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煙草と彼女

 ごうごうと鳴く換気扇に向けて灰色の煙を吐き、飲み込ませていく。揺らめきながら吸い込まれていく煙をぼうっと眺めながら「なんだか腹を空かせたペットに餌をやっているみたいだ」なんて下らないことを想像して、私はまた煙を吐いた。
 今は灰皿置きにされているコンロは、油汚れもなく綺麗に磨かれている。日々の掃除は私の仕事であり、私は料理をしない。
 しかし。それ故に。
 日々の食事を用意してくれる彼女に感謝の気持ちを込めて、キッチンは特に念を入れて掃除をするのだ。

 私に煙草を教えたのは、大学時代の先輩だった。
 確か、初めて吸ったのは大学3年の頃のゼミの歓迎会だったと思う。先輩があまりに美味しそうに煙草を吸っているので、私は彼女を無意識に見ていたのだ。それに気づいた先輩が「おひとつどう?」と、私に細くて綺麗な煙草を一本差し出した。断ろうかと思ったが、特に断る理由が見つからず、また酒の席でソフトドリンクばかり飲んでいることに少々の居心地の悪さを感じてもいたので、結局私はそのご厚意に甘えることにした。
 初めての煙草は、甘いような、苦いような、なんだかよくわからない味だった。

 ふう。と、灰色の煙をまた吐き出す。
「肺まで行ってたら、煙は透明になるんだけどね」
 煙草を吸い始めて間もない頃。大学の喫煙室、隣同士。
 私の吐き出した煙を見て、先輩はそんなことを言った。別段私を馬鹿にしようと言った訳ではなくただ単に知識として教えてくれたのだろうけれど、その時の私にはなぜだかそれが無性に悔しくて、その日から煙を肺まで届ける練習をして、たびたびむせ返っていた。

 先輩は最近、煙草をやめたらしい。
 3日前のインスタグラムに、禁煙宣言とともに妊娠の報告が投稿されていた。知らない男と並んで写真に写った先輩は、知らない笑顔をしていた。

 先輩は、なんというか飄々としていて、つかみどころのない人だった。
 赤毛に染められたショートの髪は――先輩は、「自分で染めた」と言っていた――申し訳程度にセットされ、服装もテキトーなTシャツにジーンズ。そのくせ、赤渕の眼鏡だけは妙にこだわりがあるらしく、聞いたことのないブランドの物を愛用していた。
 ゼミにはたまにふらっと来る程度。教授も他の先輩方も、そんな先輩の態度を気に掛ける様子もなく、自分の研究に勤しんでいた。きっと彼らにとっては、もうそんなことは「なれっこ」だったのだろう。
 当時先輩は大学院の2年生だったが、そうなると大学は卒業していることになり、あれでどうして大学が卒業できたのか私には全くもってわからなかった(今でもわかっていない)。全くもってテキトーな人だ、と常々感じていたが、しかし、先輩は時折私の研究を覗いては驚くほど鋭い指摘をし、その度に私を驚かせた。そして、あっけにとられている私に彼女は白い歯を見せてにかっと笑うのだ。
 どうだ、とでも言うように。

 先輩とは、今はもう覚えていないくらい下らないきっかけで付き合って、今でも覚えているくらい下らないきっかけで別れた。
 未練はないが、インスタグラムの投稿に「いいね!」は付けていない。

「シャワー。上がったから、使っていいよ」
 バスタオルでぐしゃぐしゃと乱暴に髪を拭きながら、彼女がキッチンに入ってきた。私はその様子を見て、少々苦い顔をする。
 彼女の髪は、綺麗だ。肩まで伸びた艶めく黒髪は一本一本が真っすぐしなやかで、指を通すと引っかかりなどまるで無くさらりと抜けていく。月並みな表現だが、まるで「絹のような髪」というやつだ。
 私はもう何度も彼女に「髪のケアはちゃんとするように」と言っているのだけれど、彼女はそう言った細々したことは――私からすれば、全然"細々したこと"ではないのだが――肌に合わないらしく、いつしか私も言うのをやめた。そうして、今なおその美しさを保っている彼女の髪が、恋人の私にとっては誇らしく、ヘアスタイリストの私にとっては少しやるせない。
 ちなみに、私は子供のころから酷いくせっ毛だ。

 彼女はそうした私の複雑な気持ちなどはまるで知らず、冷蔵庫からひょいと缶チューハイを取り出し、私の隣にちょこんと並んだ。
 カシュッと缶の開く小気味いい音が鳴る。
「っかー、これだな」
 風呂上りの酒にふさわしいリアクションを見せつける彼女だったが、持っているのは3%のジュースのようなチューハイだ(ちなみに味は桃)。毎度、なんとも格好がつかないなあ、と思いながら彼女を見ているが、彼女の方は毎度、心から酒を楽しんでいるという風な――そして、実際にそうなのだろう――飲みっぷりを披露してくれるので、きっとあれはあのままで良いのだろう。
 まあそもそも、私は酒を飲めない体質なので、風呂上がりの酒の作法にとやかく言える立場ではないのだけれど(というか、どんな立場なら言えるんだ)。

 換気扇は、相変わらずごうごうとわめいている。飲み込まれていく灰色の煙をぼうっと眺める目は、さっきと比べて二つ増えた。
 私と彼女の間を、静寂が浮遊している。こぶし二個分離れたところに、確かな体温と息遣いを感じる。満たされた気持ちの中に、ほんのちょっぴりの孤独を感じる。
 私はこの時間を、悪くないと思っている。

「ねえ」
 不意に、彼女が話しかけてきた。
「ん?」
 私はスマホを弄っていた手を止め、彼女を横目でちらりと見た。
「それさ、一口ちょうだい?」
 彼女は、私が口に咥えている煙草を指さして、そう言った。
 少なくとも私が知る限りで、彼女は煙草を吸ったことなど一度もなかったはずだ。一体どういう風の吹き回しなのか、と思ったが、しかし、私が初めて煙草を吸った時も別段大きな決意や激しい変化があった訳ではなく、ただ何となく勧められたからだったため、きっと彼女も、何の気なしに吸ってみたくなったのだろう。
 まあ、別に一口吸われるくらいで何を言うこともない。
 それに。と、内心浮かんだ悪い考えに、私は笑みをかみ殺した。
 慣れない喫煙でむせる彼女の姿を――まるでいつかの私のように――見てやりたいという、小さないたずら心もあった。
 私は煙草を口から離し、彼女に差し出した。
「ありがと」
 彼女はそう言うと、煙草には目もくれず、私の手を支えに小さく背伸びをした。つい先ほどまで紙のフィルターに触れていた唇に、柔らかく暖かいものが押し当てられる。
 甘いような、苦いような、なんだかよくわからない味がした。

 数秒の間があって、彼女は私からまたこぶし二個分離れ、換気扇の方に向き直った。灰が床に落ちそうだったので、私はあわてて煙草を灰皿まで持っていった。そうして彼女の方を見ると、彼女は白い歯を見せてにかっと笑った。
 どうだ、とでも言うように。

「煙草の味がした」
 彼女がそう言って、缶チューハイをまた一口飲んだ。
「最後のキスにならなきゃいいけどね」
 私の言葉は、吐き出した灰色の煙とともに換気扇に飲まれていった。

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