えば、真に正しい答えを見つけるために理性を働かせて物事を考えるべきであるという主義)に疑問が投げかけられ始めた。つまり、人間を何もかも「理性的に考えて正しい答え」という枠組みに無理やり当てはめようとすると、人間に内在する本質として理性のみによっては割り切れない性質が潜んでいるため、逆に人間性の棄損につながるのではないか、ということである。

というわけで、論破に躍起になっている人を見かけたら、古代ギリシアから変わらず、こんな人がいたんだなと思いを馳せるのもいいだろうし、あるいは相手を論破することに固執せずにはいられない内なる何かがその人を突き動かしているのではないかと考察するのもいいだろう。
このタイプの人は往々にして発言が攻撃的なので、そうすれば多少は心落ちけられるだろう。

最後に一つ。
冒頭にも述べたが議論の目的は「皆が納得する結論を得ること」と述べたが、会議をしていいるうちに結論を得ることではなく、話し(おしゃべり)自体が楽しくなり一向に本題へ進まない場合がある。
これも一つの「会議は踊る、されど進まず」である。
確かに人間が完全に理性的であれば、結論を目指し、最短距離で議論を進めるはずだが、ついつい本題の横道にそれてしまう、それも人間の理性的でない側面の現れなのかもしれない。

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