九十九髪茄子(つくもなす) の数奇な運命

九十九髪茄子(つくもなす) の数奇な運命

 本日の主人公は 「歴史上の人物」 ではありません。数々の 「歴史上の人物」 が手にした茶器 茶入) です。 また数々の 「歴史上の出来事」 を目撃
していたはずの茶器です。

 「九十九髪茄子 (つくもなす)」 と言われ、 何と今も 「現存」しています。 どこにあるのかは最後に説明しますが、とにかくその数奇な運命についてです。

 形だけ説明しておきますと、 高さ6cmほどの茄子 (なす) に似た陶器の茶入れです。

 「九十九髪茄子」の最初の所有者は、室町幕府の3代将軍・足利義満 (1358年~1408年)です。 義満は戦場にも必ず持参するほど大切にしていたようです。

 足利義満は、室町幕府が最大勢力を維持していた時代の将軍ですが、ひたすら自己の勢力と財力の拡大に専念し、守護大名を通じた室町幕府の全国支配が確立するのは義満の死後となります。

 義満は1392年に南北朝に分かれていた天皇家を統一させ、自ら擁立した北朝の後小松天皇を傀儡のように扱っていたため、後世の歴史からは 「意識的に無視され」 テレビドラマにもほとんど出てきません。

 1401年に明(1368年~1644年)との交易 (勘合貿易) を始め、莫大な利益を独り占めしました。 明の最大の独裁者・永楽帝に送った親書には、自分のことを「日本国王」と書いてありました。

 この「九十九髪茄子」 も、 明との交易で手に入れたものです。 南宋 (1127年~1279年)時代の作品だと思われます。

 ところで茶を飲む習慣は、唐 (618年~907年) の時代から始まったようで、 日本にも遣唐使を通じて茶が持ち込まれていました。 これは現在の烏龍茶に近いもので薬として飲まれていたのですが、 茶を飲む習慣としては定着しなかったようです。

 鎌倉時代に入り、日本に禅宗を広めた栄西や道元によって薬として抹茶が持ち込まれ、禅宗の広がりとともに精神面を重視する茶道として広まっていきました。

 室町時代に入ると、 茶道の広がりとともに中国製の茶器が人気となり、 足利将軍家だけでなく、 戦国大名や堺の豪商などの間で 「収集」 が盛んになります。

 その後の「九十九髪茄子」 は足利将軍家に代々伝わっていくのですが、 8 第将軍の足利義政 (1436年~1490年) が、 茶道の師であった村田珠光に譲ります。

 政治に全く興味を示さず、ひたすら趣味の世界に没頭し、自らの誓書が引き起こした応仁の乱で京都が焼野原になっても宴席を絶やさなかった義政が、 何の気まぐれで 「九十九髪茄子」 を譲ってしまったのかは不明ですが、 村田珠光は99 貫で手に入れたと言われています。

 だから 「九十九髪茄子」 と言われるのですが、 だいたい1貫=10万円なので、1000万円ほどだったことになります。

 その後の持ち主はよくわからないのですが、 戦国大名の松永久秀 (弾正) の所有として歴史に再登場します。 松永久秀 (1510年? ~ 1577年) は出目が不明ですが、商人だったようです。 1533年に摂津 滝山城主に成り上がります。 世は下剋上の時代でした。

 久秀がどのようにして 「九十九髪茄子」を手に入れたかも謎です。 1000 貫 (1億円)で手に入れたとの説もあるのですが、 久秀の性格からしてそんな大金を支払ったとも思えず、どこからか取り上げたのでしょう。

 しかし久秀が 「九十九髪茄子」 を所有しているとの噂はたちまち全国に広まり、 戦国大名や豪商の間で垂涎の的になります。 来日していたイエズス会の宣教師、 ルイス・フロイスの書いた「日本史」 にも出てきます。

 さてその久秀は、1565年に足利幕府の 13代将軍・足利義輝を攻め滅ぼし、行動を共にしていた三好三人衆とも断絶し、 織田信長に取り入ります。

 その時に 「九十九髪茄子」 を織田信長 (1534年~1582年) に献上するのですが、 要するに取り上げられたのでしょう。

 実は久秀は、もう1つ有名茶器である 「平蜘蛛の釜」も所有していました。 信長はこちらの方がお気に入りだったようで、 再々 「差し出せ」と迫ります。

 1577年に久秀が信長に攻め込まれたとき、この 「平蜘蛛の釜」 を抱いたまま居城の信貴山城で爆死したと言われています。 叩き壊して城の外に投げ捨てたとの説もありますが、最後は24才も年下の信長に対して 「ざまあみろ」と言いたかったのでしょう。

 さて「九十九髪茄子」を手に入れた織田信長ですが、1582年に本能寺で明智光秀に攻め滅ぼされてしまいます。 信長もこの 「九十九髪茄子」 を戦場に必ず持参しており、本能寺にも持参していたはずです。

 本能寺は全焼するので、 「九十九髪茄子」 も焼けてしまったことになります。

 ところが、 備中高松城から 「大返し」 で駆けつけた豊臣秀吉 (1537年~1598年)が、 次の所有者として登場します。 確かに信長から何度も自慢げに見せられて、 その存在を知っていたはずの秀吉ですが、 焼け跡から破片を拾い出して修復したと言われています。

 ただこれはもう一度、後で出てきます。

 さて天下を取った秀吉も茶道に熱をあげます。 大阪城に純金の茶室を作ったり、 北野大茶会を催したり、千利休を重用する(後に切腹)のですが、 秀吉にとって茶道とは自らの存在感を誇示する手段にすぎなかったようです。

 秀吉の死後、 「九十九髪茄子」 は遺児の秀頼に残され大阪城にあったはずです。 そして大坂夏の陣 (1615年)で秀頼は母の淀殿と共に自害し、 大阪城は全焼します。 またしても「九十九髪茄子」も焼けてしまったことになります。

 徳川家康 (1543年~1616年)は、 大阪城の焼け跡から 「九十九髪茄子」 を探し出し、 漆職人の藤重藤元 藤厳父子に命じて修復させます。

 現存する「九十九髪茄子」 をレントゲン撮影すると、確かに割れた破片を漆で修復していることが分かります。 ところがこの現存する 「九十九髪茄子」 は、一度しか焼けていないようなのです。

 そうすると、 本能寺では焼けていなかったことになります??

 家康は、その修復が完璧なことに感嘆し、 褒美として藤重父子に下賜してしまいます。家康は秀吉ほど茶道にも茶器にも熱心ではなかったからです。

 その後、 藤重家に家宝として伝わるのですが、 それでは 「九十九髪茄子」は現在どこにあるのでしょう?

 明治維新後、三菱財閥の2代目総師 岩崎弥之助 (初代・弥太郎の実弟)が藤重家から400円で購入したとされています。

  確かに浮世絵などの日本古来の芸術が二束三文だった時代なのですが、 要するに「買い叩いた」わけです。

 そして「九十九髪茄子」 は、 現在は岩崎家の静嘉堂文庫美術館 (東京都世田谷区)にあります。 残念ながら常時公開はされていませんが、 2年に一度くらいは一般公開されるようです。

 つまり 「九十九髪茄子」 とは、 足利義満から始まって数々の「歴史上の人物」 を経て、現存しているのです。 時々歴史から消えているので、余計に謎めいているとも言えます。常時公開されていないので、とりあえずネットでその姿を眺めてみてください。