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ブラジリアン・グレートファイアウォール

あまりにも急転直下の別れとなった。サンパウロからローン移籍としてマドリード・カスティージャに移ったのは2013年。そこから、およそ9年。カゼミーロは門番として、巨大な壁を築きモグラが生息しているかのような数の守備の穴を塞ぎ続けてきた。
偉大な足跡を残した彼の歩みを振り返りたい。

ワンオブゼム


トップチームデビューを飾ったのは12-13モウリーニョ政権下でチームがこのこカオスに陥りほぼ消化試合と化していた4月のベティス戦であった。
後に終生のコンビとなるモドリッチとのスタートであった。

今でも君のマドリーのデビュー戦を覚えているよ。すごく緊張していて、僕が落ち着くように伝えたよね。今となってみると、すごく成功したね』

モドリッチからの手紙



ペレスは基本的にブラジル人選手を好み、ネイマールに固執するなど二次政権でもブラジルの若手を発掘することを続けていた。カゼミーロは近い時期に入団していたファビーニョ(現リバプール)などと比べても、特段期待をかけられていたという印象はなく若手の中の1人でしかなかった。当時はまだ体も今ほどゴツくなくプレー面でも、ソツはないが特徴もないと言った感は拭えなかった。
13-14、監督がカルロ・アンチェロッティに変わっても出場時間はそれほど伸びず、起用されるときもインテリオールが多かったように記憶している。チームはコパデルレイと悲願のデシマを達成するが、貢献できたとは言えなかった。

実力で


14-15にレンタルでポルトへ。後にも再会するジュレン・ロペテギの下で、大きな成長を遂げアンカーとしてのポジションを確立する。まだパワーがあるイメージがなかったのでバーゼル戦のフリーキックには度肝を抜かれた。
フィジカルコーチは足が8本もあるかのようにボールをとることから、タコと呼んでいた。


15-16にそのポルトで絶対的な地位を築いた活躍が評価され1シーズンでマドリーに復帰。そこで待っていた指揮官は嫌われ者ラファエル・ベニテスであった。
選手からの人望が厚かったカルロ・アンチェロッティが解任され、指揮官に据えられたベニテスだったが、妥協の選択肢という捉え方をされており補強もコバチッチとダニーロだけしか与えられず新任にも関わらず厳しい立場にあった。

そんな立場のベニテスは、本人が望みまたペレスからも指示があったとされている、ベイルのトップ下起用を受け入れる。しかしクロースとモドリッチの2枚では前の重量級FWたちを支えきれず、ここでカゼミーロの起用が始まる。
そのあと布陣は433に戻るのだが、元々守備については厳格なベニテスはカゼミーロを重用していく。
しかし我儘なベルナベウのファンは一人でも多くの攻撃タレント、特にハメス・ロドリゲスがピッチに立つことを望み、試合内容に乏しく更に負けが込み始めたことでファン(及びフロント)のベニテスへの圧力はかなり大きなものとなる。
業を煮やしたベニテスはクラシコで、カゼミーロ外しを決断しハメスを組み込んだ布陣で挑む。しかし結果は0-4の惨敗。図らずもカゼミーロの重要性が浮き彫りになった試合でもあった。

影として

16年の年明けにベニテスは解任され、指揮官にはクラブの伝説的選手のジダンが就任した。ジダンは攻撃的なフットボールでマドリディスタを魅了することを約束し、実際カゼミーロを外してクロースをアンカーにイスコ、モドリッチを中盤に並べて初陣デポルティーボ戦を5-0と大勝した。
しかししばらくは勝利を重ねていたものの、徐々に失速。
背に腹は代えられないジダンはCLベスト16ローマ戦2ndlegで決断をくだす。カゼミーロをスタメンに戻し、以降守備で戦える選手として重用していくことになる。ここでイスコやハメスとの序列が完全に入れ替わり、ジダンにとってのマケレレとして以降絶対的な地位を築くことになる。
初めから信用されていたわけではなく、実力でジダンにチームの守備にとって不可欠な存在だと考えを改めさせたと言える。

「マケレレとは少し似ていると言えるかもね。僕のそばには、(トニ)クロースと(ルカ)モドリッチという、(ジネディーヌ)ジダンのようなクオリティーを持つ選手がいる」

マケレレから
カゼミロについて「ミラノで行われたチャンピオンズリーグ決勝の前に、ドレッシングルームで彼と一緒に話をしたよ。彼は非常に素晴らしい選手だ。ポジショニングもうまいし、自分の役割をよくわかっている。彼ほどのクオリティがあれば、仕事を簡単にこなしているように見えてしまうね」

MARCA

進化

守備面で早々に不可欠な存在となったが、バルセロナ、特にメッシにはしばらく苦しめられた。1対1では無類の強さを発揮するカゼミーロだが、彼らの早いパス回しの前にボールにアタックするタイミングをなかなか掴めず、そこにメッシの変幻自在のドリブルが入ると手が付けられなかった。この時期クラシコでマドリーがなかなか勝つことができなかったのは、この中盤ミドルゾーンで劣勢に立たされていたことも要因の1つ。
ただ17-18シーズン頃あたりから、徐々に慣れ初め前でつぶすことで対応し蹂躙されることもかなり少なくなっていった。

またビルドアップの面でも、クロース、モドリッチと組むとやはりというべきか相手チームから狙われ危険なゾーンでパスをかっさらわれることもしばしば見受けられた。しかしこれも徐々に改善し、特にロングパスは初めはがっくりくるような精度だったが、トライの成果か最後には40メートル級のパスもなんなく通すまでに成長している。
面白いのはカゼミーロはクロースに、クロースはカゼミーロのエッセンスが年々濃くなっているように見受けられたことだ。カゼミーロはサイドチェンジを多用するようになり、クロースは前方向への潰しが成功する数がどんどんあがっていった。夫婦は顔も徐々に似てくるというが、顔が似ることは全くなくても、お互いのプレーが近づいてくるのは長年コンビを組んだ間柄ならではのものかもしれない。


サポート

20-21シーズンあたりから、ビルドアップを完全に他の選手に任せて人が手薄になりがちなエリア内に走り込み、ベンゼマをサポートするような形でゴールを奪うシーンがかなり増えた。幼少時はストライカーだったスキルを活かして攻撃においても重要な存在となり代役シーズンが長く続いた。

「サンパウロの入団テストに行った当時の僕はフォワードだったんだ。
自分はかなり強かったし、同年代のなかでは常に身長が最も高かった。
ヘディングで多くのゴールを決めていたよ。
(テストに行った時は)12,13歳だった。300人ほどがいて、選ばれるのは50人だけ。
とてもよく覚えているよ、監督がGKは誰だって聞いた時に3人が手を上げたことを。そして、FWは何人だと聞いた時には40人ほどが手を上げたんだ。
『競争が熾烈で、自分はストライカーにはなれない』と心の中で思った。
(攻撃的?)MFの数を聞かれた時も同じで、同じことを思った。
その後、監督が『守備的MFはどれくらいだ?』と聞いたら、7,8人しか手を上げなかった。

だから、『よし、自分は守備的MFだ』って思ったんだ。

入団テストでは守備的MFとして練習したよ。

監督からは『お前は守備的MFじゃない。フォワードとして来たな』と言われた。
でも、僕はそう(守備的MF)だと主張し続けた。それが全ての始まりだったんだ」

AS

そしてそれはピッチの上だけにとどまらなかった。孤立しがちなベイルやヨビッチがゴールすると真っ先に駆け寄り、賞賛をするようファンに求めたりヴィニシウスやロドリゴといった若いブラジル人選手たちの面倒もみるなどここでも壁となりプレッシャーから守ろうとした。
このような姿勢はチームメイトみなから愛され、特にクロース、モドリッチとの絆は、獲得した幾多のタイトルと共に永遠といえるものになった。

別れは寂しいものであるが、5度目のCL王者として自分が最も高く売れるタイミングであるし彼の挑戦を応援し願わくばマンチェスターユナイテッドとレアルマドリーが対戦することを楽しみにしたい。

クロースとモドリッチがカゼミーロと相対するその日を。

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