中国共産党100年式典を見て「はっきり」感じた中国の本当の危機

 中国共産党100年式典を見て「はっきり」感じた中国の本当の危機 

 2021年7月5日に掲載
   
 予告から表題を変えたが、内容は先週からの続きである。つまり経済・金融問題ではなく、世界の政治情勢の混乱が株式市場「最大の」波乱材料になる恐れがあるというものである。先週は日本の政治情勢を書いたので、今週は中国である。

 これも予告では中国と米国を取り上げるとしてあった。つまりが中国では表題にある共産党100年式典における習近平の演説から「はっきり」感じた中国の本当の危機、米国では物価上昇に加えて雇用も回復してきた中で「気にせず」過去最高値を更新した株式市場とバイデン政権を取り巻く「危うさ」である。

 しかし両方とも今週分に押し込めると中身が薄くなってしまうため、今週は中国だけにしたい。米国は来週に(状況が少し変わっていても)必ず取り上げる。

その1  共産党100年式典における習近平の演説から

 7月1日に共産党100年記念式典が天安門広場に7万人を集めて開催された。従来の式典は人民大会堂で開催されているが、今回は1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した天安門の楼上に共産党首脳が登壇した。習近平だけが毛沢東に似せたグレーの中山服(ちゅうざんふく)で、李克強・国務院首相を含む現任の政治局常務委員、唯一の盟友とされる王岐山・副主席、それに胡錦涛・前国家主席や温家宝・前首相らを伴い、65分間の演説を行った。

 8月に95歳になる江沢民・元国家主席は「健康上の理由」で欠席したはずであるが、実は「動けるはずの」過去の政治局常務委員クラスOBの「かなり」が欠席していた。この「欠席リスト」は一旦外国メディアが報道したが、本文を書こうと確認したら「綺麗に」消去されていた。OBの欠席が多かった事実は重要である。

 ここで日本の政界から共産党100年式典に「祝辞」を送った「御仁」を紹介しておく。政権与党の自民党から二階俊博・幹事長、連立与党の公明党から山口那津男代表(創価学会も別に送ったはず)である。この両者は先方(中国サイド)から要請があったので送ったと「言い訳」しているが、連立与党の代表や幹部が「この時期にあの中国に祝辞を送った」となると「日本は中国と親密である」と国際社会で受け取られる。自民党は1989年の天安門事件で中国が国際社会で孤立し経済制裁を科せられそうになった時、必死になって経済制裁と止め、天皇・皇后両陛下のご訪中まで実現させて「中国の孤立」を防いだ前科がある。

 あとは枝野幸男・立憲民主党代表、小沢一郎・元自民党幹事長(今は立憲民主党所属らしい)、河野洋平・元自民党総裁(野党時代の総裁であるが、この人が首相にならなくてよかった)、福島瑞穂・社民党(まだあるらしい)元党首などである。

 逆に日本共産党は無視したままだった。中国共産党と日本共産党(1年遅れの1922年設立)はともにコミンテルン(後述)の支部で、いわば「同格」である。第二次世界大戦後の日本共産党は分裂を繰り返し疎遠になっている。また日本共産党は自由主義圏に現存する最大の共産主義政党である。

 さて7月1日の中国共産党100年式典における習近平の演説のポイントを列挙してみる。「(ややゆとりのある)小康社会を全面的に建設した。貧困問題を解決した」「半分閉鎖の経済から全面的な開放へと転換し、生産能力が急落した状況から経済規模で世界2位となった(注1)」「中国の特色ある共産主義だけが中国を発展させる(注2)」「中華民族の偉大な復興は不可逆的な歴史の歩みに入った(注3)」「世界一流の軍隊を作り、国家の主権・安全を守る(独自経済圏構想の)一帯一路を推進する(注4)」「覇権主義に反対する。いかなる外部勢力の圧迫も決して許さない(注5)」「香港の一国二制度や高度の自治を貫徹する。香港に対する国家安全の法律の執行を維持する(注6)」「台湾問題を解決、祖国を完全統一するのは共産党の歴史的任務(注7)」などであった。

(注1) 全面的な経済開放は鄧小平による推進で、世界第2位の経済規模は胡錦涛が実現した。習近平の経済政策は失政ばかりが目立つ。不良債権を国有企業に押し込み、民間企業であるアリババ、テンセント、滴々出行などへの支配を強化し、貧富の差がますます拡大している。しかし最も深刻な経済問題の発言はこれだけだった。

(注2) ここが最も強調したかったポイントのはず。

(注3) 誤訳でなければ中華民族という民族は存在しない。自称が多い漢民族と異民族だけである。

(注4) 習近平は中央軍事委員会委員長であるが、いまだに人民解放軍を完   全に掌握できていない。また現有の軍力で戦闘となれば日米合同軍に歯が立たないことも理解しているので、口先では強気発言を繰り返す。今回の演説にも「強国」「強軍」といった言葉が繰り返し出てくる。

(注5) それでも中国は高圧的・戦闘的な「戦狼外交」を止めない。このままでは経済・通商問題の解決とくに経済制裁の解除は進まず、中国経済は孤立する。

(注6) 香港の一国二制度を反故にした国際公約違反を正当化している

(注7) 台湾は歴史的に一度も中国の領土だったことはない。

 つまり習近平の演説から「何事も共産主義が中国の中心である」「自身を毛沢東に重ねている」「内政・外交・経済すべてにおいて独自色を打ち出し党幹部の意見も取り入れない」「2022年の共産党大会で総書記、国家主席、中央軍事委員会委員長の権力ポストすべてを手放すつもりはない」「共産党内部に不満が蓄積されていることに気が着いていない」などが感じられる。

その2  中華人民共和国の歴代最高指導者

 中華人民共和国において最高指導者の定義は難しいが、以下の5名とされている。

① 毛沢東  1949年10月~1976年9月
 中華人民共和国の建国から死去まで最高指導者だった。習近平が自らを毛沢東になぞらえる理由は「終身」だったからである。1958~1961年の大躍進政策は「大失敗の経済政策」で数千万人が餓死した。また1966年から死ぬまで続けた文化大革命は自ら後継者候補に指名した劉少奇・国家主席を失脚させ、その後任となった林彪まで政争に巻き込んでモンゴルに逃亡する途中で墜落死させている。また鄧小平は建国前も含めて3度も失脚させている。
 ちなみに毛沢東は習仲勲(習近平の実父)を1962年から16年間も投獄している。毛沢東死後の1978年に釈放されたが、習近平は鄧小平の策略だったと信じており(だから鄧小平の経済政策を否定する=後述)、毛沢東への恨みは見せない。

② 鄧小平  1978年12月~1989年11月
 毛沢東は死ぬ直前に華国鋒を後継者とするが凡庸で、3度目の失脚から復活した鄧小平が追放する。鄧小平は毛沢東の革命・政治第一主義を、経済優先主義に転換する。しかし政治的には超保守派で、融和派の胡耀邦、趙紫陽を失脚させ、1989年の天安門では集まっていただけの一般市民に砲撃を加え、数千人(最大1万人)を虐殺した。
 また天安門事件の直後に上海市党委員会書記だった江沢民を政治局委員から総書記に2階級特進させている。また1992年には「何巡講話」を行い、経済改革(自由競争と外資の導入)を通じて中国経済を飛躍的に拡大させた立役者である。1997年2月死去。

③ 江沢民  1989年11月~2002年11月
 鄧小平が後継指名した江沢民であるが、自身の実績となると目立つものはない。1997年の香港返還、1999年のマカオ返還は鄧小平、2001年のWTO加盟は朱鎔基首相の尽力による。しかし巨大な工場地帯である上海を地盤とし、引退後も上海閥の利権を保持したままである。その利権を狙う習近平との暗闘は今も続く。また朝鮮半島や隣接する中国東北部の利権も同じである。8月に95歳になるが、いまだに江沢民派を率いる。

④ 胡錦涛  2002年11月~2012年12月
 中国共産党青年団(共青団)出身の胡錦涛は5名の最高指導者の中では評価が低いが、2008年のリーマンショック時に4兆元の経済対策を発動して世界経済の沈没を防ぎ、2010年には中国経済が日本を抜いて世界第2位となるなど、胡錦涛と温家宝首相の「実務能力」は高かった。また2期・10年で総書記、国家主席、中央軍事委員会委員長のポストをすべて後継者の習近平に譲っている。

⑤ 習近平  2012年11月~
 習近平は最初の5年で綱紀粛正を前面に出して政敵を大量に粛清し、後半の5年は一帯一路などを通じて対外進出に力を入れる。経済政策では鄧小平の政策を完全否定して国家による統制を強化している。鄧小平の完全否定は、先述の習仲勲(実父)を陰謀で陥れたと信じているからであるが(毛沢東の指示だったとは信じていないが、事実としてはどちらも可能性がある)、ここまで巨大化した中国経済の統制強化、国家関与の強化は経済エネルギーを急激に奪う結果にしかならない。
 また対外的には領土的野心を隠さず「戦狼外交」を繰り返すため、政治的にも経済的にも世界で孤立していく。さらに国内的には共産主義体制の強化、毛沢東時代の個人崇拝主義への回帰を狙う。2022年の党大会では総書記、国家主席、中央軍事委員会委員長のすべてのポストを保持したまま3期目に入り、あわよくば毛沢東に倣い「終身」の最高指導者を目論む。

 冒頭に書いた共産党100年式典における習近平の演説には、これらが「はっきり」と強調されている。

 そこから想定される習近平の近未来は「失脚」かもしれないが、綱紀粛正でほとんどのライバルを葬っており、有望な後継者候補も育っていない。
 
 それでも習近平の独善的な政策によって国内的にも国際的にも孤立するなかで、ある程度大きな経済・金融危機に見舞われた場合は「習近平おろし」が始まると考える。確かに習近平の各政策は毛沢東よりは「まし」であるが、中国経済の大きさや国際政治における重要度は毛沢東時代とは比較にならず、間違った政策の継続は中国にも世界にも弊害が大きすぎるからである。

 より直接的には米国に亡命した中国高官の提供する情報がダメージを与える。その影響度合いによっては「習近平失脚」の引き金にもなりうる。

 
その3、中国共産党の生い立ち
 
 最後に中国共産党の設立同時を簡単に振り返っておく。習近平が「中国の特色ある共産主義だけが中国を発展させる」と強調しているが、果たしてそんな立派なものなのかを考えるためである。

 孫文が率いた辛亥革命の結果、アジアで初めての共和制国家である中華民国が1912年1月1日に南京を首都として成立した。満州族による征服国家の清は、同年2月12日に最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が正式に辞任し、276年の歴史に幕を閉じた。中華民国は1919年に孫文が創設した「国民党」によって統治される。

 一方で1921年7月21~30日に中国共産党第1回党大会が上海のフランス租界内で開催された。もちろん当時は非合法の共産党による秘密会合であり、参加人数もわずか13名(12名ともいわれる)だった。そこにコミンテルン(後述)の2名も参加している。この13名の中に毛沢東も長沙代表として参加していたが、ほとんど目立たなかった。また共産党の発起人で日本留学経験もある陳独秀は広州にいて参加していない。

 当時は共産党員自体が50名(30名ともいわれる)ほどで、1年後の第二回党大会時でも195名だった。それに対して国民党は13万5000人の党員を擁していた。

 ところでコミンテルン(共産主義インターナショナル)とは何か? 1914年の第一次世界大戦勃発と1917年2月のロシア革命(2月革命)で皇帝ニコライ2世が退位すると、ウラジミール・レーニンが逃亡先のスイスから帰国してロシア社会民衆党を吸収しながら1918年にロシア共産党(ボリシェビキ)を設立する。世界最初の共産主義国家誕生である。

 ユダヤ人のレーニンが、同じユダヤ人のマルクスが書いた「資本論」を基本理論として共産主義を「作り出した」わけであるが、レーニンが最初から共産主義を国民の生活向上のためとは考えていなかった。単に人民を支配する方法論として「資本論」が使えると考えただけと考える。以来、共産主義が人民の生活を向上させたことはなく、特権階級による人民の監視・弾圧と幹部の汚職が繰り返され、いずれ自壊することになる。

 現在はその共産主義を政治体制の中心に据える国は中国(中華人民共和国)と北朝鮮(朝鮮労働党)だけである。

 またボリシェビキは世界中で共産主義を広めようとしていたが、どこも相手にしてくれなかった。それなら世界中を共産主義国家にしてしまえと共産主義の国際組織としてコミンテルンを1919年にモスクワに設立する。先述の通りコミンテルンは1921年の中国共産党第一回大会に2名を派遣しており、翌1922年には日本共産党が設立されている。どちらもコミンテルンが「手取り足取り」指導していたことになる。また米国共産党はもっと早い1919年に設立されており、今も5000~10000人程度の党員がいる。ただ最近は民主党極左派との見分けがつかなくなっている。つまり民主党の名を借りた共産主義者がいるということで、これが共産主義拡大の常套手段である。バーニー・サンダースやエリザベス・ウォーレンなども可能性がある。

 設立当初のボリシェビキやコミンテルンにとって、米国、中国、日本が3大重点攻略先だったことになる。従って第二次世界大戦時に日本に浸透していたコミンテルンのスパイがゾルゲら数名しかいなかったことは「絶対に」ない。

 話を戻すが。コミンテルンが中国共産党に授けた作戦とは、国民党に「寄生」して国民党を内部から破壊し、国民党という「宿主」の中から共産党を大きく成長させるというものであった。そこで出てきたアイデアが「第一次国共合作」で。1923年6月12日に広州で開催された第3回共産党大会で採択された。これは共産党の本質をよく表しているが、そんな「子供だまし」に引っかかった孫文は、あまり優秀な政治家だったとは言えない。その党大会で毛沢東は中央委員会の委員(5名いた)に選ばれている。留学経験のない毛沢東は、モスクワや日本からの留学帰りが幅を利かせる共産党の中で徐々に頭角を現していた。

 しかし1925年に孫文が死に、1927年に国民党の実権を握った国民革命軍司令官の蒋介石が第一次国共合作を解消し、国共内戦に突入していくが、何しろ装備も兵力も国民党軍が圧倒的に充実していた。

 そして中国共産党軍は1934年から国民軍の攻撃を避け共産党員や農民らを引き連れて1万2500万キロも行軍し(逃走し)ようやく1936年秋に陝西省・延安にたどり着く。ここは国民軍本部のある南京から遠い山岳地帯で、攻撃される恐れは少ない。後にこの行軍を「長征」、延安を革命の聖地と美化されていく。

 そして共産党は再び蒋介石と手を結ぶ(第二次国共合作)。毛沢東も中国共産党中央革命軍事委員会主席となる。そして1937年7月に日中戦争が始まると共産党軍は当然に国民党軍とともに日本軍と戦うが、装備も兵力も圧倒的に国民軍に劣る。が充実している。そこで共産党軍は日本軍と戦うふりをして傍観し、兵力を温存し、共産党支配地域の拡大に専念していく。また同時に国民党軍の疲弊を待っていたことになる。この辺もいかにも共産党らしい策略である。

 そして毛沢東は1945年の第7回党大会後に共産党の最高職である中央委員会主席に就任し、まもなく終戦となる。そして戦闘で疲弊した蒋介石の国民党軍を徐々に追い詰めて最終的に台湾に追いやり、1949年10月に中華人民共和国の誕生となるわけである。完全なる「背乗り国家」である。

 それが中国共産党の正体である。そんな中国共産党が、14億の人民と、世界第2位の経済と、独善的なトップである習近平を抱えて長期間「うまく」機能できるとは思えない。中国共産党も、14億人も、中国経済全体も簡単に動かせない。そう考えると「習近平失脚」が最も現実的なシナリオに見えてくる。

2021年7月5日に掲載