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下町グルメ味噌汁かけご飯

下町に生まれて下町で育った私の記憶にはこれこそが母の味だと言う料理が無い。
母は毎日家族のために家業の経理の仕事で忙しく働いて疲れていても必ず手料理を拵えていたのに。だ(お母さんごめんなさい。)

もちろん母は母の味定番の肉じゃがも卵焼きもカレーもハンバーグも拵えてくれたのだけどこれだというのがあまり思い出せない。

その母の手料理は私が就職しても結婚するまで続いた。

私にとっての母の味とは特定の料理や味ではなく絶え間なく注がれる母の献身的な食膳のことなのかもしれない。この問題についてはべつの機会に書こう。

そう思い起こせば母は時期時期の旬な素材で料理を拵えてくれた。食事は料理の形をした愛情そのものであった。

それでも割と一年を通して食卓にあった定番料理は朝食時の木綿豆腐の味噌汁だったかもしれない。

家の台所から見えるくらい近所に豆腐屋があって、私もたまに鍋を持ってお豆腐一丁くださいな〜と朝買いに行ったものだ。
これぞまさに子供の頃の情景、妻に聞いたら山の手にも豆腐屋はあったそうなので下町というより1960年代の東京の街の情景オールウーズであるようだ。

豆腐屋は店頭におからが山積みされていて店内は豆乳の匂いと豆腐を沈めておく水槽のいっぱいの水の匂いが満ちていた。

冷たい水に手を潜らせて固い木綿豆腐を掬い大きな包丁で器用に一丁分を切り分ける店主の悴んだ手がいまも瞼に焼き付いている

私は豆腐と水が満たされた重い鍋を中の水を溢さないよう気をつけ乍らも急いで家に運び帰り5階まで階段を急ぎ登って母の待つ台所に届ける。そこまでが朝のお遣いだった。特に好きなお手伝いでもなかったけれど、何故か今もって思い出せるのが不思議だ子供のお遣いは3歩歩くとあれ?何だっけと、肝心のミッションを忘れてしまうものだから、用事をわすれないよう何度も頭の中で復唱しながらわずかな距離をうきうき歩いていたから記憶に強く焼き付いてしまったのかもしれない。

そして私は登校前に母の作った熱い豆腐の味噌汁と卵をかけた炊き立ての白飯と自家製の糠漬けと香ばしい鯵の干物の朝ごはんを食べるのである。
卵と干物は千葉の一宮から身体よりもお大きな荷物を背負って電車でやってくる行商の小さな小さなおばちゃんが持ってくる今なら超贅沢な新鮮な産直の品だった。味噌汁の味噌は家の大通り向かいにあった酒屋で山盛りにされた味噌樽からの量り売り。数多く並んだ味噌樽は残量もそれぞれで、目で見ることが出来る街の売れ筋味噌ランキングだった。ああそれら全てが懐かしい母の記憶と結びついているでも、私が中学に通うようになった頃には酒屋から味噌樽が消え、商品は全て瓶売りもしくはパッケージされたものになっていった。1974年は1960年代の秩序が消えていく端境期だったのだ

さて私はたまに母が拵えるシジミの味噌汁が大好きでシジミの味噌汁の時は必ずおかわりをしていた。

シジミの味噌汁は味噌汁かけご飯が許されていてこれが滅法美味いのだ。

当時味噌汁かけご飯は猫まんまと呼ばれ行儀が悪い食べ方といつもは許されていなかった。

でも、シジミの味噌汁かけご飯だけは両親公認で折り紙つきご馳走なのだ。

シジミは、銭湯の向かいの魚屋で買う。酒屋の味噌樽とほぼ時を同じくして銭湯も消えていった
さてその魚屋の店頭には活きどじょうが入った水おけがあって蹴飛ばすと水桶の底に固まった黒い塊が上へ下へと騒がしくなる。子供心にはそれは不思議で愉しいいのちの様であった。

その魚屋で母がシジミを買う。それは味噌汁かけご飯の合図だ私の心は蹴飛ばされた水樽のどじょうの如く騒がしくなるのである。

ところでシジミと双璧をなすご馳走味噌汁がなめこの赤だし味噌汁だ。

日頃食べ慣れた田舎味噌の優しい茶色の味噌汁と違い凶悪な印象の濃く黒に近い茶色と独特の風味の八丁味噌に水母の如く漂う透明のヴェールを纏ったなめこのマリアージュは絶品だ。このなめこの赤だし味噌汁も味噌汁かけご飯オッケーだ。

母はシジミの味噌汁は大鍋いっぱいに仕込んでいたけどなめこの赤だし味噌汁はおかわりが無かった。何の味噌汁を拵えるかは母の気分次第だった。

やがて私も料理をするようになってわかったのは食べたいものの料理が一番美味しく楽しく作れることだ。

いつもの豆腐じゃなくて、シジミの味噌汁やなめこの赤だし味噌汁が格別に美味かったのはきっと母の気持ちを上げたかったのだろう。

そう思ったら、なんだかシジミの味噌汁やなめこの赤だしの味噌汁がけご飯(そっち?)が母の味に思えてきた。
猫まんまが母の味なんていったら天国のお母さんにごっつう叱られそうだなぁ
脳卒中のリハビリで入院していた時、食事の際に目の前に座る同じくらいの世代の男性が白飯に豪快に味噌汁を掛けて食べている(病院食はやたら白飯の量が多い一方で塩分が薄いから白飯食べるのに苦労するのだ。)のを観て行儀悪いなぁと蔑みながらも羨ましくなった自分に気づいたときあの頃が急に思い出されたものである。

ところで最近愛妻が、豆腐の赤だし味噌汁を拵えてくれる。

どうやら発酵食品として八丁味噌はかなり優れているらしく私の健康を気遣って拵えてくれているようのだ。

色が濃いので塩分が強そうに思えるけど色は発酵が進んでいるからで見た目ほど塩分は強くないらしい。

赤だしはなめこでしょうとか余計なことは言わずに黙々と私は妻の愛を美味しくいただきながら時にこっそりとご飯を浸して鬼籍に入って久しい母にと1974年頃の自分に再会するのであるもちろん妻はそんなこととは露知らず行儀の悪いその様子をを笑って観ているけどね。


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