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倫理の時間

※これはnoteに掲載した「倫理の時間」Ⅰ〜Ⅹを再構成したものである。


はじめに

「倫理とは何か?」と問われれば、色々な答え方がありうるかもしれないが、私は「人の生き方に関すること」と答えておく。
そうすると「倫理の時間」と銘打っているわけだから、今から人の生き方について大いに語ろう、というわけだ。
小難しいことを語るのだろうと思われるかもしれない。そして正直言ってそれは多少ある。
しかし一方で、いわゆる学術的な知識がなければ意味が分からないといったものでもない。これから語られることは、過去の倫理学者や哲学者に倣っている部分はある。ただし、「生き方」というものは倫理学者や哲学者でなくても、それこそ生きている者なら誰でもそれなりに考えたことがあるだろうから、誰でも十分に理解できる内容となるはずだ。
では倫理の時間を始めよう。

第一章 「倫理の時間」の意図と目的

第一節 生き方は人それぞれ?

「倫理学」と聞くとどういった学問だと思われるだろうか?
私は先ほど倫理は「人の生き方に関すること」と述べた。ということは倫理学は人の生き方について探究する学問ということになる。
そのように聞くと、宗教めいたものや、あるいは自己啓発本でうたわれている人生哲学のようなものを講じる学問なのかな?とイメージする人がいるかもしれない。
確かに宗教や自己啓発本は、どのように生きるべきかという問いに彼らなりの答えを提示するだろうし、それらに触れた者の中には、納得や共感を覚え、実際にその答えを自らの生き方の道標とする者もいるであろう。
他方で宗教や自己啓発本の語る話は誰しもが適用されるわけではない。前者は異なる宗教を信仰している者にとっては当てはまらないし、後者も筆者の経験に基づいている限りは、全く違う人生を歩んできた人・違う環境に身を置く人にとっては参考にならない。
では倫理学はどうかといえば、倫理"学"と名乗っている以上、誰にでも当てはまることを探究しようとする。
例えば、数学が「三角形の内角の和は180°である」という数学的法則を示すとき、それは特定の三角形ではなく、すべての三角形について当てはまることを示している。
このように学問と呼ばれるものは、基本的に研究対象のすべてに適用できる法則を解明しようとする。
だから倫理学、つまり人の生き方について探究するこの"学問"は、特定の信仰や個人の経験を超えて、なるべく誰にでも当てはまるような生き方に関する真理を見つけ出そうとするのである。

第二節 倫理学と倫理

では今からその真理を探しに行こう、と言いたいところだか、その前にもう一つ説明すべきことがある。私は冒頭で「倫理」の時間と述べており、「倫理学」とは言っていない。それではやはり、誰にでも当てはまることを探し出そうとするわけではない、ということなのか?
そうではない。
学問というものは、これまでの研究者たちが積み上げてきたものが前提となっている。
再度数学を例にする。円周率をπで表す、というのは数学を取り組むものにとって踏襲すべきルールである。もしこれを勝手に#と表記するなど自分だけのルールを作っていけば、これまで積み上げられてきた数学者たちの議論に加わることはできない。
倫理学も同じように、古代ギリシャから積み重ねてきたルールや共通理解があり、本格的な倫理学の議論に加わろうとすれば、まずこれらを理解するところから始めなければならない。
ところがである。数学は、数学が好きな人、得意な人がやる分には、これまで先人たちが繰り広げた数学の議論を追いかけることは、さして苦にならないであろう。
一方で倫理学は、その扱う問題が人の生き方に関することである。人は皆、生きるのが好きでなかろうが、得意でなかろうが生きているのであり、そうである以上誰でも生き方について考える。なのに、皆さん生き方について考えるなら、これまで倫理学で議論されてきたことを踏まえた上で考えてください、というのあまりにも横暴な話だ。
だから私は倫理学の歴史において議論されてきたことは脇に置いておき、人の生き方について探究したいと考える。
冒頭で学術的な知識は必要ないと言ったのもこのためである。私はこれから始まる試みを過去の倫理学者の言葉を引き合いに出すことなく、あくまで自らの思索過程として積み上げていくつもりだ。
このようなわけで、私はこれから行うことを倫理"学"と呼ばず倫理と呼ぶ。
ただし、私の倫理は個人的な経験から得た人生訓などを捻り出すものではなく、人の生き方に潜む本質を探ろうとするものであり、その意味で、全ての人に適用できる真理を探究しようとする倫理学の姿勢と何ら変わりないのである。

第三節 倫理は何を対象とするか?

さて、倫理は「人の生き方に関すること」と言ったが、このままではいささか大雑把過ぎる。
人が行う活動は、当然生きている人のすることなので、どんなことでも人の生き方に関することと言えなくもない。そのため、倫理はどのようなことについて探究するのか、その対象範囲をもう少し明確にする必要がある。
倫理学に分類される書物を開くと、そこで扱われる代表的なテーマとして、正義、善悪、幸福などをよく見かけるだろう。まさにこれらが倫理の扱う諸テーマとなるわけたが、なぜこれらは「人の生き方に関すること」を標榜する倫理にとって、テーマとなる資格を持つのか?
これらが人の生き方にとって重要だから?確かにそうだが、それだけではない。
例えば、お金や出世、結婚なども人が生きる上で重要なことであるが、これらは倫理の扱うテーマではない。もちろん、倫理においてお金や出世を論じることができないわけではない。しかしこれらのものは、倫理における議論の主軸とはならない。ではなぜ正義、善悪、幸福は倫理のテーマとなり、お金、出世、結婚はそうならないのか?それは正義や善悪、幸福は、いずれも人が判断や選択をする上での道標となるものだからである。
もう少し詳しく言えばこうだ。とりうる行動としていくつかの選択肢がある場合、私たちは、どの行動を選ぶことがより正義にかなっているのか、より善いと言えるのか、より私を幸福にしてくれるのか、といったように、正義⇔不正義、善⇔悪、幸⇔不幸などの基準を用いて判断を下す。つまり正義、善悪、幸福は私たちが行動を選択する際に判断基準とするものであり、これこそが倫理のテーマとなる所以なのだ。
一方、お金や出世などは選択肢側の事物である。例えばお金持ちと貧乏はどちらが善いことか、といった具合である。
そしてここに私が倫理を「人の生き方に関すること」と言った理由がある。
人が生きると言うことは、どのように行動するか選択する連続であり、よってそれら選択の判断基準となるものは人の生き方そのものに直結する。
これで倫理が扱おうとする範囲の輪郭が見えてきただろう。すなわち倫理は、私たちが生きる上で無数に訪れる行為選択の場面において、それら選択の判断基準となる事柄をその考察の対象範囲とするのである。

第二章 価値について

第一節 選択するとは価値付けである

われわれが何らかの判断基準に従い行為を選択する場合、それは次のように行われる。
A、B、C3つの選択肢があったとする。この選択に対し、善悪の基準を用いて判断を行うとする。そのため私は自らの善悪の観念に基づきA、B、Cのうちどれが善いことであるか順位をつける。そして1番善いと考えられるものを選択し実行する。
この際、1番善いとしたものをAとしよう。そうすると、Aは善悪の基準に照らし、最も優れた選択肢であると評価したということになる。言い換えれば、善悪の物差しで比較した場合、Aが最も価値があると考えたわけである。
善悪以外を基準にした場合も同じく、複数の選択肢をある基準に照らして選び取るということは、それぞれの選択肢に優劣をつけるということであり、それはすなわち各選択肢に価値付けをしているということである。
このことから、私たちがどの行為を選択するか判断することとは、それらの行為もしくはその行為から得られるであろうものについて価値づけをすることと捉えることができる。
なぜ行為を選択することを価値付けと捉え直すのか?その理由を以下で説明しよう。
幸福を基準として用いる場合を例に説明する。
私は2つの会社から内定をもらっている。1つは給与は高いがやりがいが少ないと感じる仕事、もう1つは給与はそれほど高くないがやりがいが多いと感じる仕事をする会社だ。
そこで私は、多くのお金が手に入る仕事とやりがいのある仕事、どちらが幸福に寄与するかを考え会社を選ぶ。要するにお金とやりがい、どちらが幸福にとって価値があるのかを比較するわけである。
このとき、私は全くゼロからお金とやりがいの価値ついて考えるわけではない。内定をもらう以前から、すでにお金とやりがいについての私にとっての価値はある程度形成されており、それを土台として双方を比較検討することになる。例えば、私は過去にお金で苦労し、お金の重要性を痛感した経験があるので、幸福になるためにはお金の方が価値が高い考える、といったように。つまり過去の経験や知識などから形成されたお金とやりがいについての価値が現在の選択に反映される。
まさにこれこそが選択を価値付けと捉え直す理由である。というのも、選択することそれ自体はその都度限りであるのに対し、価値は過去から現在にかけて私たちが様々な経験や知識を得る中で形作られるものであるため、選択を価値付けと捉えなおすことで、選択を単にその都度ごとの単発的なものに解消させず、全ての選択を連関あるものとして捉えることができるからである。
ここで倫理(=人の生き方に関すること)の探究を進めるための道筋が見えてきただろう。
すなわち行為選択の決定を左右する価値付けについて考察する道が浮かび上がってきたのである。

第二節 価値付けの複雑性

この節では価値付けの3つの複雑性について論じる。
前節で価値は過去から現在に至るまでの経験や知識によって形成されたものであると述べた。さらに加えて言えば、未来へ向けても価値は変容していく可能性を孕んでいる。
引き続き、前節の例で説明する。
私が過去の経験などから形成された価値に従い、お金とやりがいでは、お金の方が幸福にとって価値があると判断したとしよう。私はこの判断のとおり給与は高いがやりがいが少ない仕事をする会社に入社する。ところが、実際に働き始めるとモチベーションを感じられない仕事をし続けるのに嫌気が差してきた。私は多少給与が安くても、やりがいのある仕事をする方がより幸福だと考えるようになった。
以上のケースにおいては、当初やりがいよりもお金の方が価値があると考えていたのが、入社して働き始めた後は価値の優劣が逆転してしまっている。
このように価値は、均一で不変のものではなく、過去・現在・未来の時間経過のうちに変化しうる動的なものである。これが価値付けの1つ目の複雑性である。
また上の例では考察をシンプルにするため、お金とやりがいという単純な図式を想定したが、現実には考慮すべき要素はもっと多いだろう。実際に仕事を選択する場合、お金ややりがいのみならず、その仕事をすることでスキルアップが図れるか(成長)であったり、家から会社まで通勤にどれくらいかかるか(時間)など、比較検討すべき要素はもっとたくさんあるはずだ。そしてそれに応じて価値も多様にあり、そのために価値付けは複雑なものとなる。比較対象の多様性からくる価値付けの複雑性、これが2つ目のものである。
これまでは幸福という基準を主に考えていた。しかしここに別の基準も入り込むことがある。
例えばこういう場合である。ある会社は給与が高く、スキルアップもでき、家からも近いという好条件で幸福を基準にするとかなり評価が高い。ただし、この会社は違法スレスレのことをして収益をあげている。この会社に入れば、当然自分もその業務を担うことになる。
このとき幸福とはまた別に正義という基準でこの仕事を価値付けすることになる。例えば、違法スレスレということは裏を返せばギリギリ法律の範囲内であるとも言えるからルール違反ではなく、その点で正義を損なってはいないと価値付けをするかもしれないし、法律的にはグレーでも客観的に見て卑怯なやり方であることは明らかだから不正義であると価値付けするかもしれない。
このように人が行為の選択をするとき、幸福を基準とするだけでなく、それ以外のいくつかの基準を用いて選択を行うということもありうる。これが3つ目の意味での複雑性である。

ここで改めて価値という概念について再確認しておこう。
今回、説明の多くを幸福を基準にした場合を例にとって行った。この場合「価値がある」とは、人生を豊かにするるものというイメージで理解できる。これは私たちが普段使う価値という言葉のイメージとさほど乖離のないものだろう。
一方幸福だけでなく、例えば先に挙げたような正義の基準などにおいても価値という言い方をする。その場合、ある選択肢が金銭的には損を被ることになっても、それが正義にかなっているのであれば正義の基準では価値があると呼ぶ。この点が普段使用する価値という言葉と少しイメージが異なるかもしれない。つまり損得や金銭的価値に関わらず、尺度として用いる基準を満たすものであれば、それは価値があると呼ばれるのである。

ここまで見てきたように価値付けは様々な複雑性を持つ。そのため実際には「お金」は幸福にとってどれだけの価値があるか、と言った具合に1つの対象にだけににフォーカスして価値付けすることは少なく、もっと多くの要素を勘案しながら価値付けがなされる。そこで、これまで用いてきた「価値付け」や「価値を形成する」という言い方を、今後は「価値を構成する」という言い方に改めることにしよう。これは、単に1つの対象について価値付けすることだけでなく、様々な他の選択肢や他の基準なども交えた複雑な構造の中で価値を形成するという意味を表すためである。そしてこの「価値の構成」がこの「倫理の時間」の新たなテーマとなるのである。

第三章 倫理の描く世界

第一節 倫理の限界

ここまでの考察では、人が選択をするとき各選択肢についての価値の構成を行い、最も価値が高いと思われる選択肢を選び実行する、という選択行為の形式が説明がなされた。
しかし実際は私たち日々の生活において、全ての行為について逐一価値があるものはどちらかと考えた上で選択しているわけではないだろう(価値という言葉をイメージしているかしていないかによらず、どうする方がいいか考えた上で行為に移すということが、である)。
自分の顔目がけてボールが飛んできたとき、私たちはとっさにボールを避けるなり腕でガードするなり、ボールが顔に直撃するのを防ごうとするだろう。このとき私たちは、ボールが顔に当たると痛いから当たらない方が幸福にとって価値があるので~、などと考えてはいないはずだ。あくまで反射的に何も考えずに避けたりガードしたりするものである。
この例だけでなく、私たちは特に何も考えず漫然と何かしらの行為をしている場面が多々あるはずだ。目の前にあるフライドポテトを漫然と口に運んだり、エレベーターに乗っているとき無意識に階数の表示を眺めたり。
つまり私たちの人生においては、何が価値のあることか意識して考えずに行為をしていることがよくあり、ひょっとすると全ての行為の中で、そのように何も意識せずにしている行為の占める割合の方が大きいかもしれない。
では、倫理はそのような特に意識を払わずにしている行為に対してどのように関わるのか?
結論から述べると、倫理はそのような態度に対し直接的には関与できない。関与するとしても、例えば漫然とポテトフライを口に運ぶのは体に悪いからやめようといったように、もともと意識せずに行っていたことを、自らの行為を反省することで意識下に置き直した場合などである。
では人生の大きな部分を占めるであろう「意識せずにする行為」に直接関われないというのであれば、果たして倫理は本当に人の生き方について十分に考察できると言えるのだろうか?
実はこれが倫理の限界なのである。しかし同時にこの限界が倫理の本当の意義を炙り出す。
それを説明する前に述べておきたいのは、例え「意識してする行為」しか倫理の対象になりえないとしても、私もしくは私たちが倫理の助けを借りたいと感じるのは、どのように行為するのがよいのか考え悩むときが多いはずである。だから倫理が「意識せずにする行為」を直接に対象とできないからといって、それですぐさま倫理の意義が失われはしないということである。

第二節 科学が描く因果律による世界観

先ほど「意識せずにする行為」の一例として、顔を目がけてボールが飛んできた話をした。このときボールを避けるなり、防ぐなりするときの行動は、生理学など人体のはたらきや仕組みを研究する学問が説明してくれるだろう。
それ以外にも人間の行為や思考について、心理学や医学などの学問もある程度説明してくれるだろう。また近年では特に人間の心と体に脳が深く関係していることが明らかになりつつあり、脳科学の分野も人間の行為について多くの示唆を与えている。しかもこれらの学問は、倫理が直接関われない「意識せずにする行為」についても、その研究対象の範囲におさめる。
そうすると倫理よりも、これらの学問の方が人の生き方について探究していると呼ばれるにふさわしいのではないか、と思われるかもしれない。
果たして本当にそうだろうか?
上に挙げた学問は科学のいち分野である。
科学は基本的に、研究対象について実験や観察をすることにより、その対象が持つ性質やはたらき、構造を解明する。例えばある対象に特定の刺激を与え、その対象がどのような反応を示すかを観察することによって、その対象の特質を明らかにする。
そしてさらに特徴的なのは、その反応の原因を導き出そうとする点である。仮にお湯をかけることで活性化することが知られている微生物がいるとする。このとき科学はこの活性化の原因を突き止めるため、この微生物に温風を当てたり、冷水をかけたり異なる条件の刺激を与えることで、お湯の要素のうち温度と水分どちらが活性化の原因になっているのかを探り出そうとする。
このように科学は特定の事象が生じるのはどのようなことが原因になっているのかを明らかにする。しかもそれは「燕が低く飛ぶと雨が降る」といった先人たちの経験則から編み出された知恵などではなく(今では科学的に裏付けされているものもあるかもしれないが)、ある事象の発生とその原因の直接的な結びつきを解明するものである。
この特徴により科学は今日の私たちの生活に広く普及するに至る。というのも、特定の事象に直結する原因を突き止めることにより、それを応用して高精度で特定の事象を意図的に生じさせることも可能になるからである。これにより、私たちは望むままに物を作り、手に入れ、そして望まないことを回避できるようになった。この圧倒的な有用性こそが科学の普及を後押ししたのである。
このように科学は世界の様々な事象の原因を探る学問であるわけだが、これは科学がある一つの原理を前提としているということを意味する。それは、結果としてある事象が発生したとき、それを直接的に引き起こした原因があるということである。これを因果律と呼ぶ。
科学的思考が浸透している現代において因果律の存在は疑いの余地が無いことかもしれないが哲学ではこれを否定する議論などもある。
例えばこういう議論である。熱湯が手にかかり手に火傷を負う。因果律を肯定するなら、このとき火傷は結果で、原因は熱湯が手にかかったことだ。この2つには一方が一方を引き起こすという因果関係という結び付きがある。しかし因果律を疑問視するならこう考えられる。熱湯が手にかかるという事象の直後にたまたま手に火傷を負うという事象が起こっただけであり、この2つの間に因果関係などは無く、そのような関係があると考えるのは、独立して起こった2つの事象を私たちがさも関連があるかのように勝手に結び付けているからである。
常識的に考えてそんなことあるかと思われるだろうし、私も因果律を殊更否定するつもりはない。私が主張したいのは、もし科学が世界の全てを説明してくれるものだとすれば、それはこの世界は隈なく因果律のもとにあるということである。言い換えれば、科学が描き出す世界は、世の中全ての事象がそれぞれ原因を有し、その原因の結果として存在しているということである。
ところがである。そうすると私たちの選択行為もまた因果律で説明されてしまうことになる。それは意識せずにする行為だけだなく、悩んだ末に決断した行為もである。
例えば給料の高い仕事とやりがいの多い仕事、どちらがいいか悩んだ末に給与が高い仕事に就いたとする。このときこの選択も因果律のもとにあるのであれば、給与が高い仕事を選ぶという結果に対し、それを引き起こした原因Xが存在していたことになる。この原因Xを選択した理由と混同してはいけない。原因と結果は直接的に結び付いている。つまり給与の高い仕事を選んだことは、私が主体的に決断したことではなく原因Xが引き起こしたことなのである。
このように科学的世界観においては、私たちが複数の可能な選択肢の中から自由な意志で選んだと思われることも、因果の連鎖の結果として逃れざる運命であったと位置付けられる。すなわち事実上、私たちに主体的な選択の自由が与えられないことになる。
そんなまさかと思うだろう。
もし「そんなことは無い、私たちには自らの考えで選択する自由が与えられている」と考えるなら、科学的世界観とは異なる世界観を持つ必要がある。

「生命倫理」という言葉をご存知か?
近年生命科学が目覚ましく発展し、遺伝子を恣意的に操作したり全く同じ遺伝子の生命(クローン)を誕生させることが出来るまで技術は進歩した。これらの技術を生物ひいては人間にどこまで用いてよいか、それを考えるのが生命倫理の役割の一つである。
このことが示唆するのはこうである。生命科学がどれだけ生命の構造やメカニズムを明らかにしても、それにより得られた技術をどこまで実際に応用してよいか、その是非について生命科学そのものは指し示してくれない。だから生命科学とは別に生命倫理というものがそれに答えなければならないのだ。
このように科学には語れない私たちの主体的選択に関する事柄を語るためには倫理が必要であり、また主体的選択が可能であるということを前提とするならば、因果律が支配する科学的世界観とは異なる世界観を描くことが必要になる。そしてそれこそが倫理的世界観なのである。

なお誤解の無いよう述べておくが、私は科学的世界観について否定するつもりは毛頭ない。もっと言えば、科学そして因果律により世界を隈なく説明できる可能性を否定はしない。
この世界の存在は究極的にどのように解釈されるべきなのかという議論はこれはこれで興味深いものであるが、今は倫理の話を先に進めるためにこの議論は脇に置いておこう。
その存在論的意義はさておき、倫理のためには倫理的世界観を前提に議論を進める必要があるのである。

第三節 倫理における二元論的世界観

引き続き、倫理的世界観について科学的世界観との対比で考えてみよう。
科学的世界観では、この世界は因果律の下にあり、実際これは世界のある部分について有効に適用される。
では、その有効な範囲はどの領域かというと物質や物体と呼ばれる領域だ。これらは全て因果律に従う。私たちの身体も物質に含まれる。だから私たちの身体について研究する科学、例えば生理学や医学などは、言うまでもなく有効性の高い分野だ。
ではそもそもこの世に物質ではないものがあると言えるのだろうか?これは世界の存在のあり方についての議論になるため、この点についてはここで深く考察しない。しかしながら、倫理が因果律に支配されない領域についてしか語れない以上、物質が全て因果律の支配下にあるなら、倫理は物質ではない領域を設定しなければならない。

物質ではない領域とはどのようなものか?魂や霊魂などといったものを持ち出すのだろうか?
いや、それだとスピリチュアル過ぎる。心や精神と言った方が近いかもしれない。
倫理は人の主体的な選択について、それが因果律に縛られない自由な意志によるものであると考える。だから、選択を行う私たちの心や精神、これを物質とは異なる性質の領域として存在することを認めなければならない。
このため倫理は、物質と心という本質的特性を異にする2つもので成り立つ二元論の世界観を有することになる。

第四節 倫理的世界観における身体の役割

二元論の世界観において物質と心が互いに影響し合うのは、身体を通じてのみである。私たちは身体を通じて物質を見たり、聞いたり、触ったりする。物質から情報を得るのも身体を介してであるし、物質に対し何らかの変化を加えたりするのも身体を介してである。そういった意味では、身体は物質と心の窓口と言えるだろう。
しかも、それは単に物質的な反応を受け取ったり与えたりというだけのやり取りではない。
例えば人の話を聞くということは、物質的な観点で見れば相手の発した空気の振動を耳(聴覚)で感受することであるが、実際には私たちはそれを空気の振動以上のものとして認識しているはずだ。つまり人の声を単なる音ではなく、意味のある言葉として聞いている。しかもその認識はかなり複雑で、言葉を文字通りに受け取っているだけでもない。「ヤバい」という言葉はいい意味でも悪い意味でも使えるが、私たちはその「ヤバい」という言葉を声の抑揚やトーンまたはその場の文脈からそれがいい意味の「ヤバい」か悪い意味の「ヤバい」かある程度理解できる。
聞くことはもちろん見ることも同様に複雑だ。私たちは何かを見るとき、単に目の前の光景をカメラのように写し取っているわけではない。
例えば、私たちは絵画を見るとき「きれいな絵だな」とか「上手な絵だな」という単純な感想から、その絵の歴史的背景や、果ては絵から勝手にストーリーなどを想像するなど、様々なことをその絵画から感じ取りながら見る。
このように見たり聞いたりすることは、光の波長や空気の振動を感受するという物質的なやり取りだけでなく、見る対象・聞く対象から何らかの意味を汲み出すはたらきを有している。
第二章で倫理とは「価値の構成」のあり方を考察すると述べたが、実はこの「価値の構成」は世界を見たり、聞いたりするはたらきのうちの一つなのである。
私たちが見たり、聞いたり、触ったりすることは、そのありのままを受け取るだけでなく、その対象にまつわる意味を構成するということなのである。そして倫理がテーマとする「価値」の構成とは「意味」の構成の一種である。
つまり椅子を見ているときに、私たちはその椅子に関する「意味」を構成しながら見るのであるが(古いとか、大きいとか、木でできているとか)、その意味の中の一つとして価値(使いやすいから価値があるとか、造形が美しいから価値があるとか)があるわけだ。
そういったわけで、私たちは身体を介して世界に対し様々な意味を構成しているわけだが、倫理の時間としてはその中でもとりわけ「価値の構成」のあり方について絞って見ていくことになる。

第四章 倫理考察の手法

第一節 主観による価値の構成とそれが成立するための要件

いよいよ倫理の本格的な考察が始まる。
その方法について考えよう。
再び科学の手法と対比して考えてみよう。
科学は研究対象を客観的に実験観察することによって、その対象の性質や構造などについて解明を図る。その際、重要なのは観察者である科学者自身の主観が混入しないようにすることである。
一方倫理は真逆である。
倫理は私たちの主体的な選択についてのあり方を考えるものであるが、他者が選択する様子を観察するようなやり方はしない。それは他者の身体=物質を客観的に観察するという点でむしろ科学的な方法だ。そうではなく、私が選択をする場合にそれがどのように行われているか、そのあり方を自ら反省することによって分析するのであり、科学とは正反対に倫理的分析は主観そのものを反省的に観察することから出発する。
では主観からどのようにして倫理考察を展開していくのだろうか?
それがこの章のテーマである。
倫理は主観=「私」がどのように行為選択を行っているのかを反省することで、その行為選択に関わる価値の構成がどのようなあり方になっているのかをあぶりだすわけだが、そのとき探り出すのは私に特有のあり方ではなく、人が選択を行うのであれば、私も含めそのようになっていなければならない、そうでなければ、そもそも選択行為ということが成立しないだろう、という要件を見つけることによって展開していく。
具体的には次のような手法だ。
まず考察対象に対し、次のような思考実験を行う。それは、その対象に関連する要素を抜き出し、その対象からその要素が無くなってしまうとその対象が成り立たないかどうかを考える。そして成り立たないと思われるのであれば、その要素はその対象にとって必要不可欠なものだということになる。

この手法によって打ち立てられる倫理考察の第一の定理は「私」の存在である。そもそも「私」という存在がなければ、選択を行う主体がいなくなってしまうのであるから、その必然的な帰結として私は倫理において絶体に無くてはならない存在に位置付けられるのである。そしてこのことは「私」が倫理では特権的地位を持つことを示唆する。
これは続く倫理に関する考察における重要な論点になる。

第二節 倫理考察の4つの視点

上記の「それが無くては成立しえない」という論法の他に次の要素が考察を進める上での重要な視点となる。

①論理
論理は考えを正しく組み立てていくために必要である。例えば、「XはAかBである」という前提があるとき「XはBではない」なら「XはAである」という結論が導き出せる。このように論理的に正しく考えを組み立てていくことが肝要である。そうでなければ、積み上げてきた考察が矛盾に陥り崩壊してしまう。第一章でも述べたように、倫理は誰にでも当てはまることを解明しようとする。
そのため倫理に論理的一貫性がないと、誰にでも当てはまるどころか、誰にも理解できないものしか出来上がらないのである。

②私の価値感覚
論理とは一転、私の主観的な価値感覚も倫理では大事な材料である。何が価値があるとされるのかは、私の価値感覚抜きには語り得ない。私にとって快か不快か、好きか嫌いか、正か不正かは価値における重要な基準の一つである。
また論理的一貫性に対するチェック機能も兼ね備えている。
哲学・倫理学史上最も偉大な思想家の一人にカントという哲学・倫理学者がいる。そのカント倫理学の議論でこのようなものがある。カントの倫理学では「嘘をついてはならない」ということは必ず守らなければならない道徳的規範である。
では次のケースではどうなるか?
ある人物が殺人者に襲われ命からがら私の家に逃げ込んできた。私はこの人物が隠れるために部屋の一室を貸した。その人物が部屋に隠れた後、殺人者がやって来て、その人物がこの家に逃げて来なかったか質問してきた。このときカントの倫理学では嘘をつかずにその人物が家にやって来たことを正直に答えることが道徳的だとされるのである。しかし、私たちの価値感覚からするとそこは正直に話す方がむしろ道徳に反するように感じるだろう。
カントの倫理学がなぜこのような結論に至るのか、その詳細は割愛するが、カント倫理学自体は後世に多大な影響を与えるほどの見事な理論であったのは事実で、そうであってもその理論から導かれた結論が、私たちの価値感覚からあまりに解離しているのであれば、それはカントの倫理学に不完全さや補足すべき点があるということだ。
つまり倫理においては、価値感覚は一見論理的に組み立てられている理論と対等に正しさを主張する権利を有するのであり、時には論理的主張に誤りがあることを問いかけてくる場合もあるのである。

③主体的選択の要件
倫理の主題となる私たちの主体的選択、これにはそれが成立するための要件がある。これらも倫理を進めていく上で押さえておかなければならない要素である。
まず一つは「未実現であること」である。
私はハワイにいくために、どのような手段を用いるか選択しようとする。飛行機で行くか、船で行くか。ただし当たり前のことだが、ハワイに着いた後でその事を考えるのは無意味だ。つまり選択するに当たっては、まだその選択しようとすることが実現されていないことが前提となる。
2つ目が「選択可能性があること」である。
飛行機で行くか船で行くかに加え、泳いで行くという選択肢を検討しようとする。しかし実際には泳いでいくのはほとんど不可能に近いから、そもそも検討する前に選択肢から除外するだろう。このように普通私たちが何かを選択するとき、その選択肢は実現の可能性がないといけない。可能な選択肢が一つしかない、あるいは一つも無いと言うことであれば、そもそも選択するということの意味がなくなってしまう。
3つ目が「未来の予見ができること」である。
飛行機で行くか船で行くかを選ぶことができたとして、いずれかを選ぶことで結果的にどういったことが生じるのかを予見しなければならない。飛行機なら早く着くであったり、船なら安く行けるであったり、どちらが環境に優しいかなどと言った視点もあるかもしれない。つまりそれを選ぶことでどういった効用、影響があるかを予見できないといけない。そうでなければ、2つの選択肢のうちどちらがより価値ある選択か比較しようがないからである。

④科学的知識を含む知識
これまで散々、倫理は科学とは異なる世界観を有すると言っておきながら、4つ目は「科学的知識を含む知識」である。
③の主体的選択の要件の一つに選択可能なことを挙げたが、これに関連する。科学技術などの発達によりこれまで出来なかったことが出来るようになると選択肢が増える、つまり選択可能性が広がるわけである。
また未実現の要件についても関連する。個人がハワイに行ったか行かないかレベルのものだと調べるまでもなく明らかだが、例えば国の経済成長率とかCO2の削減率とか専門性の高い目標などを検討するのであれば、現状どのくらい実現出来ているのか、ということから調べなければならない。
このようにある程度高度で複雑な問題に対して倫理的にアプローチしようとすると、どうしても科学的知識を含む知識が必要になってくるのである。

第三節 結果主義と動機主義

前節の内容に関連して、この「倫理の時間」で展開される倫理考察が導くものは結果主義であるか動機主義であるかという点に触れておこう。これによりこの「倫理の時間」が意図しているものが明確になるだろう。

倫理学上の議論で結果主義と動機主義の対立と言うものがある。前者は行った行為の結果が善ければ、それは善い行いであったと見なす。この場合、結果のみを善し悪しの判断とすることから、それを行った動機の善し悪しは関知しない。
例えば私が自分の利益のために、友人に「値上がりする可能性の高い株を持っている。君に得をしてもらいたいから特別に売ってあげる。」と本当は値上がりする可能性が不透明だと知っているのに嘘をつきその株を買わせたとしよう。このとき、友人がその言葉を信じ株を購入し、結果株が値上がりして大儲けしたのであれば、結果主義では私の行為は善い行いであったということになる。
一方動機主義ではある行為をするときの動機が善ければ、結果に関わらずそれは善い行為とされる。
前節で紹介したカント倫理学が代表的な例である。殺人者から逃げのびて来た人の居所を殺人者に対し正直に打ち明けたとしても、それは嘘をつかず誠実であれという善い動機により行ったことなので、結果逃げて来た人が殺人者に捕まっても善い行いと見なされる。

ではこの「倫理の時間」で導き出される倫理の内容は結果主義と動機主義どちらをとるのだろうか?
前節で倫理考察の一つの視点として「未来への予見」を挙げた。と言うことは、ここでの倫理では選択する行為に対しどのような結果が生じるのかについて当然考慮される。その点で結果主義のようにも思われる。
ただし、実際に出て来た結果に対し倫理的評価は下されない。例えば、上述の殺人者の事例において、追われて来た人を守ることが価値あることと判断したとすると、殺人者から逃れられるよう「この家には来ていない」と嘘をつくことが選ぶべき行為に思われる。ただ、もし家に匿っていた人物が私の知らぬ間に別の場所に隠れようと家を抜け出し、その途中で殺人者にばったり出くわし捕まって殺された、つまり結果としては悪いことが起こった(逆にもし正直に家に匿ったといえば殺人者は家の中を探すので出くわすことはなかった)としても、嘘をついたこと自体が悪いことにはならない。たとえ予想が外れ悪い結果が生じたとしても、それは予見の精度の問題であって、倫理的な面で言えばその時点で善い結果が生じる可能性が最も高い選択肢を選んだという点で善い行いであったと評価される。そのため、実際の結果ではなくその行為を選んだ理由を評価すると言う点でここでの倫理は大別すると動機主義に分類される。
また上述のとおり、最も善い結果が予見される行為を選択することと、その予見がどれくらいの精度で的中するかは切り離して考えられるべきであり、予見の精度向上に関して言えば科学などの分野がそれを担うべきだと考えている。倫理が担当すべきは、Aという行為に対してA'という結果が、Bという結果に対してB'という結果が生じることが予見されるとして、どちらの結果が最も善い結果と言えるのかを判断することである。
そしてこのことから言えるのは、前節で倫理考察の要素の1つに挙げた科学的知識を含む知識がやはり重要であるということだ。どれだけ倫理的に正しい選択が出来たとしても予見の精度が低いと望ましい結果に至らない。だから、専門性の高い課題に倫理として精度の高い答えを出そうとすると、それに対する専門的知識が必要になる。つまりある課題について現実に善い結果を得ようとするためには、倫理とその課題に関連する知識が車の両輪のように共同してはたらく必要があるわけである。

第四節 倫理的な事柄に関する二つの区別について

倫理考察を始めるための基盤となるものが出揃った。それが倫理における二元論的世界観であり、またこれらを考察するための①論理②私たちの価値感覚③主体的選択の要件④科学的知識を含む知識という4つの視点である。
ではこれらをもとに、具体的実践的な倫理要素を含む諸問題について考察が可能になるかと言えば、そうではない。というのも「倫理に関する事柄」とはいってもその内容に関しては二つの異なるレベルが存在するからである。

例えば「死刑制度は撤廃すべきである」とか「感染対策のための行動制限より経済活動を優先すべきである」といった主張は、倫理的な要素を含む主張であると同時に、現実の政治、法律、経済的な側面を持つ。そしてその現実の状況及びその状況に対する理解というのは、日々アップデートされる。
ところが、これまでこの「倫理の時間」で行われてきたことは現実の問題に対する倫理的主張ではなく、倫理というものの本質的内実についての探求であり、倫理的思考の主体たる「私」及び「私たち」の在り方の本質についての言及であった。
つまりこの「倫理の時間」が言及してきたのは「倫理」というものの枠組みや構造に関することであり、これは性質上普遍的な事柄、すなわち誰にでも当てはまる事柄である一方、現実的具体的な倫理的諸問題は日々変化する事柄なのである。
したがって倫理に関する事柄は、倫理そのもの枠組みや構造といった普遍的な事柄と、そういった枠組みの中にあっても日々変化し続けている現実的な倫理的諸問題という二つの区別がなされるわけである。

ここで理解を容易にするためにサッカーの話を例に挙げよう。(個人的には議論されているテーマを語る際に別のものに例えて説明するのは好んでいない。というのも特に相手を説得する際に用いられる場合、その議論されているテーマとはそもそもの具体が違うにもかかわらず、さも本質的な論点は同じだとして議論対象をすり替えて、異なるケースに関する是非の議論に持ち込むことが往々にしてあるからである。ただし、ここではあくまで分かりやすい理解のためにそのようにしたい。)
上述したように、これまでこの「倫理の時間」で語られたのは倫理を成り立たせている枠組み、つまり倫理の基盤となるものである。サッカーにおいてはルールに相当する。ルールがあるからこそ、サッカーという競技は成立する。そして世界中どこでもサッカーのルールは同じだが、実際の試合がどのような状況になるかは試合ごとに千差万別である。というのも、実際の試合状況は選手の特徴やコンディション、監督の戦術や、その日の気候に左右されるからである。そのため、このようにすれば必ず毎回勝てるといった絶対的な必勝法は存在していない(このようにすれば勝率を上げることができるという有効な戦術はあるかもしれないが)。つまり一言で「サッカーに関する事柄」とは言っても、サッカーのルールそれ自体と、具体的に目の前の相手に対しどのようにプレーすれば勝つことができるかといったことは異なる事項に分類される。

このように倫理に関する事柄は2つに区別される。
倫理の基盤となる事柄と具体的な倫理的諸問題に関する事柄である。
ではどれだけ倫理の基盤となる事柄を探求したところで、現実世界の倫理的諸問題に対しては何も言及できないのであろうか?
そうではない。
確かにサッカーのルールについてどれだけ語ろうとも、それが「どうすれば試合に勝てるのか」「どうすればサッカーがうまくなるのか」といった問いに直接的な回答を与えるものではない。
だがしかし、この基盤(ルール)を理解することによって、具体的な課題(どうすれば勝てるか、うまくなれるか)を導き出すための助けにはなる。サッカーでも、実際の試合はギャンブルのように賽の目を振らないとどうなるか全くわからないというものではなく、勝利する確率が高いと予測される強いチームは存在する。それはサッカーのルールを理解した上で、どのような条件をそろえれば勝つ確率が高まるかという算段が可能だからである。ごく単純な例でいえば「サッカーの試合時間は90分間とルールで決まっているから、90分間ペースを落とさず走り続けられるスタミナがあれば試合を優位に進められるはずだ」といった風に。
これを倫理に当てはめれば、こう考えられる。確かにここまで語られた倫理の基盤となるものだけでは、現実社会に起きている問題すべてに答えを導き出すことはできないが、この基盤を前提として考えるからこそ、現実社会に起きる問題に対しても有効な答えを出すことができるのである。(ただし倫理とサッカーも実際は異なる。サッカーのルールは、それを運営するサッカー協会が、所定の手続きを経た上で任意で変更することができるのに対し、倫理の基盤はわれわれにとっての本質的なもので任意で変更できるものではない。)
そこで次の課題はこのようなことになる。普遍的な倫理の基盤から具体的な倫理的諸問題へ応用はどのようにして行われるのか?ということである。
これについては後ほど考察していく予定である。

第五章 「私」と「私たち」の価値の超越性

第一節 「私たち」とそうでないものの存在の価値

倫理は「価値の構成」について探求すると第二章で述べられた。そこで一番初めに考えなければならないのは、価値の構成を行う主体である「私」及び「私たち」の価値である。なぜなら「私」及び「私たち」の価値こそが、その他すべての事物の価値の基礎となるからである。
例えば、お金や宝石といった一般的に価値のあると目されている事物は、あくまでも「私たち」が価値のあるものと認めるからこそ価値がある。裏を返せば、どれだけ価値のあるものでも、それに価値があると認める主体がいなくなれば一瞬にしてそのものの価値は無に帰してしまう。つまり価値を与える主体はすべての事物の価値の源泉であり、その点でこの主体たる「私たち」は他の事物と一線を画す価値を有する。
また「私たち」が何かに価値を与えるときは、これこれの理由によって価値があるといった具合に判断するわけだが、「私たち」自身はそういった理由なしにその存在が無条件で尊重されなければならない。もっと言えば「私たち」以外の事物は役に立つから、希少だから、美しいからetc.といった何らかの理由をもって価値があると判断されるが、「私たち」はそういった理由なしに価値のある存在として尊重されなければならない。それだけ「私たち」の価値は特別なものなのだ。
例えば「私たち」と宝石、どちらが価値があるかと聞かれると、当然「私たち」の方が価値があると答えるべきだか、このときに「私たち」は宝石より価値が大きいという量的な比較により勝っているのではない。正確に言えば「私たち」と宝石の価値は同じ次元で比較すべきものではない。第二章で述べたように「私たち」は複数の可能な選択肢の中から自らの行為を選ぶ際に、その行為によって得られるであろう事物に価値付けを行い優劣をつけ判断を下す。つまり価値付けとは基本的に具体的な行為に結びついている。したがって「私たち」と宝石の価値を量る場面と言うのは、「私たち」が滅するか宝石が滅するか、いずれかの結果に結びつく行為を選択する場面において行われるということだ。この時点で常識感覚的にも、例え宝石が滅したとしても「私たち」は滅しない選択肢を選ぶ(つまり「私たち」の方が価値がある)のが当然とだと感じるだろうが、これを論理立てて説明するとこうなる。もし仮に「私たち」が「私たち」より宝石の方が価値があると判断し、「私たち」は滅するが宝石は存続するという結果を引き起こす行為を選択したとする。するとその結果「私たち」が滅すると、宝石の方に価値があると判断した主体がなくなるので、その瞬間に宝石の価値は消え去ってしまう。これは結局、宝石の方に価値があるという当初の判断自体が破綻してしまうということである。
したがって「私たち」とその他の事物、双方の価値を比較する場合、常に「私たち」が優位になる。上述のとおり、その他の事物の存在価値は「私たち」によって構成されるのであるから、仮にその他の事物の価値を「私たち」の価値より上位に位置づけ、「私たち」の存在の存続よりその事物の存続を優先したとすると、価値構成の主体の喪失によりのその判断は必ず破綻する運命にあるからである。
このことから他の事物より「私たち」の方が価値があるというのは、「私たち」の価値の方が大きいといった量的な優位ではなく、価値付を行うものと価値付けされるものの関係性から必然的に生じる論理的帰結としての優位性なのである。
そこで倫理における一つの普遍的な命題が導かれる。それは「「私たち」は他の事物とは一線を画す超越的な価値を持つ」ということである。

第二節「私たち」が持つ超越的価値は存在に対する価値である

「私たち」が超越的な価値を持つということが述べられたわけだが、このとき超越的な価値を持つと言われるのは「私たち」の存在についてである。というのもこの倫理的原理を導き出したのは、「私たち」という存在がなければ価値を構成する主体が無くなるため「私たち」は価値を超えた存在である、という論法によってであったからである。つまり「私たち」の価値はその存在に対して付与されるものである。したがって「私たち」の存否に関係する事柄以外について、「私たち」の価値を盾に「私たち」以外のものの価値を考量しないと言うのは誤りだ。
例えば次のような論法は誤りだ。
「「私たち」は森林を大規模に伐採してもよい。なぜなら「私たち」は超越的な価値を持っているのに対し、森林は専ら価値を構成される側の存在であり「私たち」より価値が劣るからである。」
この論法では「私たち」の価値と森林の価値を比較し、「私たち」の方が価値があるから「私たち」が望むであれば、森林を大規模に伐採してもよいとしているが、そもそもこれは比較する対象を取り違えている。ここで本来比較すべきは、森林を大規模に伐採することにより得られるものと、失うものの価値である。
このように「私たち」に超越的な価値があるからといって、「私たち」がやること為すことすべてに価値があると言うことにはならない。
先にも述べたように「私たち」が「私たち」以外のものに対して持つ価値の優位性は「私たち」の存在に対して比較される場合であって、「私たち」が為すことについては、為すことにより生じる結果に対しどれだけ価値があるのか考慮すべきであって、超越的な価値を持つ「私たち」が為したと言うことのみによって、それ自体が特別な価値を帯びるわけではない。

第三節 「私たち」以外に価値構成を行う主体

上で展開された「私たち」の超越的価値に関する論述に対し次のような主張が考えられるだろう。すなわち、もし「私たち」以外に価値を構成する主体が存在するのなら「私たち」の価値の超越性は没落してしまうのではないか?と。というのも、もし「私たち」の存在が消滅しても「私たち」以外に価値を構成する主体が存在するのなら、その他の事物に関する価値がそのものによって存続する可能性がある。そうするともはや「価値を構成する主体たる「私たち」が存在しなければ、その他すべての価値が消え去ってしまうため、それゆえに「私たち」には価値を超えた価値がある」という論法が成り立たなくなる。
確かに「私たち」以外に価値を構成する主体と言うのは想定可能であり、そのものの視点に立って「私たち」を見れば、「私たち」も価値を構成される側に陥ることになる。そうなると「私たち」も宝石もそのものにとってはともに価値付けを行う対象となり、両者は同じ土俵で価値を比較しうる存在となる。
この「私たち」以外の価値構成の主体として想定する1つの典型が神だ。神はその概念からして「私たち」より上位に立つものであるから、もし神の存在を認めるのであれば、「私たち」にとって価値のあるものよりも、神にとって価値があるものの方が重要視されるようになるだろう。神の威光が強ければ強いほどその重要性は増し、「私たち」にとって価値のあることは大したことのない些末なものになる。そしてまた、神の視点に立つのであれば、「私たち」もまた神によって価値付けられるものの一つであるから、「私たち」自身がいかにして神にとって価値のあるものになるのかが最も重要だという考え方も生じるだろう。もちろんどのようにして神の描く価値を読み取るのか、ということが問題になってくるのではあるが。

神の話はこれくらいにして倫理の話に戻ろう。いずれにしても「私たち」以外に価値を構成する主体がいれば「私たち」の価値の超越性は揺らぐ。そして「私たち」以外に価値を構成する主体を想定すること自体は思考の上では可能だ。
しかしここで表明しておかなければならない。倫理においては、真の意味で「私たち」から独立して価値を構成する主体はあり得ない。そのため「私たち」以外に価値を構成する主体を想定したとして、そのものに対し分析を加えれば、そのような存在も倫理上は「私たち」から切り離すことができないことが分かる。ではなぜそのようなことが言えるのだろうか?
それが次章でのテーマとなる。

第六章 「私たち」の発生的解釈

第一節 「私たち」=間主観であること

「私たち」の本質について改めて考えてみよう。「私たち」は「私」の集合体なのであろうか?つまりそれぞれの「私」という個体の集まりであり、それぞれが独立して存在している、そういう存在なのであろうか?
倫理においてはそうではない。
本来の「私たち」は「私」がいるから「私たち」があるというだけでなく、それと同時に「私たち」の中だからこそ「私」がいるという双方分離出来ない関係により形作られる。その点で「私たち」は独立して点在する「私」の寄せ集めではなくて、相互に「私」-「私たち」を組成する切り離せない関係の広がりである。
そこで用語を一つ定義しよう。「私」=主観に対し「私たちの主観」だと紛らわしい。かといって客観は意味が違う(客観は私だけでなく他の誰の主観もでもないニュートラルな視点に立つことだ)。そこで「私たちの主観」を「間主観」と呼ぶことにする。この呼称は各々の「私」=主観が結びつくことによって形成されるという「私」と「私たち」の一体性を表現している。例えば、「若者の"間"で○○が流行っている」という言い方をすることがある。これは単に1人1人の若者が個別単独で好きになったものがたまたま他の多くの若者同士で一致したというわけではなく、同じような社会状況、時代背景の中にいる同年代の者たちが、直接的な繋がりはなくても、一種の共鳴や同調による連鎖で共にある一つのものを好きになったということだ。これは、すなわち若者が共同であるものに高い価値を付けたということになる。この流行の例は、まさに"間"若者による価値構成という言い方ができよう。
実際は若者世代も年配世代も同じ社会の中で繋がっているので、これをもっと一般化するなら社会に生きるそれぞれの「私」=主観が他の主観との間で共に価値を構成していく、それが「間主観」の価値構成という考えなのである。

第二節 倫理的世界は「私」から始まる

世界はどのようにして始まったか?
ビッグバンで宇宙が誕生し、星々が生まれ、やがて銀河系の太陽系の第三惑星として地球が生まれ〜、というのは科学的な世界の誕生の考え方だ。
倫理はそれとは違う考え方をする。世界はまず「私」という主観の中に現れ、その中で「私」は他の主観と繋がり、共にこの世界について理解を重ね、そうしてさらに世界は広がっていく。このように倫理的世界観において世界は「私」という主観を出発点として広がっていく。
ちなみにこれは倫理がビッグバンなどの科学的な世界誕生に関する説を否定するものではないし、むしろ科学的な知識も倫理にとって無くてはならないものだと考えている。しかし倫理を組み立てるにあたっては、その依って立つ世界観は科学的世界観ではなく倫理的世界観でなければならない。
そしてこのことから、先ほど述べた「私たち」以外に価値を構成する主体が「私たち」から独立して存在し得ないということが導かれる。
倫理的世界観においては、世界という箱があってその中に「私」や「私たち」がいるという考え方はしない。もしそのような考え方をすれば、その箱の中のどこかに「私たち」以外の価値を構成する主体がいるかもしれない、という発想が生まれる。そうではなく世界とは「私」と「私たち」を中心として広がっているのであり、もしそこに新たに価値を構成する主体が現れるのであれば、それはすでに私たちから独立した存在ではなく、「私」と「私たち」を中心に広がる世界の一員となる。そしてそのものが構成する価値は「私」と「私たち」が構成した価値の中に織り込まれていく。そうなると、もはやその主体は「私たち」と共に価値を構成するものとなり、「私たち」の中に取り込まれていくのである。
上述のよう「私たち」以外の価値構成の主体として神の存在を想定した場合、倫理的にはこう解釈されるだろう。神は「私たち」とは別の次元に位置付けられるものではなく、「私たち」と同じ世界の中にあって、その代弁者や神学者または個人の信仰のうちにある気づきなど(これらの者は「私たち」の一員としてある)を通じて「私たち」に自らの価値観を提示する。そして「私たち」はその価値観を自らの価値観に織り込み新たな価値を構成する。このとき、神と「私たち」は共に価値を構成したわけだから、神は「私たち」に取り込まれる。つまり神も間主観の地平の内にあるものとなる。
※ここでの話は、倫理が神の存在を肯定することを意味しているのではない。あくまで神がいると想定した場合に、それを倫理的に解釈するのであれば、どうなるのかという考察になる。また厳密には神をどのような存在と考えるかによっても、その解釈は変わってくる。上の解釈は、神を自らの意志を持った主体性のある存在であると想定しているが、例えば超然的で意志や主体性を持たない神というものもあり得るかもしれない。そのような場合は、また違った倫理的解釈になるだろう。

第三節 「私」から「私たち」への広がり

前節で述べられたように、倫理的世界観において、そのすべての始まりは「私」である。
そのため第一義的に「私」がすべての価値の根源なのであり、私がいなくなればすべての価値が無に帰す。その意味で「私」の価値はすべてのものを超越する価値を持つ。

「私」に特権的地位が与えられた。では倫理は「私」を唯我独尊の存在としてこのまま語り続けるのだろうか?
そうではない。「私」が特権的地位を持つとしたのは「第一義的」なことなのである。確かに「私」はすべての土台として存在していなければならないが、倫理は「私」だけでなく「私たち」の主体的選択も考察の範疇に含む。このため、次は「私」から「私たち」へその範囲を広げるのである。
では「私」という主観を飛び越え、どのようにして「私たち」=間主観に移行していくのか?
ここで前章で述べた論法が役立つ。間主観の価値構成が成立するためには何が無くてはならないかを検討するのである。
そうするとまず第一に必要不可欠なのは、それぞれの「私」同士が同じ感覚や価値観を共有することである。
では次にどのような要素が感覚や価値観の共有を可能にするか?
まず考えられるのが感情移入だ。最初に移入するのは多くの場合、最も身近な人間、親になるはずだ。親も自分と同じように快・不快、嬉しい・悲しいと言った感情があることを理解し、自分と同じ「私」の一人だと感じることが間主観の確立にとって不可欠であろう。これにより初めて「私」以外の「私」について意識され「私たち」への扉が開かれる。

第二に考えられるのが言葉や概念の理解だ。
特にある程度複雑な間主観的価値構成を行うために必要になる。「私」が他の「私」と同じ価値を構成出来るのは、言葉や概念によって考え方や感じ方を共有出来るからだ。言葉や概念無しに複雑な思考や感情を共有できるとは思えない。したがって言葉や概念も間主観的構成のための必要条件だ。

ただし、ここで挙げた間主観的価値構成の二つの要件は必要条件ではあるが「感情移入」であれば他者に感情移入しにくい人、しやすい人「言葉や概念の理解」であればよく理解ができている人、あまりできてない人など濃淡があるものであろう。そこで例えば、他者への感情移入はそれほど強くないが、言葉や概念に優れる=自分の考えや感情を言語化するのに優れている人などがいることも想定できる。その場合、他人の考え方にはあまり共感を示さず自分の主張ばかりをする自分勝手な人になる、といったように考察された要件をもとに人柄を予測することも出来るかもしれない。
このようにここで考察された結果をもとに人柄などを分析すると言うことも興味深い。だがしかし、ここでの考察はあくまで倫理に関することに矛先が向いている。

第四節 間主観の展開

ここで「私たち」=間主観の展開について考えてみたいが、これからの話は倫理的考察の本筋からは少し逸れるものである。といのもここまでの考察は「あるものが成り立つためには何が無くてはならないか」という論法で議論を進めてきたが、これから語られる考察はその論法とは異なる切り口で進められるからである。
そのため、すべての人に適用されることを求めようとする主旨からは少し外れたものとなる。ただし、これはこれで倫理の現実問題への応用、つまり実践倫理のためのよい準備となることが期待できる。

主観から間主観に移行するための2つの要件が挙げられた。一つが感情移入でもう一つが言葉や概念の獲得である。
そうすると原初的な間主観の形成は、一番最初に感情移入する相手でありかつ一番最初に言葉や概念を共有する相手(つまり言葉や概念を教えてくれる相手)との間に生じるから、それは多くの場合親(養育者)になるであろう。
そして親もっと言えば家族が「私」にとって最初の「私たち」=間主観となりこれを発端として、友達が出来れば友達が「私たち」になり、学校に入ればクラスメイトが「私たち」になったりと多様な間主観が作られていく。
このように、これまで獲得した「私たち」=間主観の成立要件にもとづき「私たち」の成り立ちについて解釈を行みてみよう。

・家族
上記でも言及したが、もし「感情移入」と「言葉・概念」が間主観の成立要件であるとすれば、最初に「私」から「私たち」へ展開するのは、最初に「私」と共にすごし、最初に「私」に言葉や概念を教える者との間に共に成立するだろうから、多くの場合それは家族となる。
しかも実際は「私」から「私たち」へ展開するというより、こと家族のような原初的間主観については「私」と「私たち」の形成はほとんど同時進行でなされるだろう。というのも「私」がある程度複雑な主体的選択を出来るようになるためには、家族のような他の「私」からの学習が必要になるであろうし、もっと言えば家族すなわち原初的な「私たち」なしに「私」は十分な価値構成の能力を育むことができないだろうからである。つまり「私」という主観の成長は、家族という間主観の中でこそ行われる。だから、この双方の形成は同時的であるし相互的であるとも言えよう。
そして何より重要なのは、家族も「私」と同じ「私」(「私」と同じように感情や意志を持つ「私」)であり、また「私」自身もその中の1人として存在しているということを理解することである。
先にも述べたが、「私」は価値の構成者として価値を超えた特別な存在である。ということは家族が「私」同様の「私」であると理解することは、「私」以外の「私」もまた同様に価値を超えた特別な存在であることを理解するための足がかりととなるのである。

・友だち
家族という原初の「私たち」を獲得した「私」はそれに止まらず、さらに「私たち」を拡げていくであろう。おそらく家族の次に典型的な「私たち」は友だちではなかろうか。
ではまず感情移入という側面から見てみよう。最初の友だちとして想定しやすいのは、保育園や幼稚園あるいは小学校の同級生といったところか。その場合、接する機会が多いことに加え置かれている状況や年齢が同じ(ということは知能や身体の発育も比較的近い)ことから感情移入もしやすいだろう。
言葉・概念についても、特に興味関心が似ている友だちとの間では、当人同士でよく使う言葉などもあるだろうし、ともすれば家族には使わない言葉を友だちといるときは使うということもあるだろう。そのように言葉・概念の共有の度合いが家族以上に強くなれば、いずれは家族より友だちの方が「私」の所属する「私たち」であると意識するようになるかもしれない。
つまり友だちは家族という「私たち」を離れてそれ以外の「私たち」の中に「私」が移行していくための発端となるのである。といっても実際には家族という「私たち」から離脱することはなく、家族にも友だちにも属しながら、ただどちらの「私たち」に属している意識が強いかという強弱の差として表れることが多いだろう。
このように友だちは、置かれている環境や知能・体力が似通っているため感情移入しやすく、興味関心が似ているため言葉や概念を多く共有する、という状況により形成されるということが言えるのではないだろうか。
いずれにしてもここで重要なのは以下のことだ。
「私」は家族という「私たち」を土台として、別の様相を持つ友だちという新たな「私たち」へ展開していく。そして「私」の形成が家族という「私たち」の形成と共に行われるということを鑑みると、「私」が形成されたとき「私」は家族の中の1人として在り、その次は友だちの中の1人として在り、といったように「私」は最初から常に「私たち」の中にいる「私」として在る。つまり「私」と「私たち」とは別ち難い存在であり、それは「私」が常に「私たち」の1人として生きていく存在であることを示している。

・社会
「私」は成長していく過程で家族や友だち以外の様々な人々ととも関係していくであろう。その場合、家族や友だちから得た間主観のあり方を基礎として、「私」はそれらの人々と「私たち」を形成していき、さらに間主観を拡大・展開していく。
そうすると「私」は社会という大きな「私たち」の中の1人として位置付けられ、ついには一緒に過ごしたり言葉を交わしたことが無いふでも同じ社会における「私たち」同士であると感じることができるに至るであろう。
初対面の人同士がやり取りをする場合、相手も「私」と同じように感情や意志を持つ存在であること、そして同じ社会にいれば持っているであろう似たような考えや価値観(それは常識や慣習と呼ばれる)を共有していることを互いが前提とすることで、お互いを尊重し合うやり取りが可能になる。それはつまり初対面の相手に対しても「感情移入」(相手を「私」と同じ様な「私」の1人であると感じること)、「言葉・概念」の共有(同じ常識を共有していること)という間主観の要件が瞬時に成立するということである。

このように「私たち」は「私」を出発点として拡大し、あるいは縮小もしうる(例えば前章で神も「私たち」の一部として語りうるという話をしたが、神への信仰が薄れ、ほとんどの人が神を信じなくなったとき「私たち」の中から神は除外されるだろう)。
だから「私たち」というのは決して固定されるものではなく、常に変化する動的なものである。
したがって、倫理のすべきことは「私たち」の範囲を固定してその様を分析することではなく、「私たち」の展開の過程を観察し、そのあり方を分析することにある。そしてこのように「私たち」が「私」から生じ展開するものと捉えること、これを「私たち」の発生的解釈と呼ぶ。

第七章 「私たち」の範囲はどのように決定されるか

第一節 「私」は「私たち」を超える特権を持つか?

「私たち」の広がり方に関するあり方を分析することが、倫理の一つのテーマということが示された。そこで次に考えるべき課題は、この「私たち」の広がりのその範囲はどのように決定されるのか?ということである。というのも、これまで再三述べたように「私たち」の存在は超越的価値を持つわけだから、「私たち」の範囲を決定するルールを明らかすることは超越的価値を持ちうるのはどのような存在か、というわれわれの価値判断に大きくかかわる問題となるからである。
この問題を検討するにあたり、次のことについて改めて考えてみたい。それは「私」の価値である。「私たち」の範囲の中心点は「私」であるから、まずこの「私」の価値について言及しなければならないだろう。
「私たち」を発生的に解釈する場合、その始点は「私」となる。「私」は倫理的世界の中心点である。倫理的世界は「私」=主観を中心としてあり、かつ常に「私」とともにある。実際、「私」は自らの主観によってしか世界と繋がっていない。何人も他のものの主観から世界を見たり、聞いたり、触れたりすることはできない(どう見えているのか想像することはできても)。そしてまた仮に「私たち」のうち「私」以外の誰かが死んでも「私」と世界は存続するが、「私」が死ねば私にとっての世界も共に消滅する(では死後の世界の存在を否定するということか?第三章で述べたように「私」と世界は身体を介して繋がっている。だから身体が死ねば「私」と世界を繋ぐ門は閉ざされる。つまり「私」の身体が死ねば、この世界を見ることも触れることもできなくなるはずだ。もし死後の世界があるとするならこの世界とはまるで別の世界で、おそらく因果律の通用しない世界だろう)。
こう考えると「私」は「私たち」以上に特別な存在ではないだろうか?もしそうだとするなら「私」の存在は「私たち」よりも優先される最も価値の高い存在ではないだろうか?確かにこの世で最も大事なものを聞かれて「自分の命」と答える人がいてもおかしいことではない。ではそうだとすると、「私」の命のために他の多くの命が犠牲になることも許容されるのか?
もしこれが「私」の思考のうちに留まっているならこの主張には妥当性がある。ところがこれを他の者に対し主張するとたちまち矛盾に陥る。なぜなら、それを主張された者はこう言うはずたからだ。
「私にとっては自分が「私」であなたは「私」ではない。だからその主張を認めるなら、私にとって最も価値のあるものはあなたではなく私だということになる。」
つまり「私」が「私」の価値の特別性を他の者に主張した瞬間、「私」とは主張した者を指すと同時に主張された者も指すことになる。主張をする前の「私」は主張をする者のみを指すが、誰かに主張した途端、主張された者自身も「私」の一人となり二人の「私」が立ち現れる。ということは、結局誰かに「私」が「私」であるがゆえに特別であると告げた時点ですでに「私」は何ら特別なものではなくなってしまうのだ。
ゆえに結論はこうだ。「私」が「私たち」以上の特権を持つことは「私」の中で考えているだけならば妥当するが、それを主張した時点でその妥当性は瓦解する。

第二節 「私たち」の範囲は価値についての対話者の範囲であるということ

上の結論が示唆することは次のことだ。「私」という存在は倫理的世界において特別な存在には違いないが「私」以外の「私」との繋がり、すなわち「私たち」内部での関係において捉え直すとその特別性を失う、というより「私」が持っている特別性が「私たち」に転嫁され、それが「私たち」の存在価値の超越性の根拠となるということだ。
また上の議論において、「私」以外の「私」と繫がるのは価値に関することを相手に主張をすることによってなされている。つまり「私」が倫理的に他の「私」と繫がるのは、相手と価値に関する対話をするときなのである。
「私」が相手に自分の価値観について話す、または相手の価値観を聞くということは、「私」と相手の価値観を共有したり自分と相手の価値観を擦り合わせようとしたりすることであって、それは相手が主体性を持った価値の構成者であることを前提としているし、そしてそれはまさに相手と共に価値を構成しようとする行為なのである。したがって「私たち」が価値を構成するということは、それぞれの「私」同士で対話をするというのとなのである(対話と言っても直接的に顔を合わせて話し合うことだけでなく、本やネットなどの媒体として相互の主張を見たり聞いたり、こちらの主張を発信したりという形態で行われることも含むだろう)。裏を返せば、価値について対話している相手は「私たち」の範疇にあるものに他ならない。
そこで「私たち」の範囲に関する一つの読み替えが可能であることが分かる。すなわち「私たち」の範囲がどのようなルールにより決定するか?という問いは、価値に関する対話者として成立するものの範囲はどのようなルールにより決定するか?と読み替えるのことが出来るのである。
では価値に関する対話ができるかどうかが「私たち」の範囲に含まれるかどうかの基準になるのだろうか?
しかしそうすると、まだ言葉を話せない小さい子どもや事故や病気で意識を失い会話ができない人は「私たち」の一員ではないことになる。それは価値感覚に著しく反する。
では、このように考えればうまく説明がつくのではないだろうか?
小さな子どもは成長すれば対話できるようになるし、意識を失っている人も意識が戻れば対話できる。そこで、現時点で対話が不可能な者でも将来的に対話できる可能性のある者は、潜在的な対話者として対話可能な者と同様に見なすのである。この考えを取り入れ端的にまとめるとこうなる。
「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のあるものは「私たち」の範囲に含まれる」

実はここまでの議論の中で「私たち」の範囲の極端な膨張が引き起こされている。
前々節において示された結論がこれだ。
「私」が「私たち」以上の特権を持つことは「私」の中で考えているだけならば妥当するが、それを主張した時点でその妥当性は瓦解する。
この結論の前半部分が主張するのは、もし「私」が自らの特権について自分の頭の中にだけ留め、他者に対してそれを主張しない場合であれば、それは正しい(つまり「私」は他者を優越する特権的価値を有していることが正しい)ということになる。
もしこれが正しいとすると、次のことを認めざるを得ないように思われる。
例えば、実際に自らに特別の価値があると考える者がいたとして、この考えについて誰とも議論を交わすことなく正しいと思い込んでいる場合、自分の利益のために他者を殺害したとしても、その者が自分の特権について他者に主張していない限り、その者の倫理的判断は正しい。
これが果たして価値感覚に照らし合わせて、正しいと感じられるものだろうか?そうは思えない。
これは「私」という個の存在に対し無条件に他者を優越する特別な価値が付与されるという、あまりにも自己中心的な主張であって、あくまで他者にそれを主張しないという条件付きではあるが、少なくともその条件下においてはそれが正しいものになってしまうという点で受け入れがたいものがある。

では一方上述で導いた次の結論はどうだろうか?
「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のあるものは「私たち」の範囲に含まれる」
この主張が何を示唆するか。
次の事例を考えてみよう。
生まれながら重い障がいを負い、複雑なコミュニケーションが取れない人がいたとする。言葉を発することができず、意識はあるが自分の要望などは自ら表現できず、介護者がその時々の様子を見て、その者が何を必要としているかを読み取り世話をしている。そして今後この症状がよくなる見込みはない。
他方で非常に頭のよいチンパンジーがいる。彼は手話を習得し、それにより人と簡単な双方向のコミュニケーションが取れる。
この場合、どちらがより対話ができる存在かと言えば、単純な能力の比較では後者という事になる。
そうすると前者は「私たち」の範囲外になる可能性があり、後者は「私たち」の一員と認められる可能性がある。それはつまり、重度の障がいがある人間より賢いサルの方の方が優越した価値をもつ可能性がある、という結論を導く。しかしこれは私たちの価値感覚として許容しがたいであろう。
では、こう考えるのはどうであろうか?価値に関する対話ができるという基準はもっと寛容なものであると考えるのである。つまりそこまで複雑なコミニュケーションができなければいけないわけではなく、一定の対話が可能であれば、すべて「私たち」の一員であると見なすのである。前者の場合、確かに自らの意思を表現できないが、それを様子や表情から意思を読み取ることができる。これを対話ができているものと考える。そうすると確かに後者のチンパンジーより対話能力は劣るが「私たち」の範囲に含まれ、そうであれば「私たち」の一員として、等しい価値を有すると考えることができる。(もちろんこの場合、チンパンジーも「私たち」の一員に加わるという事になるため双方の価値は等価になる。)
このように考えた場合、言語による双方向の対話でなくても、ある程度の意思疎通ができるのであれば、すべて対話が可能なものと見なすことになるわけだから、ある一定程度の知能を持つ動物などはすべて「私たち」の範囲に取り込むことになる。
しかし実際には現代日本では、ある程度知能が高い動物に対しても、法的な手続きを踏まえれば所有物として飼ったり食用のために屠殺することも認められる一方、人間に対してそのようなことを行うのは禁止されている。つまり、少なくとも現代日本の価値感覚に照らし合わせれば、対話能力の有無にかかわらず、人間と動物には一定の価値の差があると考えるのが一般的であろう。(もちろんこれに対しては、現代日本の価値観が遅れているだけであって、本来はある程度の知能を持つ動物にも人間と同等の価値があり、そのためそれに見合った権利を付与すべきという考え方はあるだろう。)

このように考えると、結局のところ現代日本の価値感覚にアジャストした考えという点では「「私たち」の範囲の線引きは種としての人間である。」という主張が、結局のところ最もしっくり来るようにも思われる。しかしこの主張は次の欠点を持つ。
まず人間という種の線引きは誰が行うかというと、一般的には生物学または生物分類学が行う。
しかし生物学が科学の一分野であるところ、第三章において表明されたように、倫理は科学とは異なる世界観に基づき積み上げられる。そのため「私たち」の範囲はどこまでか?という倫理の基盤になる問いの答えを生物学に依存してしまうのは設計上不都合がある。
「私たち」の範囲が種としての「人間」であるという主張は、素朴な感覚としては理解しやすい考え方である。しかし本来倫理がその本領を発揮するのはその感覚にブレが生じたときだ。だから仮に見た目が全く人間そのもので、人間と同じような感情を持ち、同じように振る舞うロボットが現れたとして、これは「私たち」と同じ人間と認めてよいか?と言った答えに迷うような問いにこそ倫理は活躍すべきなのだ。
にもかかわらず、もし倫理が生物学上の人間という種の分類にそのまま乗っかるだけであるなら「ロボットは当然に「私たち」の中に引き入れられる余地はない。なぜなら生物学的に人間でないから。」と言った倫理考察の欠片もない結論しか導き出せない。確かに前節でも述べたように倫理を運用する上で生物学などの専門知識は重要ではあるが、この線引きそのものは倫理自ら引かねばならないのである。

議論の膨張の話に戻ろう。「「私」が「私たち」以上の特権を持つことは「私」の中で考えているだけならば妥当するが、それを主張した時点でその妥当性は瓦解する」という主張は「私たち」の範囲を「私」という単一の存在に押し込めてしまう可能性を示唆し、逆に「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のあるものは「私たち」の範囲に含まれる」という主張は意思疎通の可能性があるものは動物なども含め、すべて人間と等しい価値があることになる可能性がある。そのためこの一連の議論において「私たち」の範囲が極端に膨張することになってしまうのである。
余談だが、現実の世界でも、何でも自分が一番優先でないと気が済まないといった自己中心的な人もいれば、命あるものすべてを大事にする博愛の人もいるのであって、この膨張が荒唐無稽な結論を示しているとまでは言えないのかもしれない。むしろ、どうして同じ社会に生きているのにこうまでも対極の価値観を持つ人々が存在しているのだろうかということを現す議論であるのかもしれない。つまり、考え方を少し違えるだけで、価値観は全く変わってしまうということを示唆するような議論にも思える。

第三節 倫理的世界観において「対話できる者」を捉えなおす

「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のあるものは「私たち」の範囲に含まれる」という主張は、字面をそのまま受け取ると、対話できるかどうかという能力による線引きなのだと捉えることができる。そうすると能力あるものは「私たち」に含まれ、能力のないものは「私たち」に含まれないという、能力主義的な主張として解釈される恐れがある。そのため「対話する」ということがどういうことなのかを改めて考え直さなければならないだろう。
これまでに何回か述べたように、倫理的世界観は「私」の主観から全てが出発する。だから上記の課題も「私」の主観の延長線上の出来事として捉えなおさなければならない。
上で考察した「自らに特別の価値があると考える者がいたとして、この考えについて誰とも議論を交わすことなく正しいと思い込み、自らの利益のため他者を殺害した」者の話を考えてみよう。
このとき「誰とも議論を交わすことなく、自らに最も価値があると考える者」を想定し、かつこの者を客観的な視点から捉え吟味することはできる。ところが、すべてを「私」の主観の延長線上にあると捉える倫理的世界観を前提として想定すると、結局のところ、その「誰とも議論を交わさない者」は「私」の主観の延長線上にある一つの対象となる。
「客観的な視点」とは、ある対象をみるとき、私たちの主観を混入せないように観察したり考察したりする視点であり、それはいわばその対象と無関係な立場から俯瞰的に対象を観察する視点なのである。一方で倫理的世界観においては、すべては「私」の主観の延長線上であり、主観から切り離された対象は存在しない。言い換えると、倫理的世界観においては、すべての対象が主観と何らかの関係性を持って存在している。
したがって上記の「誰とも議論を交わすことなく、自らに最も価値があると考える者」を「私」が想定し、そのものの価値観について吟味した時点で、その者と私という2者間による議論がされるため、この主張はやはり瓦解する。
このように考えると倫理的世界観においては、「誰とも価値についての議論を交わさない者」の価値について考えることは不可能であることが分かる。なぜなら、その者の価値観を考えた時点で、すでにその者だけの価値観ではなくなっているからである。

では「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のあるものは「私たち」の範囲に含まれる」という考え方はどうだろうか?
これも倫理的世界観においては、単なる対話能力の有無の問題ではなくなる。というのも能力の有無といった場合、それを判定するためには何らかの客観的基準(発話ができるとか、相手の意図を理解できるとか)を用いざるをえないからである。もちろん、議論の過程において客観的な基準を設定する必要が出てくる場合もある。(再三述べているように倫理においても、客観的視点により物事を捉える最たる分野である科学的知識は重要である。)
しかしながら、倫理的世界観では第一に「私」の主観に現れた経験が基礎となる。ゆえに「価値に関する対話ができる者またはいずれ対話ができる可能性のある者」とは何らかの客観的基準を満たしたから「私たち」の一員候補として浮上してくるわけではなく、「私」がその者と価値についての対話ができると感じる経験を契機にして候補として現れるのである。

第四節 間主観的基準

ここまでの議論を踏まえると、「私たち」の範囲の境界線は「私」が価値に関する対話ができる(またはできる可能性がある)と感じた者ということになる。では「私たち」の線引きは主観的な感覚に委ねられているということになるのか?
確かに基礎にあるのは「私」の主観的感覚であるが、実際の範囲の線引きは「私たち」の中で形成されていくものである。例えば「私」がある者Aを「私たち」の一員であると感じたとする。その感覚に基づき「私」がAにも「私たち」と同様の権利を付与すべきと主張する。このときそれに異を唱える者がいることもありうる。そうすると「私たち」の中でAが「私たち」の範囲に含まれるかの議論が交わされ、その議論の結果によりAが「私たち」の範囲に含まれるか決するのである。(なお、この場合A本人が自身を主体的な意思を持つ存在であると主張することもできる。もしAが自らの価値について言語(音声言語でなくてもよいが)で表明し、相手がそれを受け取ることができるのであれば、その時点でAを含めた「私たち」の間で議論が交わされたことになり、その時点でAは「私たち」の一員となる。そのため実際にこのような議論になるのは、その者の意志が一見すると認識しずらい場合になるだろう。)
「私たち」の範囲の境界線は「私たち」の議論により決する。ということはその境界線の線引きはそれぞれの「私」の経験を基礎として、それらを材料とした議論により決する。

「私」の主観的経験を発端としつつも、実際には「私たち」の議論により「私たち」の範囲の境界線は形成されていく。これは前章でも言及した「「私たち」の範囲は変動する」の内実を示すものだ。
「私たち」の範囲は、普遍的な線引きとして、あらかじめ引かれているわけではない。普遍的なものとしてあるというのは、誰が、どの時代においてもそのように決定されたものであるということである。それに対し、倫理的世界観における基準は、各々の主観(私)同士の議論により決定する。これが間主観的基準というべきものである。「私たち」の範囲、それは間主観的基準により決定される。それがここまでの議論で導かれた一つの結論である。
そしてこのことが示唆することは、倫理において重要なのは、この間主観的基準を形成するための議論がどのようなあり方で成立するのか、または成立すべきなのかを考察することなのである。

第八章 「死刑制度の是非」に関する倫理的アプローチ

第一節 現実的諸問題への応用の可能性

ここまで倫理の基盤に関わる様々な論点について考察を重ねてきた。
これらを踏まえここで築き上げた倫理理論がどのように現実の諸問題へ応用できるから検討してみよう。
しかし前章で結論付けたように「私たち」の範囲を決定するルールと同様、倫理に関する他の諸問題もやはり「私たち」の議論において決定される。
そのため現実的諸問題へのアプローチの際も本来は議論により決しなければならない。では私一人の考察では現実的諸問題に対して有効な考察はできないのであろうか?
そうではない。すでに第四章で示したように、これまで考察された倫理に関する普遍的な基盤を応用すれば、私個人の頭の中でもある程度の議論は可能である。
第二章で述べられたように、倫理はある選択をする際にどちらを選択する方が価値が高い結果が得られるか、という考え方をする。そのため現実的諸問題についてもAにすべきかBにすべきかどちらがより価値の高い結果を得られるか、という視点で考察を行う。その考察にあたり、ここまで論じられてきた倫理の基盤に関する事柄を応用するわけだが、この倫理の基盤とは「倫理」が成り立つために必要不可欠な言わば「倫理」の本質ではあるが、それ自体は価値判断ではない。問題は価値判断でないものから、いかにして価値判断を導出できるのかという点である。
倫理の基盤となる事柄それ自体は、われわれが具体的にどのように行為する方が良いのかといった価値判断そのものを指し示すものではない。そのため、まずは価値判断ではない事柄から価値判断への飛躍について解決する必要がある。
ここまで読み進めた者ならすぐに気づくだろうが、倫理の基盤から直接的に導くことができる1つの価値判断がある。
第五章で語られた「「私たち」の存在は超越的な価値を持つ」という命題、これはわれわれの現実の行為選択の基準として応用される。というのも、この命題から、現実の行為選択に用いることのできる次の価値基準が直接的に導出できるからである。
「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」
この基準はわれわれの行為選択の際に機能する。すなわち、何らかの行為選択を迫られたとき、その選択肢の一つが「私たち」の一員である者の存在を滅する、つまり命を滅するような結果を導く行為であれば、それは選択してはならない、と。例えば出勤中に人身事故に遭遇したとき、われわれはこの基準に従い、定刻通りに出勤するという選択肢を捨て救急車を呼ぶなど人命救助のための行動を選択するであろう。
まずはこれが現実的諸問題への応用の出発点となる。

現実的諸問題へ応用するためもう一つの武器が第四章で示した倫理における4つの視点である。
①論理
②私の価値感覚
③主体的選択の要件
④科学的知識を含む知識
実はこの4つの要素は互いにけん制しあう関係にある。
そのため、この要素のうちの1つからアプローチしていくと、今度は別の要素からの視点でチェックが入る。すなわち他の要素からの視点が入ってくることになり、言わば4方向からの議論の出し入れが起こる。そのため議論が複雑になるが、なるべく整理された形で議論を進めたいと思う。

これで現実的諸問題へのアプローチの準備が整った。そこで今回考察する問題は「死刑制度の是非」についてである。
その前に一つだけ断っておこう。これはあくまでも倫理がどれだけ現実的問題に関して迫ることができるかを試みるものであり、「死刑制度の是非」について断定的な私的主張をするものではない。
というのも現実の死刑制度は、加害者、被害者のみならず被害者遺族、加害者の生い立ちや、社会制度、社会状況など考慮すべきことが膨大にあるからである。到底、私一人の持てる知識だけでは、断定的な結論を出せるものではない。それこそ大勢の「私たち」での議論が必要になる。
ともあれここで構築されてきた理論の初めての実践的議論であり、これによりどの程度この「倫理の時間」で語られたことが現実社会に対し意味を持つのかを知る機会になると思われる。

第二節 「私たち」の範囲という視点からの考察

前節で述べたとおり「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」という基準が考察の端緒である。
この基準を「死刑制度」に当てはめるとどうなるだろうか?おそらく単純に考えれば「死刑制度」はこの基準に反することになるだろう。
「死刑制度」とは国が合法的に人を殺害できる制度である。そのため上記の基準に照らすと死刑制度は認められないはずである。
果たして本当に死刑制度を設けることは、この基準に反するのであろうか?
「倫理は主観から出発する」
そのため、今ここにいる私の主観から議論は展開される。
すると私がこの死刑制度の是非について考える場合、今目の前にある死刑制度、つまり日本における死刑制度がその対象となるのが自然な流れだ。そしてそれゆえ本来は日本で定められている死刑制度を詳細に理解した上で議論をすべきである。
しかしそうなると議論を始める前に、延々と死刑制度に関する解説を述べなければならなくなってしまうが、それはここでの本旨からずれる。
そこで今回はより一般的に「殺人罪に対する死刑の適用」に絞って議論を進めたいと思う。

①論理的視点からの議論(1)

倫理の基盤から導かれる一つの普遍的基準は以下のものである。
「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」
ということは死刑制度が認められるのは、この大原則と論理的に整合するかたちでその制度の正当性が成り立っている場合だけである。
考えうる論理的道筋は二つ考えられる。
(1)殺人犯は「私たち」の中から除外される。それゆえ「私たち」の命は超越的な価値を持つという場合の「私たち」に殺人犯は含まれないから、その命は超越的な価値を持たず死刑が適用されうる。
(2)「「私たち」の存在は絶対的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」というのは倫理の大原則であるが、その特別な例外事項として殺人犯には死刑が適用されうる。
まず(1)の道筋から考えてみよう。
「私たち」の範囲は変動するということが、この「倫理の時間」における一つの結論であった。そうであれば、殺人を犯した者を「私たち」の一員から除外するという考え方がありうるかもしれない。
そして除外されるのであれば、その者の価値は超越的でないと見なされ死刑適用の余地が生じる。
議論の取っ掛かりとなるのが、第六章で示された「私たち」の形成の要件「感情移入」と「言葉や概念による理解」である。
まずは感情移入の側面から考えてみよう。
われわれは殺人犯に対し感情移入できるだろうか?
もし殺人の動機が、殺害した相手に大金をだまし取られたといったことや、ひどいパワハラを受けたといったことであれば、殺人犯に対しある程度感情移入できるかもしれない。しかし被害者には何ら落ち度もなく完全に犯人側の利己的な動機による犯行であれば、全く感情移入できないかもしれない。
そしてもし「感情移入」が「私たち」を繋ぐための必須要件であるならば、次のことが言えるかもしれない。
利己的な動機による殺人犯に対し「私たち」は感情移入できない、したがって「私たち」の一員から除外され、それゆえに死刑適用の余地が生じる。
では、ここまでの論理的構造を見てみよう。
まず先に定立された原則を第1命題とする。
第1命題
「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」
ここから論理的に次の命題が導出される。
第2命題
「「私たち」に死刑を適用することは禁止される。」
そして、上記の(1)のアプローチはこの第2命題から純粋に論理的に導き出せる以下の命題を拠り所にする。
第3命題
「「私たち」でない者については死刑を適用する余地がある。」

※これは「「私たち」でない者については死刑を適用できる」という結論とは異なる点に注意が必要である。第2命題から導出できるのは「死刑を適用する余地がある」ということだけである。
そこに次の仮説が立てられた。
仮説1
「「私たち」が感情移入できない存在は「私たち」から除外される」

仮説2
「利己的な動機による殺人犯に対し「私たち」は感情移入ができない」

もしこの仮説が正しければ、命題3とあわせて次の結論が導かれる。
結論A
「利己的な動機による殺人犯に対しては死刑を適用する余地がある。」

結論Aは「利己的な動機による殺人犯」についての死刑適用の可否に関する問題である。一方で、ここで議論のテーマとしてきたのは「死刑制度の是非」である。したがって、この結論Aは制度そのものの是非に直接言及するものではない。
しかしながら、次の結論は導ける。
利己的な動機による殺人犯に対し適用される死刑制度は、倫理の原則に論理的に矛盾しない。

②私の価値感覚に基づく議論(1)

仮説1について私の価値感覚に基づいて吟味してみよう。
「感情移入できない存在は「私たち」から除外される」ということは私の価値感覚に照らして妥当と言えるだろうか。
次の例を考えてみよう。
「大学生のAは協調を重んじる性格である。そんな彼の所属するゼミにBという学生がいる。
Bは周りの目を気にせず行動する。大人数の講義でバンバン質問するし、ゼミの活動でも前例のないことを提案し、その対応のためゼミの教授や他のゼミ生の手間が増えたりということもしばしばある。
協調を重要視するAにとって調和を乱すBの行動は理解しがたいものであり、その行動に感情移入することができない。
Aが他のゼミ生に聞いたところ、皆も同じくBに感情移入ができないという意見だった。そこで、B以外の全員が彼に感情移入できないということを理由にBをゼミから除外するように教授に訴えた。」
この例は仮説1を感覚的にとらえるにあたって想定したものである。
学生Bは殺人犯などはなく、人に多少迷惑をかけているかもしれないが法律や大学のルールに違反しているわけでもないから、これが直接に殺人犯の話に置き換わるわけではない。
ただし、仮説1が示している「「私たち」が感情移入できない存在は「私たち」から除外される」という形式に合致している。
そのため、もし価値感覚としてAと他のゼミ生の行動に違和感があるのであれば、それはこの仮説1そのものにどこか誤りや不足する点があることになる。
学生AとBの例について、少なくとも私は違和感を感じる。私も調和を重んじる性格なので、無遠慮な行動を取る人には多少苦手なところがある。そのため気質としてはAに近いかもしれない。
しかし、この例文の中でのBの行為は悪意があってやっていることとは思えない。おそらく、素直に疑問があるから講義でも質問しているだろうし、ゼミでの提案も彼なりにそれが良いと思って発言していることだろう。そのためBに感情移入ができないからと言って、その理由のみで「私たち」(ここではゼミ)から除外することは妥当とは思えない。
このことから次の疑義が生じる。
仮説1は誤りであるか、もしくは不足している点が存在する。
仮説1が示していることは「私たち」が感情移入でなきい者は全て「私たち」から除外されるということである。
学生Bの例を踏まえると「感情移入できない者」を全て一律で「私たち」から除外するというのは、かなり極端な主張ではないかと思われる。
感情的に認められないから排除するというのは、単にその行動などが気に入らないという理由だけでもって社会の多数者と異なるものを排除する危険を孕むように感る。このことから「感情移入」の有無という理由のみによって「私たち」から除外することは倫理的に問題がありそうだ。

③論理的視点からの議論(2)

もし仮説1が誤っているということになれば、
結論A
「利己的な動機による殺人犯に対しては死刑を適用する余地がある。」
も崩れ去ることになる。

では仮説1を補強するという手はどうだろうか?それはすなわち「私たち」から除外される者の条件として「感情移入」以外の要素も追加するということである。
その候補として真っ先に思いつくのが「私たち」の形成に関するもう一つの要件「言葉や概念による理解」である。
②において、私は学生Bのような者が苦手であるということを前置きをしつつ「Bの行為は悪意があってやっていることとは思えないし、おそらく、素直に疑問があるから講義でも質問しているだろうし、ゼミでの提案も彼なりにそれが良いと思って発言していることだろう」と述べた。
それはつまり、学生Bの行動は感情的には理解できないが、理屈の上では納得する部分もあるということを示している。
これはつまり「言葉や概念による理解」は成り立っているということである。
一方、利己的な動機による殺人犯は、言葉や概念を尽くして理解をしようとしても、なぜそのような犯行に及んだか理解できないかもしれない。
新たな仮説を立ててみよう。
仮説1´
「「私たち」が感情移入できず、かつ言葉や概念によってもその行動が理解できない存在は「私たち」から除外される」
仮説2´
「利己的な動機による殺人犯に対し「私たち」は感情移入ができないし及び言葉や概念によっても理解ができない」
この仮説が正しければ再び結論Aは浮上してくる。

④科学的知識を含む知識からの視点(1)

仮説2’について検討してみよう。
今度は科学的知識を含む知識からの検討である。
といっても科学的知識は専門的な知識であるから、ここで事細かに叙述することは不可能である。これはあくまで可能性の話ということになる。
果たして本当に「利己的な動機による殺人犯」を言葉や概念によっても理解できないのだろうか?
犯行の部分だけを取り出すと、その行為や動機などを感情のみならず言葉や概念、つまり理屈の上でも理解できないかもしれない。

しかし、もしこの殺人犯が幼少期の頃から周りの人たちにひどい扱いを受けながら育ってきたとしたらどうだろうか?
私は専門家でないから正確なことは言えないが、幼少期の体験は人格形成に大きく影響することは確かであろう。もし幼少期や少年期にかけて、彼が周りの大人たちにひどい扱いを受け、それがもとで他者の人命に対する価値観にゆがみが生じていたとすればどうだろうか?
つまりここで言いたいのは、その殺人犯の犯行に係る部分だけでなく、全人生を鑑みた時に、幼少期の体験と殺人という行為の因果関係を理論的に理解しうる可能性があるかもしれないということである。
といっても、ここで具体的に幼少期の体験がその人の人格形成に実際にどのように作用するか証明することは不可能である。
幼少期の体験が人格形成に大きな影響を与えることは事実だろうが、一方で同じような体験を受けても殺人を犯さない人もいるだろう。そのためそこに必然的な因果関係があるかどうかを証明することは難しい。おそらく実際にそれを説得力ある形で提言できるのは、犯罪心理学や発達心理学などの科学分野になるだろう。
ここで言えるのは次のことである。
もしわれわれ人間というものが、その幼少期の体験を原因として他者に対し攻撃的な性格になるということが客観的、科学的に証明されるのであれば、「私たち」は利己的な動機による殺人犯について言葉や概念による理解ができるということになる。
それはすなわち、仮説2’は誤りであることである。
そしてそのとき結論Aも崩れることになる。
しかし、それは同時に次のことも示す。
もし科学が幼少期の体験により人が攻撃的な性格になるという必然性を証明できなければ、結論Aは保持される。そしてまた、幼少期につらい体験など全く受けていないにもかかわらず利己的な殺人に及んだ者に対しては結論Aが保持される。

第三節 科学的知識を含む知識の重要性

「死刑制度の是非」について、ここまで議論してきた。
「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」
この倫理的基準は「倫理の時間」で重ねられた議論を踏まえると即座に導き出される。
人間の価値の絶対性、これが倫理の基礎に据え付けられずして何となろうか。
倫理は「私たち」を動物の一種であるとか物体の一種であると定義づけたりはしない。(人間に動物的側面や物体的側面があることは認めるが、それが人間の本質だとはしない。)
倫理にとって「私たち」は世界すべての源泉となる特別な存在なのである。
そのため「死刑制度の是非」というテーマを選んだ時点で、合法的に人間の命を断つことを許容するこの制度は「倫理の時間」の文脈の中では否定されるだろうと予感していた。
一般的な価値感覚としても、本来死刑などという制度はなくて済むなら、それが一番いいと思われるのではないだろうか?
そのためわれわれの価値感覚に照らしても、原則死刑制度は存在するべきではないという主張の妥当性は保持されるものだと考えている。
しかし一方で、現実に起こる凶悪事件を前にして、死刑制度は必要であると思わざるを得ない状況が存在していることも確かであろうし、だからこそ死刑制度を指示する声は根強い。

殺人犯が死刑に処されるべきと強く感じるのであれば、それはきっと殺人という罪が絶対に許されてはならない罪だからこそであろう。
この点を鑑みると死刑制度に賛成する人も反対する人も、結局のところその根本感情は「人の命は何よりも尊い」ということに集約されるのではないだろうか?
死刑制度に反対する人は、殺人犯の命も尊い命の一つであると考えるから、その者も含め何人も死刑に処されるべきではないと考える。
賛成する人は、殺人という行為が命というこの世で最も尊いものを奪う許されざる行為であるからこそ、死刑という最高罰を持って対応すべきだと考える。どちらも根源にあるのは人命の尊重である。

死刑制度に賛成する人の考えをもう少し詳細につまびらかにするとどのようなものであろうか?
一つの考え方はこうであろう。
殺人は絶対に許されない行為であり、そんなのは人間の所業じゃない。だから殺人犯の命を普通の善良な人々と同じ「何よりも尊い命」として扱う必要はない。
実はこの考え方がまさに今回試みた
(1)殺人犯は「私たち」の中から除外される。それゆえ「私たち」の命は超越的な価値を持つという場合の「私たち」に殺人犯は含まれないから、その命は超越的な価値を失い死刑が適用されうる。
というアプローチの内実そのものなのである。
ところがこの考え方には難点があった。
いかにして、この者は「私たち」から除外すべきと判定しうるかという点である。
判定方法の一つに「感情移入」を挙げ検討を行った。
そして感情移入のみではうまくその判定ができないであろうという結論に至った。感情というものは変化しやすい。許せないと思っていたことも、機嫌がいいときは許せる気持ちにもなるかもしれない。そのように変化しやすいものだけを基準としてしまうと、すぐにその基準がぶれてしまう。そのため「言葉や概念による理解」もそのブレを補正するためには必要である。
一方で「感情」を蔑ろにすることもよくない。われわれは「人の生き方」について考えている。「感情」=嬉しい、悲しい、悔しい、怒りなどは人の生き方にとって重要な要素である。そのため「人の生き方」を語る上でこれらの感情を軽んじることはできない。

今回の議論において、殺人犯となってしまったものの人格形成に関する科学的説明の可能性に言及したが、われわれは現在進行形の世界の中におり、その中では、新たな科学的発見であったり技術的革新によるライフスタイルの変容であったり、様々なことが刻一刻と変化している。そのため、永遠不変の結論として「死刑制度はあるべき」「死刑制度はあってはならない」という答えを導き出すのは実際不可能に近い。それでも、われわれは現実の社会状況、その時点で所持している知識や技術を踏まえつつ、自らの直感や感覚をもとに最善の方法を選択しながら生きていくほかないのである。
次の事例を想定してみよう。
はるか昔、とある山村に原始的な暮らしを営む小規模な村があった。その頃、国や国家といったものは存在せず、この村の自治はすべて村人自らが行っていた。
そんな村で殺人事件が発生した。
犯人はすぐに特定された。
村の慣習として死刑という処罰は存在しない。
この犯人は性格が荒く、放っておけばまた新たな被害者が出かねない。
村を追放しようにも、この村に砦や柵は設置されておらず追い出してもすぐに戻ってきてしまう。
そこで牢屋を作りそこに閉じ込めようと村の者は考えた。
ところが閉じ込めてしまうと、その者を労働力として使うことはできなくなる。
小さい村で自給自足の生活だ。
採取できる作物や獲物の量は限られている。
労働力とならない者に食わせるための食事を用意していては、他の村人たちが飢えてしまう可能性がある。
ほとんど何も食べさせず、ただ閉じ込めておこうか?
それだと結局餓死してしまう。
それは事実上の死刑だ。
むしろ飢えで苦しんだ挙句に死んでしまうよりは、いっそのことひと思いに命を絶ってしまう方が犯人にとってもよい事ではないだろうか?
この事例で私が言いたい事はこうである。
もし殺人を犯すような凶暴な人間がいたとして、死刑を用いずその者による被害を抑えようとすれば、ある程度の文明が必要になるだろうということである。その者を追放するなら、人が越せないくらい高くて強固な柵を作る技術が必要であろう。その者を牢屋に閉じ込めておくなら、その者を食べさせても余るくらいの食糧の生産能力が必要であろう。あるいは凶暴性を緩和するための医学療法があれば、それで万事解決するかもしれない。
つまり死刑制度は存在すべきでないと考えていたとしても、殺人犯に対処する術がなければ結局死刑に頼らざるを得ないかもしれないし、もっと言えば、殺人犯に対処する術を持っているかどうかによって死刑制度の是非に対する結論は左右されうるということである。
だからこそ科学的知識を含む知識、そしてその知識から派生する技術は倫理にとって重要なものなのである。

第四節 「殺人犯」に対する死刑は、倫理の原則の例外であるという視点からの考察

今回議論するのは、
(2)「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」というのは倫理の大原則であるが、その特別な例外事項として殺人犯には死刑が適用されうる。

という視点からのアプローチである。(2)によるアプローチで最初に問題にすべきは「なぜ殺人犯は例外なのか」という点である。例外とするためには根拠が必要である。そうでなければ、どんなことも任意に例外にできてしまう。

⑤論理的視点からの議論(3)

次の基準を普遍的なものとして打ち立てた。
「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」
殺人という行為はこの基準に反する行為である。そこで殺人犯はこの基準を犯したことの因果応報として、例外的に死刑制度適用の余地があるのではないか、ということが一つの主張としてあり得る。
ではこの時の論理構造はどうなっているのだろうか?

殺人犯が殺人という行為を主体的に選択したのであれば、そのとき彼は次の価値基準を用いたということになる。
「私の都合により他者の生命を絶つことは許される。」
「倫理の時間」第七章において「誰とも議論しない殺人者」の例について議論したが、この例に類似している。すなわち、この価値基準についてその者が誰かと議論を交わした途端、この主張は私とその誰かの関係において置き換わりが生じる。つまり私が「私の都合により他者の生命を絶つことは許される。」と相手に主張すると、主張した相手にとって「私」はその相手で、私が「他者」になるから主張した相手がその都合次第で私を殺すことも許される、という図式が成立してしまう。
もっと分かりやすく言えば、こうである。
あなたは「自分の都合により他者を殺害すること」をよしとするわけであるから、同様に他者が自分の都合によりあなたを殺害することもよしとするべきだ、ということである。つまり殺人犯は論理上他者に殺害されることを容認してしまっているというわけだ。
この論法を「因果応報説」と名付けよう。これにより殺人犯に対しては例外的に死刑適用の余地があるということになる。

しかし、われわれが議論しているのは死刑「制度」についてである。
「死刑制度」そのものはまだ発生していない罪に対する罰則として設けられるものである。そのため上記の論法を用いるとしても実際には時系列が逆になる。つまり殺人事件に先んじて「他者を殺害することができる制度」としての死刑制度が設けられている必要がある。
殺人犯の「私の都合により他者の生命を絶つことは許される」という主張が公になるのは殺人事件が発生した時点である。死刑制度が事前に設けられているということは、事件発生以前から国が「他者の生命を絶つことは許される」という価値基準をもって設定していたということになる。そのため果たして、この死刑の「因果応報説」は論理上、因果応報の形を成しているといえるのであろうか?ということが疑問点となる。
つまり殺人犯はこう反論しうるのである。
「確かに私の行動は「私の都合により他者の生命を絶つことは許される」という価値基準のもとに行われたものだが、国が死刑制度を設けているということはすでに私の行動以前から国家が「他者の生命を絶つことは許される」という価値基準を採用していたということである。そのため、死刑制度それ自体が他者の生命を絶つことを許容する前提で設けられている制度あるにもかかわらず、その制度によって他者の命を絶つことを罰することは矛盾している。」

では、この殺人犯の反論を回避するために次のように言い表すのはどうだろうか?
結論B
「殺人を犯した者について、その生命を絶つことは許される。」
具体的な殺人事件が起こっていなかったとしても、仮に発生した場合、その犯人は因果応報説により自らが殺害されることもまた論理上認めたことになるから、殺人犯に限定してその生命を絶つことが許されるというわけである。これであれば、殺人犯は被害者が殺人を犯していない限り反論はできなくなる。

⑥私の価値感覚に基づく議論(2)

「殺人を犯した者について、その生命を絶つことは許される。」
これは価値感覚に照らして正しいと感じられるであろうか?
正しいとする場合、相手が殺人犯であれば私刑によりその者の命を絶つことも許されるということになる。例えば身内を殺害された者が復讐のために私的に仇討ちをするということも許される。これは価値感覚に照らして正しいと感じるであろうか?
私的に復讐することは現行の日本の法律では許されていない。一方で家族を奪われたものの悔しさや憎しみは理解しうる。仇討ちに関しては、個人的に許されては良くないように感じるが、もしかするとここは意見が分かれるもしれない。
ただしもっと言えば、この結論Bが示唆するのは、身内の復讐という動機に限らず、殺人を犯した者は誰であっても、復讐以外の動機であっても殺してしまって構わないということである。そのため、殺人犯であれば誰にでも、どんな動機によっても殺されてしまって構わないとなるこの結論について、やはり私の感覚で言えば否である。

では私刑を認めないとするのであれば、次のとおりさらに補足して基準を定めなければならない。
「殺人を犯した者について、法律の手続きに従いその生命を絶つことは許される。」
だがこのように補足で条件を付け足していくと、結局それに応じて議論すべきことも増えていく。上記でいえば「法律の手続きに従う」のであれば、なぜ許されるのか?という点である。もちろんそれを論証するという道もあるだろう。しかしそれは本旨からずれていくことになるので、それは議論せずにここではこの確認だけをしておこう。
因果応報説に基づく論法では、もし何も限定条件を付さなければ、殺人を犯した者はすべて殺害をされても構わない人間であるという結論になるが、これは価値感覚に反するように思われるということである。

⑦主体的選択の要件からの視点(1)

第四章にて語られた主体的選択の要件の一つとして「未来の予見ができること」が挙げられた。
つまり死刑制度を設けることにより生じると予見される結果が、死刑制度を設けないことにより生じる結果よりも、よりよい状況を生み出す場合、死刑制度は設けるべきものとなる。
死刑制度が直接的に生じさせることは「私たち」のうち特定の罪を犯した者の命が死刑により絶たれるという結果である。しかしこれまでも見てきたように「私たち」の命を絶つことは、倫理上、普遍的な禁止事項である。これに対抗できる、さらに良い結果は「「私たち」の命が絶たれる状況がさらに多く回避される」ことである。
分かりやすく言えば、殺人犯に対する死刑制度を設けることにより殺人事件そのものの数が減少し、結果的に命を絶たれる人数が少なくなる場合、死刑制度は設けるべきであるという結論になる。
これにより結論Bが再び浮上してくるのである。

⑧科学的知識を含む知識からの視点(2)

果たして死刑制度を設けることで殺人事件を減らすことができるのだろうか?
死刑制度が直接殺人犯に対し死を与えるものである一方、死刑制度がその効果として殺人事件を減少させるのは、あくまで間接的な抑止力としてである。このため客観的・科学的な観点から、この抑止力が確実に効果のあるものとして証明される必要がある。
しかし現実的にそれはをはっきりと証明するのは難しいであろう。現在、死刑制度を採用しない国もある。そういった国と殺人事件の発生率を比較すれば良いのではないか?しかし、国によって死生観や宗教観、社会システムが異なるし、また同じ国でも政治状況や経済状況が日々変化していく。すなわち殺人事件を誘発したり思いとどまったりするためのファクターとなりうるものが地域や時代で異なるため、現代の日本において死刑制度が殺人事件に対して抑止力を持つことを明確に証明するのは難しいであろう。ただし、もしその証明が可能であれば結論Bの正当性は保持される。
いずれにしても、前提として「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」という基準が置かれている以上、抑止力に基づく死刑制度の正当性を主張する側が抑止力の効果を証明する必要があり、逆に死刑制度に反対する側は抑止力が無いことを証明する必要はない。
なぜなら死刑制度が人の命を絶つことを直接的に許容するものであることは明らかであるから、その事実のみで「「私たち」の存在は超越的な価値を持つため、その存在を消滅させることは禁止される。」という基準に反していると主張できるが、抑止力に基づき死刑制度の正当性を主張する場合、その効果が確かであることを示さなければ死刑制度を設けることが基準に適合する(つまり結果的により多くの人命が絶たれる事態が回避される)と主張できないからである。

⑧主体的選択の要件からの視点(2)

主題的選択の要件に「選択可能性があること」というものがある。
この視点からの議論も可能である。
選択可能性があるということは、その選択が実現可能かどうかということである。そもそも実現できない行為については選択の余地はない。

その殺人事件の被害者は即死であり、ほとんど痛みを感じずに息絶えたと思われる。
もし因果応報説に基づき死刑制度が設置されるのであれば、殺人犯に与えることができる罰は被害者が被った被害までである。
現在の日本では死刑執行に絞首刑が用いられているが、上記の例のように被害者がほとんど痛みを感じずに亡くなった場合、絞首刑による処刑が被害者が受けた痛みを超えるものであってはならない。
そのため、犯行の状況に応じた処刑の方法を用いなければならないが、それが制度運用上可能なのか?という問題がある。もしそれが出来なければ、因果応報説に基づく死刑制度の施行は現実的に実行できない、すなわちそもそも選択不可能であるということになる。
とは言っても、これは因果応報説に基づいた場合の主張である。もし死刑制度の根拠を抑止力説に求めるなら、より苦痛を伴う処刑方法の方が抑止力が効果的に働くため良いという結論もありうるかもしれない。
また、ほとんど痛みのない処刑方法があれば、それを用いるということで解決することも可能だろう。

もう一つの選択可能性に関する論点として冤罪の問題がある。
これまで見てきた死刑を許容する論説どれを採用しても、それはその者が殺人という罪を犯したことを要因として死刑を被る余地が生じることになる。ということは、当然ながら殺人を犯していない者を死刑とすることは、どの説を採用しても絶対的な禁止事項である。そのためどのような論拠に基づいても冤罪による死刑はあってはならないことであるが、この可能性を排除できるかどうかということが一つの論点になりうる。
もし冤罪が起こる可能性が排除できないのであれば「特定の犯罪を行った者だけに刑を執行する死刑制度」ということが事実上不可能であることになる。そしてどのような論拠におていも死刑を適用してよいのは特定の犯罪を犯した者に限られるから、冤罪の可能性が排除できない限り倫理的に許容しうる死刑制度はありえない、ということになる。
これについては次のような反論が考えられる。
死刑制度それ自体は、理念上執行の対象を特定の犯罪を行った者に限っているのであるから制度自体が冤罪を許容しているわけではない。冤罪の問題は、本来犯人ではない者を犯人と認定するような刑事捜査のあり方や裁判のシステムの課題であり死刑制度の倫理的欠陥ではない。そして捜査や裁判の手順や運用を改善したり、科学捜査の技術などが進歩することにより、少なくとも死刑が適用されるような重大犯罪に関する冤罪をゼロにすることは可能であり、そのため「特定の犯罪を行った者だけに刑を執行する死刑制度」は十分選択可能なことなのである。

⑨私の価値感覚に基づく議論(3)

これが最後にして最も重要な論点かもしれない。
現在の日本の司法制度において殺人犯に死刑が適用される可能性があるのは、被害者が複数名いる場合やその殺害方法等に残虐性がある場合などである。
もし自分の家族など大切な人がそのような凄惨な犯罪の被害者になった場合、犯人が刑務所の中とはいえ生き永らえていることを許容できるであろうか。しかも犯人がその行為に対し全く反省していなかったら。
これは現実に起こってきたことだし起こりうることである。それを鑑みた時、理論や理屈を通り越した倫理的な価値感覚において死刑制度を否定できるものであろうか?最高罰としての死刑を手放してもよいという判断ができるのであろうか?

上記は被害者遺族の精神的救済のために死刑という制度を設けるべき、という議論に繋がる。しかしこれに対しても、では被害者に遺族があれば死刑で、身寄りがなく遺族がいない場合は死刑が免れるということになるのか?それは人の死に対する公平さを欠くのではないか?という論点が考えられる。

ここで言明できるのは次のことである。
これまで倫理における4つの要素により、死刑制度の是非について検討してきた。この4つの要素以外にも考察する視点があり得るだろう。
倫理的な決定すなわち価値判断は第二章で述べられたようにその判断にいたる過程や内容は複雑性を持つ。そして複雑であるということは倫理にとって必要なことである。
感情だけを根拠に判断すると、その一時の感情にすべての判断が左右され判断の一貫性を失ったり正しい事実や推論に基づかない結論を導いてしまうかもしれない。
論理だけを根拠にすると、そこに関わる人々の感情や感覚を蔑ろにし、杓子定規で血の通わない判断になるかもしれない。
科学技術を用いることで、これまでにない解決方法が見つかるかもしれないし、逆にそれを用いることで新たな課題を生じさせるかもしれない。
一つの根拠や一つの視点のみで判断するのは危うい。様々な角度から様々な人々の意見を取り入れて社会的問題に対する価値判断を下していかなければならないのである。

第五節 日本における死刑制度に関する推論

今回「死刑制度の是非」について倫理の視点から考察を試みた。
本来であれば、実際の日本における現実の死刑制度その者に対し議論をするのが理想だが、あくまで倫理理論応用のための試みであったため、日本の死刑制度それ自体というより殺人犯に対する死刑制度を一般化したものを想定して議論を行った。
日本における死刑制度についても少し述べておこう。といっても、ここで述べることは推論の域を出ない。

死刑制度を検討する上では客観的な統計データやそれに関する知識はもちろん重要になってくる。それはこれまでの議論で「科学的知識を含む知識」という視点で何度も検討したとおりである。一方でこの議論においては「私たちが何をどれだけ信じているか」ということも大きいように思われる。

現在諸外国では死刑を設けていない国も多くある。
もしそれが国民に支持されているのだとすれば、それは国民が「国家に死刑という手段を与えてしまうと、国家が自らにとって都合の悪い人間を抹殺することに用いる可能性があるのではないか?」と感じているからかもしれない。これは現在の国家や政権を信頼していないということだけではなく、長い歴史の積み重ねのうちに権力者が法の名の下に邪魔な人間を処刑するという経験を経て得られた教訓ということもあるだろう。
その点、死刑制度が存続している日本は比較的国家や権力に対する信頼が歴史的に根付いているのかもしれない。

一方でこういう考え方もできる。それは国への信頼感の差だけではなく、協調を重んじる意識の強い日本人と個人の権利を重んじる諸外国との差なのだと。すなわち日本人は協調や秩序を重んじるためルールに準じるべきだという意識が強く、死刑という最も重大な個人的権利の剥奪となる刑罰であっても、ルールを破った以上は被っても仕方ないという価値感覚があるのかもしれない。

また信頼感ということに関して言えば、今回の議論でも少し触れた冤罪という視点も関係するだろう。もし冤罪が頻発するようであれば、無罪の人間が死刑に処される可能性も高いから、国民はもしかするとそれが自分の身に降りかかるかもしれないと感じ、死刑制度そのものに消極的な意見になるだろう。現時点で日本では死刑制度撤廃の声はそれほど大きくないから、その点を鑑みると冤罪で無実の人が死刑になるリスクは死刑制度があることによって得られるメリット(犯罪の抑止力など)ほどに高くないと国民が感じている、それはつまり警察や司法は、少なくとも死刑に関わるような重大事件については冤罪を起こすことはないだろうという信頼を得ていると考えることができるかもしれない。

もう一つ考えられるのは日本において死刑の次に重い刑罰、無期懲役に関する理解が死刑制度の是非に対する国民の考え方に影響しているのではないかという論点である。
もし現行制度のまま死刑が撤廃されると、日本の刑罰の最高刑は無期懲役となる。無期懲役とはその名のとおり無期限の懲役刑であるが、これを終身刑と呼ばないのは仮釈放の可能性があるからである。そのため少なくない人が無期懲役判決を受けても十数年で出所する可能性があると考えている。
しかしそれでは凶悪犯罪者に対する刑罰として十分とは言えないのではないか?という疑念が生じる。
今回改めてネットで調べてみると、確かに無期懲役は仮釈放の可能性はあるが、それが認められるハードルはとても高く、事実上終身刑に近い刑であるようだ。少なくとも30年は仮釈放が認められないのが現状で、仮釈放後も引き続き監視下におかれる。
ただそれを差し引いても、凶悪犯に対する死刑の次に重い刑罰としては疑念を感じるのではないだろうか?確かに30年は途方もなく長い期間だが、25歳で投獄されると55歳で出所できるから、人生100年時代と言われる現代では、そこまでの高齢とは感じられない。
そしてこれも信頼の問題になるが、制度上仮釈放がありうるということは、全く更生していない凶悪犯が出所して再び凶悪犯罪を犯すことはありえないか?仮釈放後監視下に置くとはいっても本当にきちんと監視できるのか?といった不安を感じる人も多いのでないだろうか?
死刑はそれが執行された時点でその者の人生が完全に閉ざされるのに対し、無期懲役は印象としてまた出所して新たにやり直すことができる可能性がそれなりにある制度に感じてしまう。そのことからも、もし日本で死刑制度撤廃に対する議論をするのであれば仮釈放無しの終身刑の導入とあわせて議論されるべきであろう。少なくとも無期懲役がどのような刑罰なのか国民に正しく理解してもらう必要がある。

最後に日本人の人間に対する信頼感についてである。
もし日本人の大多数が性善説、つまり人間は生まれながらに善人であることを信じていたらどうだろうか?その場合、どんな凶悪事件の犯人でも根は善人なのに何らかの事情で犯行に及んだ、そして必ず更生の可能性があると考えるだろう。そのため死刑制度に対し消極的な意見になるのではないだろうか?裏を返せば、日本人が人間には更生の可能性のない根っからの悪人がいると信じているのであれば、そのような凶悪犯に対しては死刑をもって臨むべきだと考えるだろう。つまり人間に対する信頼感も死刑制度の是非について世論を左右する可能性があるということだ。

私は死刑制度に関する法律の専門家でもないし、死刑に関わるような重大犯罪に直接関わったこともない。そのためこのテーマについて、議論するは挑戦的なことであったように思う。しかしながら、死刑制度というのはわれわれ日本国民全体に関する問題であるから、当然このテーマについて私を含めすべての国民が考え意見する権利はあるものと思う。もちろん、事実を誤認したり推論を間違えたりすることもありうる。だからこそ「私たち」で十分に議論した上で結論を出すことが必要なのである。

おわりに

私がこの「倫理の時間」の着想を得たきっかけは、生命科学に関するテレビ番組を見たことだと記憶している。
DNAの解析技術が進み、その人がどれくらいの年齢で特定の疾患にかかる可能性が高いかDNAから読み取れるらしい。こういった技術が進んでいくと、個人の人生が科学によりすべて解明され、結局のところ人生は自分で選択する余地は少なく、ほとんど決まっているようなものと感じる人が多くなるだろう。
また社会的にも貧富の格差が明確になり、貧困層が富裕層の仲間入りをすることが困難と言われる時代になった。「親ガチャ」というワードが話題になったように、生まれてきた出自や親の経済状況、社会的地位によって、子どもの将来はほとんど決まってしまう、という考え方が蔓延しつつある。
確かに科学技術が示す個人の特性や親の持つ経済力、社会的地位が個人の人生に対し大きな制約を課すものであることは一つの真実であろう。しかしだからといって、われわれが本来持っている自由意志をこれらの制約を理由にすべて放棄してしまうことは避けなければならないことだ。もし人生のほとんど大部分が自らの意志で選択することは不可能だと思い込んでいる人がいれば、もう一度人間の本性について向き合ってほしい。われわれの力では容易に変えることができない科学法則や社会の構造がある一方、この「倫理の時間」で示したように選択可能性というものは、われわれが何かに価値を見出す限り開けている。

これは全く仮の話である。
ある大学に進学したいと考えている高校生がいる。しかし数学が苦手で、大学に受かるために必要な入試の点数に現状全く届きそうにない。その高校生の脳を解析すると物事を数理的に処理する脳の箇所が人より活発でないことが分かった。つまりその時点で生まれ持っての能力の制約により数学の高得点は努力しても望めないということが明白になるわけだ。果たしてこの事実は、希望する大学への進学が閉ざされる、すなわちその高校生の人生の選択肢を剥奪することになるのであろうか?
ごく現実的な対処法としては、数学はできる限りの点数をとれればよいと割り切り、他の教科を重点的に取り組み数学の点数の低さをカバーするという方法があるだろう。それができれば苦労はしないといったところだが、これは自らに数学の才能がないとはっきりと分かることによりたどり着ける手段である。つまり脳の解析により生まれつき数学が苦手であると判定されたことは、希望大学の進学という選択肢を閉ざすことにはすぐには直結せず、むしろそのことを踏まえた上で考案した新たな方法で状況を打破する可能性を指し示しうるものなのである。もっと言えば、こういうウルトラCもあるかもしれない。数字を理論的にとらえるのは苦手だが、視覚的な情報に変換して捉えれば数学の問題を解けるようになる、といったように自分の脳の特性に合った勉強法にたどり着き、それで試験を突破できるかもしれない。
ここで語ったのは、あくまで空想の話であるが、私が言いたいことは次のことだ。もし科学があなたのある特定の事柄に関する才能や能力に限界があることを明らかにしても、その結果は単なる事実であり、あなたの選択の可能性を1つに押し込めるものではない。その事実を踏まえた上であなたは新たな対処法を考え、そしてそれを実行することを選択できるのである。すなわち未来の予測がついたとしても、人間はこの予測結果をもとにまた新たな道へと進むことができる。だから科学が明らかにする将来の予測は、その予測へ向かう逃れられない運命を示すのではなく、単にわれわれが選択するにあたっての一つの価値判断の材料になるに過ぎないのである。
現状のまま進めばAという結果になることが明らかになり、かつAという結果が望ましくないと判断するのであれば、その結果を回避する行動をとることができる。もし回避できないことが分かっても、事前にその悪影響を最小化するための対処はできる。これはどのような結果になるか予測したからできることである。またこの予測ができないという場合は、Aになるか、はたまたBという結果になるか分からないので、どのような結果になるかはまさに神のみぞ知るのであり、実質的に結果はあらかじめ決まっていないということになる。ということは、いずれにしても望ましい結果が出るように行動することに意味はある。
科学が拠るところの因果律に基づいて考えると、ある特定の状況下において特定の条件が揃えば必然的に一つの結果を導くが、人間はそれを先回りして予測し、その結果が望ましくなければ状況や条件を変化させ違う結果を導くことができる。こうしてみると人間の選択や価値判断は、因果律の法則を超え出た行動のように思える。もちろんその人間の行動すら因果律で説明できるかもしれない。ただ実際に選択をする私たちは、決してそのように考えていない。確かに自分の意志で選択をしているはずだ。つまり選択という行為そのものが、少なくとも行っている本人たちの意識としては、因果律に縛られない領域における行為である。
世界を見回してみると、地球温暖化、食糧危機、核の脅威、様々な課題が山積している。もし、すべての結果が因果律に従って決まっているとするなら、これらの問題解決に取り組む意味がなくなる。因果律だけで全てが決定するなら、どんなにあがいても結果は同じなのである。
しかし世界中の人々が、世界をいい方向に変えられると信じ行動している。それは科学者であっても(いや科学者こそ来るべき未来が予測できるわけだから、むしろ普通の人々以上により強く)危機的な状況を好転させるために行動を取るべきだと考えているに違いない。そしてその手段や方法を一般人より理解しているのも科学者かもしれない。
このような時代だからこそ、われわれは人間に自由意志があり、自らの進む道を主体的に選択することができる、ということを改めて自覚する必要がある。

第一章で、この「倫理の時間」で私は過去の倫理学者の言葉を引き合いに出すことはないと述べたが、実際の所は、ここで述べられたことは過去の哲学者・倫理学者から着想を得ていることを申し添えよう。
1人目は文中にも出てきたカント倫理学である。
そして最も影響を受けているのはフッサール現象学である。フッサール現象学自体は倫理学というより哲学の分野であるが、世界をわれわれの主観のうちに広がっているものと捉えなおす発想はフッサール現象学の「現象学的還元」の考え方が元になっている。他にも「構成」(Konstitution)「発生的」(genetiche)「間主観性」(Intersubjektivität)もフッサール現象学の用語から拝借した。
またこの「倫理の時間」のアプローチが現象学を参考としているのであれば、本来考察の主軸となるべきは価値の構成のあり方を明らかにすることである。序盤でも価値の構成がここでの目論見であることを述べた。しかし結局のところ、価値の構成というより構成の主体たる「私」及び「私たち」の超越的価値に関する考察がメインとなってしまった。もちろん価値の構成を語る上で、「私」及び「私たち」に関する話題は避けては通れない。そのため本来の目的を達成するのであれば、さらに「私」及び「私たち」以外の対象についての価値の構成のあり方について検討する必要がある。ただし、この時点でそれなりの文量と労力を要してしまったため、ひとまず「倫理の時間」はこれで閉じたい。余裕があれば、いつか価値の構成についても考察してみたい。

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