長編小説 『桜花爛漫・上』
三十二歳の自分だったら、十四歳の自分を抱きしめてあげることができるだろうか。
そうだとしたら、二十二歳の俺には、彼らを会わせることくらいはできるだろう。
朝日生一の身体の中には、三つの自分がいた。
六花。紫陽。アキラ。
プロローグ
安い酎ハイの空き缶が、机の上に並んでいく。こんなに飲まなくてもよかったかもしれない。どれだけ飲んでも、現実が変わるわけではないのだから。
「紫陽、もうやめておけよ。」
ツヅミに缶を取り上げられた。代わりに水をくれる。だが、今はこんな固くて冷たいものよりも、なにかあたたかくて柔らかいものに触りたい。コップを置いて、ツヅミの手首を握る。
「ん?」
ほとんど身体感覚の無い、ゴム製のツクリモノのような身体。それでも、無性に人肌恋しくなることがあるのだから不思議だ。
「疲れた。」
そうか、疲れているんだ。
「もう嫌だ。」
そうか、酔うとこんなことも言えるんだ。
「もう少しだけ、生きる。」
今夜だけ生きて、逝こう。
ツヅミの手首から脈拍を感じ取る。命のリズムを自分の胸に引き寄せた。心臓の上に重ねる。ドクドクと鳴るそれが、ツヅミのものなのか、自分のものなのか、もうわからない。
生きている。鼓動に合わせて背中がズキズキ痛む。生きている実感とともに、麻痺していた痛覚が蘇る。
「痛ってぇ……。」
「どこが痛いの?」
「背中。」
背中をさすられた。触れた部分から、だんだんと熱が広がっていく。そう、これだよ。人のぬくもり。骨と筋肉がそこにあることを、確かに感じた。
《人の温度は感じていたいけれど、痛みは手放したい》
そんなわがままは、なかなか叶わない。
「……背中にも、神経って通ってるんだな。」
「全身に通ってるよ。紫陽が鈍いだけ。」
「そうだな。でも、今はわかる。」
「うん。痛いな。」
「でも、あったかいよ。」
いつだったか、ふらりとゲイバーに立ち寄ったことがあった。もう二度と夜明けなんて来ないんじゃないかと、虚無感に苛まれた時だ。あの時、優しく夜を教えてくれたあの人は、今どこで何をしているんだろう。踊るように飲んで、泳ぐように遊んで、歌うように慰めてくれた。我ながら、いい人を嗅ぎ当てたと思う。
ツヅミの首筋に、唇が吸い寄せられる。ピクリと友人の身体がはねた。
「あ、……ごめん。」
つい、うっかりだ。酔っている。本当にごめん。
だが、ツヅミは笑った。
「痛いことと、あったかいことを感じてる紫陽は、珍しいな。」
ツヅミが正面に座りなおす。
「俺の手を握ってる感覚も、ちゃんとわかるか?」
「うん。」
「だったら、もっと感じていてほしい。いろんな感覚を、知っていてほしいよ。」
ツヅミに誘われるまま、その心臓に掌を当てた。
「紫陽は生きてるんだから。」
ドクッ、ドクッ、ドクッ。同じ人間とは思えないような、元気な律動。
「紫陽。」
射貫かれるように見つめられた。目をそらすことも閉じることもできないまま、唇を重ねる。作り立てのココアみたいな温度だ。
「あったかい。」
「紫陽だって、あったかいじゃん。」
「そうかな。」
ツヅミはコップの水を口に含む。再び唇を重ねた。ひんやりとした水が流れ込んでくる。そして、ゆっくりとあたたかい舌が入ってくる。
何の前触れもなく、涙がこぼれた。ぽたりぽたりと落ちていく雫が、まるで鼓動を刻むように音を立てる。服にしみこんでいく涙が、まさかこんな音を奏でるなんて知らなかったな。
「紫陽?」
「ん?」
「……よかった。泣けるんだ。」
「泣いてねぇ。」
「うん。」
「……その優しさに溺れて死にたい。」
「生きろ。」
目を閉じる。味覚以上の何かで、感情を口から受け取る。そのお返しをするように、俺もまた舌を絡める。静かに、時間をかけて、丁寧に。優しい言葉を伝える時と同じように。
じんわりと、熱が背骨を上がってくる。重い命の振動が、体温を高めていく。
握り合った手。この振動を共有していることがうれしかった。このままお互いの境目なんてなくなって、ひとつになってしまうんじゃないか。本当にそうなったら面白そうだけれど、もしかしたら、少し寂しいかもしれない。
どちらからともなく、そっと離れる。人は鏡というのだから、俺はきっと、ほほ笑んでいるのだろう。
背中の痛みを、束の間、忘れていた。
「紫陽、もう一回。」
愛に満ちていると気づいたら、愛についての渇望は終わる。
腕があってよかったと思うくらいに、抱きしめた。
「もう一回。」
優しさに溺れても死なないのは、それが羊水のような性質だからかもしれない。
今日も還れない。
第一章 はじまり
一、 二十二歳
真っ黒な穴。膝から額くらいまでの大きな穴が、目の前に迫っていた。反射的に逃げる。恐怖を感じたのだ。周囲は見覚えのない草原だった。そこで気づく。『ああ、これは夢か』と。
左側から、今度は小さい穴が迫って来る。ビクリと震える膝。
遠くには、紫陽花の群れが見えていた。逃げ切ることが、できるだろうか。
「紫陽、……紫陽!」
「んぁ?」
瞼を開ける。友人の部屋だった。
「もう昼過ぎだぜ。」
揺り起こされながら、記憶をたぐり寄せる。
「絶対こうなるって思ってたー。ほら、二時じゃん。やっぱり二時だよー。」
どこからどこまでが、夢なんだろう。
「起きろー。起きろってー。」
「……んぅ~。」
たしか、土曜出勤の帰り道だった。偶然ツヅミと会って、宅飲みに流れ込んた。俺はツヅミのベッドを占領してしまったようだ。
倦怠感がのしかかる。夢を見ていたせいだろうか。二日酔いだろうか。
ツヅミはカーテンと窓を開けた。部屋に光と風を呼びんでいる。
「風呂入って来いよ。」
投げてよこされたバスタオル。眩しくなった視界を遮るために顔に乗せた。
「変な夢を見た。穴だ。」
「もう起きたから大丈夫だ。ほら、海に行くんだろ?」
あ、そうだ、海。
「ぃいくぅう。」
「色気のねー声でイクとか言うな。ココア作っといてやるから、さっさと風呂に行け。」
「ココアぁぁ~。」
優しさを甘んじて受け入れる。こういうときに、やっと呼吸を思い出す。
「水飲んでから風呂入れよ。すっげー酒飲んだ気がするから。」
起き上がろうと頭を持ち上げてみる。けれど、枕に逆戻りだ。
「起き上がれねぇ。」
腕を突っ張って上半身を起こそうとするも、重力に引っ張られて、自力ではどうしようもない。
《このまま、時間なんて進まなければいいのに》
唐突にそう思った自分自身に、引いた。ガキ臭くて、青臭くて。最近、子どもたちに読み聞かせている絵本のせいだろう。ふと魔法を使えるような気がしてきてしまうのだ。
《永遠に、明日なんて来なければいいのに》
「紫陽、さっさとしろー。」
布団をはがされて、世界は時を止める気配を失くす。なぜ、子どもたちに、ありもしない魔法の世界を伝えているのか。ここは、時が止まるようなファンタジー世界ではない。
「今日も世界はまわるんだな。」
「寝言は寝て言え。」
「ツヅミは俺の世界だ。」
「はいはい、ありがとう。」
ありがとうは心を込めて言ってほしい。
*
潮風が香る。俺たち以外に、人はいない。絵本のような景色ではないけれど、海開き前の海岸は気配が厳かで良い。要らないものすべてを洗い流してくれるような感覚がある。
打ち寄せる波に背中を押され、俺は胸の内を吐露した。
「それで、所長がさ、……いいや、そもそもマネージャーがさ……。」
仕事の愚痴だ。
「なぁ、ツヅミ聞いてる?」
「うん。聴いてるから、続けろ。」
「確かに、予算が無いとできないことが多いのは事実だよ。そんなことは、はじめから知っている。」
「まー、ビジネスでやってるところは、福祉業界の中でも給料が良いよな。」
「うん。……でも、働く理由って、そこじゃないだろ。」
「そうだな。」
離職率の高い職種だ。よって、社員の給料を上げるために、会社は収益を求めて様々に企画を進めている。俺は、事業拡大で新設された児童部に、今年度から異動した。異動が決まってから、必死に知識を拡張した。成人と子どもでは、そもそも分野が違う。上層部はそれを理解していない。会社が大きくなればなるほど、現場と本部の価値観がズレていくのだ。
「ありきたりな葛藤だ。まんまとハマったんだよ。」
「おい、そこは自責するところじゃないだろ。」
「……うん。ネガティヴな渦に引きずり込まれているだけなんだろう。」
そう、単なる社会のからくり。だから、そんなことは心底どうでもいい。俺の悩みは、そんなことではないのだ。
「どうにかするために、働いてるんだ。」
「うん。」
「どうにもならないかもしれなくても。」
「うん。」
「でも、どうしても、どうにもできなくて。」
「うん。」
「……悔しい。」
走りたくなった。膝を曲げて姿勢を低くする。風に向かってスタートを切った。こんな走り方は、小学生の運動会以来かもしれない。断片的な映像が蘇ってくる。クラス対抗リレーの選抜選手で走っていたのだ。足は速かった。
夢の中では、全速力で走ることなど叶わない。いや、実は興味があったのかもしれない。あの真っ黒な穴に。
《漆黒の闇に飲み込まれてしまっても、別にいいや》
きっと、そう思っているのだ。というか、これが本音だろう。
ゾクッ。自分に寒気がした。暗闇から逃れるように、足の回転を上げていく。呼吸音が、身体の内側から響いている。
気づけば、目の前に迫っていた。膝から額くらいまでの、大きな穴。砂浜から脱出した右足が、やむを得ず穴の中入った。
次の瞬間、俺はログハウスにいた。いびつで自然な、むき出しの木の家だった。
「こんにちは。」
そう言ったのは、俺だった。俺自身よりも少し年を重ねた感じの、俺だった。
二、 二十六歳
「まぁ、座りなよ。」
「……。」
状況を把握できなかった。ゆえに、少しも動くことができない。小説のように目に見えてしまいそうな風が、ウソみたいに髪を揺らしている。
たった今、俺は海にいたはずだ。
「座りたくなったら、座りな。」
これは夢か? 明晰夢だろうか?
彼、もとい年を重ねた自分は、何かを書きはじめる。少し粗い紙質のノートと、柔らかい黒鉛の鉛筆。傍らには、乾燥しがちな唇にうってつけであろう、木のマグカップ。
《ここは、未来?》
願いにも似た疑問は、声にならなかった。言葉の代わりに、涙が出ていた。未来のはずがない。ここは、俺の夢だ。叶える気のない、俺の夢。
「おいでよ。」
声をかけられて、開いている瞼をもう一度開く。差し出されたタオルにピントを合わせた。青とも緑とも言える、淡い色。柔らかく、安全な匂いがする。懐かしい匂いによって、未知に対する警戒心がほどけかけた。
いや、待て。踏みとどまれ。こんなの、狂った脳みその妄想だ。
「……鉛筆を置いてまで、俺なんかをかまうなよ。」
「はははっ、第一声がそれ?」
《作家でいたい》
「ほんと、生意気で可愛いよね。やんちゃで放っておけない後輩タイプでもいけたと思うんだけど、クールで陰のある優等生タイプ? それは君の処世術になった?」
「処世術なんて、あったってしかたねぇんだよ。」
「そんなことはないよ、よく生き延びてくれた。君がいてくれたから、今の僕がいるんだ。」
「ムカつく。」
「紫陽、頑張ったね。」
「意味が解らない。」
背中に当てられた掌。想像よりも、大きかった。わけのわからない安心感があふれ出して、花びらを散らすように涙を散らしてしまう。いや、実際に散ったのは、豊かな光だ。床に色彩が散らばった。
幻覚。
《抱きしめてほしい》
そう思ったタイミングで、抱き絞められた。これが自分の妄想に他ならないのだと突き付けられて、息が詰まる。
「そうだ。ハンバーグを作ったんだけど、食べる?」
血の気が引いた。何を食べさせるつもりだ。これ以上、妄想に支配されてたまるものか。彼を突き放して、世界のカーテンを閉める。こうすれば、何も感じなくて済む。
「紫陽、そんな顔は似合わないよ。」
遠くに、許しながらも呆れたような声。
「笑って。」
目の前が怒りで真っ暗になった。
*
誰かが、泣いている。身体に似合わない、大粒の雫だ。我慢して我慢して我慢して、それでもポタリと落ちてしまったというような。しだいに、堰を切ったように次から次へとあふれ出す。服をびしょびしょにしてしまうだろう。
涙を流しているそいつの身体に、見覚えのある傷があった。親近感を抱く。
妄想のあいつにしてもらったように、抱きしめてやろうか。しかし、吐き気がした。ぐーんと低気圧に侵されるように、視界がかすんだ。指先の感覚が失われていく。目の前で泣いている生き物を震源地にして、俺が揺れている。
「紫陽ってば!」
「あっ……。」
目の前にいたのは、不安そうなツヅミ。
ここはどこだ。
あの小さい生き物はどうした。
いいや、俺たちは、海にいたのではなかったか。
「怖い夢でも見た?」
「……ごめん、吐きそう。」
トイレに行きたい。立ちくらみがして、目の前が真っ黒になる。慌ててしゃがみ込む。床の上にちゃんと手をついたのに、床が抜けて崖から落ちるような感覚がした。果たしてここは床だったか、それとも砂浜だったか。やはり崖だったか。
浮遊感がお腹に響いた。かと思うと、追い打ちをかけるように、心臓に何かが刺さる。さらに、脳みそをえぐられるような声が、いくつも聞こえきた。
呼吸ができない。ぽたぽたと垂れているのは、心臓から流れ出した血ではない。心からあふれた血だ。
《生きていたくない》
違う。これは俺の感情じゃない。目をひらいて床を見る。地震でも起きているかのようだが、これは俺が揺れているだけだ。余計なことを感じるな。要らないものは捨てろ。ありえない記憶は消せ。今生きていることがすべてだ。
「生一? ……紫陽? 聴こえる?」
「うん。」
「ここで吐いていいよ。」
「……ココアしか飲んでないから、吐けない。」
座りなおして、汗をぬぐう。
「あのさー……、この際はっきり言うけど、仕事辞めたら?」
「言わないでくれよ、そんなこと。」
「俺、実は安心したんだよ紫陽が、ちゃんと自覚できるくらい体調を崩したこと。もう無茶できないだろうなって。」
「……わかってるんだ。いろんなことが、限界だってことくらい。」
「うん。これ以上無理されると、すげー心配。」
「頭ではわかってるんだ。」
「丹田で考えろよ。」
「その通りだ。」
「……飯食っていけ。作ってやるから。」
「え、いや、帰るよ。」
「なんで?」
「……わかった。食べて帰る。サンクス。」
ワンルーム。八畳、バストイレ別、ロフト付き、二階の角部屋。ここは居心地がいい。自分の部屋よりも。
「パスタな。何味がいい?」
「なんでも。」
「野菜はサラダ、肉はスープで食おう。栄養を摂るぞ。」
「やっぱカルボナーラ。」
「おう。」
「やっぱり、ミートソース。」
「両方作るか。」
「うん。」
くるくる、くるくる。
パスタを回していると、目が回りそうだ。
くるくる、くるくる。
少し面白くて没頭する。
ぱくり。
「うまい。」
「味わかる?」
「うん、まぁまぁわかる。」
「チーズを多めにしたんだ。」
くるくるくるくる。
チーズの味がわからなくて、話題を変える。
「暑くなってきたな。スーツがかったるい季節が来る。」
「うん。」
「遅咲きの紫陽花が満開だ。」
「うん。」
ぱくり。
「……異動は、きっかけにすぎないんだよ。」
「うん。」
くるくるくるくる。
「俺、たぶん、ずっと前から疲れてた。」
「出会った時からな。」
「え? そんなにさかのぼる?」
「うん。」
ぱくり。
「変な夢を見たんだ。」
「ん?」
「いや、夢なのか想像なのか、全然わからない。すごい変なものを見たんだ。」
「うん。」
くるくるくるくる。
「そう、こんな感じに、回転しているんだ。真っ黒で大きな穴が。大きなって言っても、背丈くらい。でもなんか、外側は銀河みたいな、星屑散らばってる感じ。真ん中は、もうブラックホールかっていうくらい。教科書に載ってただろ、銀河、ああいう感じ。漆黒っていうのかな、とにかく得体のしれない闇なんだ。穴なんだよ、穴。」
「要点をまとめてから話せよ。」
「お前くらいは、俺のとりとめもない話を聴いてくれよ。」
「はいはい。」
くるくるくるくる。
「穴の向こうは、理想の未来。楽園だった。」
「よかったじゃん。」
「理想的な生活、理想的な生き方をしている、幻の自分がいたんだよ。」
「よかったじゃん?」
くるくるくるくる。くるくるくるくる。くるくるくるくる。
「ログハウスに住んで、しっくりくる紙とペンで詩を書いてるんだ。それで、あったかいココアを飲んでるんだ。しかも、柔らかい木のマグカップで。」
思い出せば思い出すほど、息が詰まる。
「……つらかった。……だって、現実になりえない理想なんか見ちゃって。」
くるくるくるくる。くるくるくるくる。くるくるくるくる。
「あいつが作るハンバーグは、絶対子どものころに食べてた味がするに決まってるんだ。だって、あいつは俺なんだから。」
フォークを置く。
「悪夢だ。」
天井を仰いで、笑う。
「俺はそんな愛情の記憶で、許したりしない。この寂しさを。」
天井が歪んで、悔しい。泣いてしまう自分が、悔しい。
「紫陽。」
「なに。」
「弱音は、吐いた後が大切なんだ。」
「……なに。」
「『弱音を吐いちゃった』って自己嫌悪したら、意味がない。俺のことは、たんぽぽかなんかだと思っておけよ。」
「……サンクス。」
乱暴に涙をぬぐう。泣いたってどうしようもないんだ。
「紫陽、明日どうすんの、仕事。」
「……月曜日だからな。」
「……。」
「ツヅミ、ありがとな。本当に。」
「なんだよ。」
「いつもそう思ってるんだよ。」
「俺のほうこそ、ありがとう。」
「何がだよ。」
「いつもそう思ってるんだよ。」
「気持ち悪いから。」
「ひでーな。紫陽につられて素直になっただけじゃん。受け取ってよ。」
「……どういたしまして。」
三、 十四歳
仕事中、子どもたちと公園に出かけた。梅雨明けにふさわしい、爽やかな青空だった。
今は、それが赤に染まりつつある。
「お先に失礼します。」
「お大事に。」
青い顔を見かねた所長に、早退を促された。
あぁ、どれくらいぶりだろうか。こんな時間に、夕日なんて眺めるのは。俺の心も、色を変えてくれればいいのに。こんなに大きな空が壮大に移り変わるのだから、俺の心だって、絶望から希望へと移り変わってくれたっていいのに。
もう、想いを馳せることが億劫なほどだ。いったいいつから、何に疲れているのか。それほど生きていないのに。
美しく書き綴ることが最大の癒しだ。最近じゃ、それすらできない。無理やりにでも、言葉を並べたら、少しは救われるだろうか。
空にはあこがれがある
どうしても触ることのできないものには興味と希望がある
きっとそこには何があってもおかしくないような
何が無かったとしてもおかしくないような
なにか、かけ離れたものに対する希望だ
簡単に失望に変わる希望だ
信じることしか根拠などないのだから
「どうやって、信じ続ければいいだろう。」
遠くに、あの穴が現れた。夕焼けと漆黒のコントラストがすさまじい。かっこつけたグレーのスーツじゃ、走れそうにない。
いつか夢の中で満月が迫ってきた時には、上手く逃げることができたのに。
穴に襲われ、ブラックアウト。次の瞬間、全身を受け止めてくれたのは、柔らかい木の床だった。
紙の上を黒鉛がこすれる音。未来を急ぐわけではない秒針の音。身じろぐと、服のこすれる音が響く。ここは、本当によく聴こえる部屋だ。
「よう。また来たね。」
椅子から振り返った彼の、秒針に似た声。カモミールの香りが、海馬を緩めてリラックスさせる。
「飲む?」
木製のマグカップを片手に、彼は笑う。嫌みなくらいに、優しく微笑んでくる。
「おいしいよ。」
「いらねぇ。」
「きっと、味わかるよ。」
「いらねぇよ!」
背を向ける。
鉛筆の音が、聴こえる。
どのくらい、そうしていたのだろうか。カモミールの香りが、再び鼻先をかすめた。
「おいでよ。」
従うのは癪だったが、反発するほうがもっと幼稚だ。
「ほら。」
彼に手渡されたのは、あの、なめらかなマグカップ。
「触れない。」
咄嗟に出た言葉。
「触れる。」
間髪入れずに返事がくる。
「無理。」
こんなもの、触れるわけがない。触りたくもない。だって、これは妄想。目の前にいるコイツだって、幻想。
これ以上、この世界に介入したら、狂ってしまうかもしれない。
「ほら、飲んだら落ち着くよ。」
マグカップを持たされてしまう。警戒心が緩んでしまうこの空間では、反射神経が追い付かない。
「ありがとう。」
彼が言った。手を握られた。自分との境がわからなくなるくらいに、同じ温度だった。
マグカップは、まるで握手でもするかのように手に馴染んだ。自分の手がこんなに柔らかいことを、初めて知った。
「こっちに座ろう。」
彼が小さな風の流れを起こす。日差しのようなぬくもりを含む香りが、涙袋を震わせる匂いでイラついた。
「ずっと聞きたかったんだけど!」
考える前に声が出た。
「なに?」
言葉の先を読んでいるような声音。その声にまたイラついた。
「……お前、誰?」
自分の質問の答えは、知っていた。
「僕は君だよ。」
「じゃあ俺は誰っ?!」
本当は、こっちのほうが聞きたかったのだ。
「君は僕。」
微塵のためたらいもなく返された。
「わけわからねぇよ。」
「僕は、君だよ。何年後かな、紫陽は今いくつ?」
「……え?」
「ハタチくらい? いや、ボロボロの二十二歳かな。」
「……。」
「十年後だね。」
「……帰る。」
空間はとても優しいのに、コイツの言葉に心をえぐられる。
「紫陽、ありがとう。」
「思ってもねぇこと言うな、糞野郎がっ!」
俺は走り出した。
なんなんだ。
そういえば、どうしたら帰れるのかを知らない。どうしよう。
情けなくなった。怒りをエンジンにぶち込んで、走り続けるしかなかった。
黒い穴が、目前に迫っている。
大きすぎて、避けることができなかった。
暗闇。
「行かないで。」
細く響く声。聞き覚えのある、自分の声。
「一緒にいたい。」
誰にも届くことのなかった、自分の声。それもそのはずだ、俺はこの言葉を、声に出さなかった。いや、出すことができなかった。
「嫌だ。」
自分にすら届かなかった、自分の声。
「助けて。」
誰も助けてくれなかった。
「痛いよ。」
「寂しい。」
「誰か。」
「聴いて。」
「お願い。」
「愛して。」
梅雨は明けたというのに、雨が降りしきる心。かわいそうだ。思わず、そばに寄った。でも、黄色い傘を差し出すだけで、精一杯。
目が合った。
ゾッとした。
弱々しい雰囲気からは想像もできないような、冷たい目。どこにそんなエネルギーがあるのか、黄色い傘を折った。傘の骨で、身体を傷つけはじめる。まるで、俺に見せつけるように。腕、肩、首。痛みをこらえるくらいならよせばいいのに、顔を歪めながら皮膚を切り裂いていく。頬、胸、腹、足。俺自身の身体にも、灼熱に似た痛みが走る。
静かなそれは、自傷というよりも、自分を愛する儀式のように見えた。叫べない言葉を、皮膚に刻み付けるかのようであった。怒りに変わる寸前の悲しみを、懸命に自制するようでもあった。どこかにあるはずの光を、決して見失わんとするかのようでもあった。誰にも見つからないこの暗黒世界に、心の墓をつくるようでもあった。
ふいに気づいた。冷たいのは、こいつの目ではない。こいつが見ている世界が、冷たいのだ。あふれ出した温かそうな血液は、子守歌のように、その肌を包む。
血にまみれた光景が、恐ろしいとは感じなかった。赤は、こいつに優しいのだ。胎内に帰りたいと泣く小さな身体を、守るように。慰めるように。慈しむように。
温かい身体で冷たい世界を生きるのは、酷なことだろう。
果てのない暗闇の世界。
いったい何が現実で、どこからが夢なんだろう。全部夢ならいいのに。
第二章 六花
四、 空をさまよう蔓の如く
現場を他のスタッフに任せて、ジャージからワイシャツに着替えた。
約束の時間まで、事務作業をする。淡々と、指はキーボードの上を正確に舞う。支援記録の打ち込みは、脳みその二十四分の一ほどで事足りていた。ゆえに、脳みその半分を使って考え事をする。
あいつは、誰なんだろう。
現実逃避も甚だしい。それでも、状況を客観視していないと、現象に圧倒されてしまいそうだ。さて、今はひとつの仮説が立っている。誰でもたどり着くであろうこの仮説が、できれば正しくないことを願う。
冗談じゃない。
ログハウスにいるあれが三十二歳を自称するのであれば、泣いているあれは「年齢の違う何か」である可能性が高い。だが、あんな血だらけの過去があるはずない。なぜなら、俺には過去が無いからだ。いいや、こんな言い方は雑すぎる。正確に表現するなら、十五歳以前の記憶がほとんど無いのだ。何度か、幼少期であろうことを理解できる夢を見たことはある。しかし、自分が経験したこととして受け取れるような実感は皆無だった。
俺は、戸籍上の自分を知識として理解しているだけであって、知らないことや経験していないことがとても多い。
【突然、この身体の人生に参加した】
俺という存在は、そういう、得体のしれない宇宙物体なのだ。こんなことを話しても理解してもらえないことはよくわかっている。それに、この状態を俺自身が正確に理解できているのかと問われれば、否だ。自分自身にも理解できないことを、他人に理解してもらえるように説明することは、まったく不可能だ。
この地球上のすべてを、あるいは自分のすべてを、【神秘】で片づけるほかにない。いつか、この【神秘】について話せる日が来たら、それはきっと素晴らしい気持ちになるのではないかと、儚い想像をしている。とにかく、あの血まみれの様子を、自分自身に重ねることはできない。たとえ、この身体にいくつもの傷跡があったとしても。「悪夢ばかり見る。」それで片づく話しだ。
「朝日さん。」
「はい、何でしょう?」
脳の二十四分の一は仕事中だ。
「昨日の支援記録を、来週のケース会議の資料にしたいそうです。所長から補足を記入しておくように指示がありました。」
「かしこまりました。あ、それは、私が? それとも相田さんが補足を?」
「私が補足をさせていただきます。昨日彼に声掛けをしたのは私なので。ですが、朝日さんにも、状況の詳細を追記しておいていただけると有難いです。」
「わかりました。ケース会議までに?」
「いいえ、所長が目を通せるのが明日しかないそうです。急で申し訳ありませんが、明日の十七時頃までに。」
「わかりました。ありがとうございます。」
俺の中の何かが、自動的に受け答えをする。
『我思う、故に我在り』と誰かが言ったそうだ。『我を疑う我はここに在り』ということだ。誰でもない俺は、いつも脳内のデータから最善と思える行動を選択している。そうやって、仕事をしている。
「朝日さん、ちょっと休憩を挟まないかい?」
「所長。コーヒーを入れましょうか。」
「あっ、その前に、この書類にサインをお願いできるかな。」
「はい、お預かりします。」
「本当に、素敵な名前だね。」
俺の名前は、紫陽だ。十五歳の時からの名前だ。でも、この傷だらけの身体には、産まれた時に付けられた名前がある。
「自分でも、たまにそう思いますよ。朝日生一なんて、希望そのものみたいな名前ですよね。」
「名前の印象に引けを取らない人間性、尊敬しているよ。」
「褒めても何も出しませんよ。」
「お茶菓子を出してください。」
「はい。」
「今のはボケだから、ツッコミを入れてくれるとうれしい。」
「はいはい。」
「輪廻にすら飽きていそうだね。なぜ生まれてきたんだい?」
「それを思い出そうとしているんですよ。」
「ほら、名前にぴったりな生き様だ。」
チョコレートをひとつつまんで、時計を見る。ネクタイを整える。
「所長、日向さんの家庭訪問に行ってきます。」
「行ってらっしゃい。直帰になるかな?」
「はい。十八時過ぎてしまうので、直帰させていただきます。」
「葵ちゃんによろしく。」
「はい、承知いたしました。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってまいります。」
「気をつけてね。」
冷汗と頻脈を無視して、歩く。
俺が担当しているのは、七人だ。その中にひとり、怪我をしてしまって自宅療養している児童がいる。俺が様子を見に行かなければならないのだ。
日向葵(ひなたあおい)さん、十歳、女児。
日向さんの家庭訪問は、これで三度目だ。
世界にベールを下ろして、インターホンを鳴らす。
「朝日さん、お待ちしていました。葵がいつもお世話になっています。段差、気を付けてくださいね。」
葵ちゃんの母親は、いつも丁寧な対応をしてくれる。早口で、過度なほどに。
「こんにちは。失礼いたします。」
リビングに通されると、葵ちゃんが座っていた。
「葵ちゃん、こんにちは。」
「……。」
「こら、葵、ちゃんとあいさつしなさい。どうしてあいさつもろくにしないのかしら。いったい何度言ったらわかるの? それともお母さんへの当てつけ?」
葵ちゃんの母親は、お茶を用意しながら彼女を叱る。そして、俺に向き直ってから言葉を続ける。
「ごめんなさいね、愛想のない子で。どうせいつも迷惑をかけてばっかりだったんでしょう、どうしようもないのよ。」
「いえ。」
相変わらずだ。今日も言葉の攻撃が始まる。俺は世界にシャッターを下す。お母さんの話を聞くことができる程度に。だが、シャッターを隔てても、母親の声が心に刺さる。
「お茶どうぞ。熱いので気をつけてくださいね。あら、足崩してくださいね。」
「ありがとうございます。いただきます。」
湯飲みが汗ですべる。
「こんなんだから友達もできないのよ。もう、心配で心配で。」
「あの、」
「知能の検査はしたのだけれど、普通だったのよ。なのに、どうしてお勉強もできないのかしら。きっと、やる気がないのよね。それに、耳が聞こえないといっても、まったく聞こえてないわけじゃないのよ。頑張ればいいのに、聞こうとする努力をすればいいのに、ちゃんとお友達の話に耳を傾けないものだから、無視されたとか言われちゃうのよ。せっかく、話しかけてくれるような優しいお友達がいたのにね。この子が悪いのよ。」
「お母さん、あのですね、」
「朝日さん、優しくしてくださるのは大変ありがたいのだけれど、この子のためにも、少し厳しくしてやってほしいんです。」
「ええ。ですが、」
「多少ね、しゃべり方が変だとか言われたとしても、しかたがないんですよ。そんなことで傷ついて喋れなくなっていたのでは、先が思いやられます。これから中学、高校と、進んでいかなければならないのに、コミュニケーションが取れないなんて困りますよね?」
「声を発する以外にも、表現方法はあると思います。」
「そうそう聞いてくださいよ! この子ったら、手話を恥ずかしがってやろうとしないんです! そんなんだから、聾の子たちの輪にも入っていけないし……。手話を恥ずかしがるなんて、聾の方々に失礼よね。」
「でも、あの、」
「この子ばかり甘えているのも、良くないと思うんです。ちゃんと現実を見て、努力で補って、将来は自立して生活をしていかなきゃならないんだから。この子のためにも、ちょっと急かしてもらえないでしょうか?」
「ええ、ですが、」
「まったく、お母さんがこんなに頑張ってあれこれ考えているのに、この子ったら、ずっとだんまり。そんなにお母さんを困らせたいのかしら。」
「あの、」
「それにね、本題は、あれよね、この子の、傷のことでしょう? だいぶ治ってきました。来週あたりには、またそちらに通わせることができるかと思います。……それで、その、例えば児童相談所っていうのは、こんな相談にものってくれるのかしら。それとも、精神科なのかしら。私、仕事どころではなくなってしまったわ。あの日から気が気ではなくて。どうしてこんな馬鹿なことをしたのかしら。私にはどうしても理解できないの。理解したくもないわ!」
「ええ、あの、」
「朝日さん、お若い支援員さんにこんなことを聞くのは恥ずかしのですが、その、自傷行為というのは、要するに私のせいなんでしょうか。母子関係がよくないとか、そういうことなんでしょうか。難聴の子のママ友さんたちは、こんなこともなくて、もっと上手に子育てをしているんです。私、もう自信が無くて。この子のせいで仕事も休みがちになってしまって、睡眠もままならないし、夫ともうまくいかなくなって、葵がこんなふうになったのは私のせいだって言うんですよ!」
「ええ、……。」
「自分の子なのに、もう何もわからないんです。どうにも気味が悪くて。どうしてこんなことをするのかしら。」
「あの、お母さん、」
「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ! 誰も助けてくれないの! どれだけ話したって、私の気持ちはあなたにもわからないわよ!」
「……。」
「あ、ごめんなさい。私、最近ストレスが溜まっているみたいで、……。」
気持ちは察するけれど、お願いだから、葵ちゃんの前でそんなことを話さないでほしい。
「あ、気になさらないで。この子には聞こえていないんですから。」
「お母さん、」
聴こえていますよ。そう言えたなら、何かこの状況が変わるだろうか。
「もう、私どうしたらいいのかわからない!どうしてしゃべらないのよ!」
それからも、母親の言葉は続いた。葵ちゃんが言葉を発することは、一度としてなかった。
俺は、悟られないように深呼吸を送り返していた。以前家庭訪問をした時よりも散らかっている部屋の様子を記録用に観察し、知識と経験に基づいた助言をして、その場を後にした。
また何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
俺は、俯瞰しきれないこのケースがとても怖い。
翌日。
定時を過ぎた事務室に、所長と二人きり。なんとなく、暗黙のうちに認めていた。意図してこの場をつくったことを。所長は、俺の行動を待ちながら残業をしてくれているのだと思う。待ちくたびれたのか、あからさまに俺へ視線を向ける頻度が高くなった。所長のそういうところ、嫌いではない。作業の手を止め、深呼吸をして、所長のもとへ足を進める。
「所長。少しだけ、相談のお時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか。」
「うん。私も朝日さんに相談があるんだ。」
「はい。」
「あちらのテーブルへ。」
俺はコーヒーを淹れ、自分にココアを淹れて座った。
「ココアをデスクに隠し持っていたのかい?」
「ええ。ひとりで残業するときにはココアを飲むんです。」
「そう。」
所長は、花をモチーフにした幼児向けのグミを出した。
「私は、いろんなお菓子を隠し持っているよ。」
「いただきます。」
「このグミ、可愛くてね、好きなんだ。」
「おいしいですね。」
「そうでしょう。疲れたときには、可愛いお菓子に癒してもらうんだ。」
空気をほぐすため、お互いが意識してリラックスできるように振る舞った。でも、どうしても落ち着かない。
「……なんていうか、本題に入ろうか。」
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません。」
「いやいや、そうじゃない。『朝日さんにアイスブレイクを仕掛けるのはなかなか難しいな』っていう意味だよ。諦めてごめんね。でも、これ以上世間話をしたところで、緊張する時間を長引かせてしまうだけかもしれないと思って。」
「……すみません。」
「自覚があるなら、もう少し力を抜いてごらん。いつもはどうしているんだい?」
「丹田で深呼吸をしています。」
「それはとても良いね。呼吸法は様々にあるし、練習をすれば本当によく効く。」
「はい。」
「漸進的筋弛緩法って知っているかい?」
「ええ。とても面倒なリラックス方法ですね。」
「あはははっ。確かにそうかもしれない。では、自律訓練法も嫌いかな?」
「ええ。時間がかかるので。」
「そうか。私は、自律訓練法は気持ちがよくて好きなんだがなぁ。まぁ、向き不向きがあるからね。」
感覚の鈍い俺には、まったく実感を得ることのできないリラックス法が多い。この仕事をしていると、セルフケアの技術を学ぶ機会は多くあるが、実感できるものはとても少ない。
「……えっと、このグミの新商品が出たら教えてよ。」
「所長は世間話が下手ですね。」
「オブラートに包んでくれ。」
「すみません。」
「うん、やっぱり本題に入ろうか。話をそらしてごめんね。」
「難しい部下ですみません。」
入社したての頃、「バリアを張ってもいいけれど、私の前では外しなさい」と言われたのだ。あれから四年、俺はその命令を極力守ろうと努めている。
「葵ちゃんのケース、担当を変えようか?」
「……そのことで、お伝えしておきたいことがあって……。」
「うん?」
「家庭訪問で……、えっと……。」
「うん。」
「いや、……その、……。」
「ゆっくりでいいよ。」
「ケースがどうこうっていうよりも、俺の問題っていうか。」
「朝日さんの問題というか、相性っていうものがあるからね。」
「あの、実は、……。」
「うん。」
「難聴とか、自傷行為とか、……俺のトラウマとドンピシャというか、そんな感じみたいで。」
「うん。」
「俺自身の母子関係も重なってしまう、トリプルパンチのケースといいますか……。」
「うん。」
「葵ちゃんに共感しすぎていて……、いろいろ思い出してしまって、……。」
「うん。」
「もう、自分でもよくわからなくて、混乱していて……。」
「うん。」
「でも、できることはあると思っているので、やろうとするのですが、……。あの、体調を崩してしまったり……。」
「そのようだね。具合はどう?」
「……かろうじて。」
「バーンアウトってわかるかい?」
「……はい。」
「あるいは、二次的トラウマティックストレス。または代理受傷とも言うね。」
「……はい。」
「無理しなくていいんだよ。担当を変えよう。」
「……申し訳ありません。」
「謝ることではないさ。」
悔しい。情けない。いいや、一番大きいのは、罪悪感だ。何もできなかったという、罪悪感。逃げるという、罪悪感。
「この業界は、葛藤も多い。どうしたらいいかわからないことに対して、なにか答えらしきものに向かっていかなければならないという感じがある。どうにもならないものを目の前にしたときには、とてもつらいものだ。」
「……ええ。」
「まぁ、どんな仕事も、そうなのかもしれないけれど。」
所長に涙をぬぐわれたのは、気のせいだろうか。
「上手に隠して取り繕われてしまうほうが、私は困るよ。」
「申し訳ありません。」
「まったく、可愛いやら、扱いにくいやら。」
「……所長、いち個人としての気持ちが漏れていますよ。」
本音と建前と冗談が入り交じる。
「見抜かれるのが怖いくせに、見抜かれたい。そんな天邪鬼に、私は手を焼いているんだ。」
「やめてください。あなたに依存してしまいそうで怖い。」
「まったく依存しないのもダメだよ。」
はっきり『ダメだ』と言われるのは、珍しかった。
「依存する対象を増やしていきなさい。」
命令口調も、とても珍しい。
「そして、安心して傷つきなさい。」
「……そんなことが、できるんでしょうか。」
「できるさ。」
「どうやって?」
「安心して傷ついてみるしかない。これは上司からの命令だよ。従いなさい。」
「最善を尽くします。」
所長と交わす日本語は、嫌いではない。
「朝日さんは、言葉をとても大切そうに話すね。」
「言葉が、好きなので。」
「ちゃんとキャッチボールができることは、実はとても少ないのかもしれない。」
「ええ。まともにキャッチボールできる友人が、一人だけいます。」
「そう、よかった。なんか、詩人とか似合ってるよ。」
「詩なんて書いても、からかわれるだけなんですよ。」
「その年で断定するのは、まだ早い。広い世界を知りなさい。」
「命令ですか?」
「願いだ。」
「叶えてあげてもいいですよ。」
「そうしてくれると、うれしい。……ついでにもうひとつ、聴いてほしい。」
「はい。」
「朝日さんは、集中力がありすぎるんだ。ネガティヴな思考をはじめると、まっしぐら。どうせなら、その集中力の高さは、ポジティブな思考に使ってほしい。光に向かってまっしぐらにね。きっと、できるから。」
「はい。」
「お星さまの煎餅、あげる。あ、太陽と月もあるよ。」
「月がいいです。」
「全部あげるよ。」
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
潮時だろうか。
身体を切り刻んでいたあれは、十四歳の俺なんだろう。
五、 傷ついた時に傷ついたと言えなかった
顔見知りのたんぽぽが、狂い咲いていた。制服の中にセーターを着こんでいても寒い。そんな、雪の予報が出ていた中学生の冬。
「おい、生一。」
帰りがけ、同級生に声をかけられた。
「何?」
「お前、何書いてたんだよ。」
心臓を握られるような思いがした。カバンを抱きしめる。詩を綴っているノートを守るために。
「別に、何も書いてない。」
「嘘つけ、見せろよ。」
「なんで?」
学校に持ってくるんじゃなかった。絶対に、誰にも見られてはいけないのに。でも、家族に見られても困るから、持ち歩いているんだ。
「見せろ。」
執拗に絡んでくる鷺沼君。春には身長をからかわれ、夏には体力をからかわれ、秋には音痴をからかわれた。強気なものの言い方が、これ以上エスカレートしたら、怖い。
「ほら、見せろよ。」
「やめてってば。」
「いいじゃんか。」
いったい、何がいいんだ。鷺沼君には日本語が通じない。いいや、最近になって、僕の日本語がほとんど誰にも通じていないと感じはじめていた。
鷺沼君は、僕の机を漁りだした。
「やめてよ!!」
ダメだ、国語も数学も、どのノートにも、詩を書いている。
「本当に、やめてってば!」
声が大きくなると、クラスの視線が集まる。
「なんでだよ。見られたら困るもんでも書いてんのか? エッチなこととか?」
「違うってば!」
理科のノートを取られてしまった。
「返してよ!」
取り返そうとするが、体格差のせいか、心の強さの差のせいか、どうしても難しい。
「さーて、何が書いてあるのかな~?」
からかうような声音が、教室に響き渡る。
「なになに? ……雪の結晶は美しいのに、……その刃は鋭く、……何だこれ?」
「キモっ。」
誰かが僕に言った。それに調子をよくした鷺沼君は、笑いながらノートを読み進める。
「寒さは、己の、はははっ、オノレだってよ!」
別のクラスメイトが僕のノートを覗き込む。
「かっこつけじゃん。」
「きもーい!」
教室が、嫌な笑い声で満ちた。僕は、泣かないようにすることで精いっぱいだった。
「これ意味わかんねぇよ!」
わからなくたっていいよ。
「こんなんじゃ売れないぞ~!」
そんなこと考えてない。
「授業サボって何してんだよ~!」
授業に興味がわかないんだ。心が痛くて、授業どころじゃないんだ。
「ちょっと、男子! 笑ったらかわいそうだよ! それ、本気で詩のつもりなんじゃないの?」
日本語が通じない。
「笑ったらかわいそうだよね~。朝日君は繊細なんだから~。」
日本語が通じない。
「このくらいで泣くなよ。俺たちが悪者みたいじゃんか。」
日本語が通じない。
「超ウケるんだけど!」
「朝日君って、実はナルシスト?」
「何、その態度。純粋ぶってんじゃん。キモイ。」
「ちょっと~やめなよ~! 朝日君本当に泣いちゃいそうなんですけど~!」
「生一が悪いんだから、チクるなよ。」
どうしても、日本語が通じない。
「返して。」
「いい子ぶるんじゃねーよ。ムカつくんだよ、死ね。」
鷺沼君からノートを取り返すと、適当にカバンに詰めて教室を後にした。涙がこぼれてしまいそうだったから、クラスから一番遠いトイレに行った。頬を伝う雫が雪に変わりそうな、寒いトイレだった。
なんであんなこと言うんだろう。僕もみんなと一緒に「死ね」って言えば仲良くなれるんだろうか。でも、そんなことはできない。だって、こんなに痛いから。こんなに痛い言葉を、みんながクラスで話しているのは、どうしてなんだろう。
みんなと同じ国語の授業を受けているのに。
僕の日本語が、おかしいんだ。
僕が、おかしいんだろう。
*
「おかえり。」
「……。」
「ちょっと、なんとか言ったら?」
「……。」
「もう、何がそんなに気に入らないのよ。」
「……。」
「いい加減にしてよ。」
「……。」
「もう知らない。」
この家に爆弾が投下されたのは、いつのことだったか。部屋には、爆発した後の破片が散らばっている。あれは、言葉と言葉のぶつかり合いだった。言葉の暴力、言葉の戦争。家族の崩壊だった。
まだしっかり勉強する前だったのに、僕は言葉の成長を止めざるをえなくなった。あの日以来、美しい蝶のような言葉を厳選している。そうしなければ、血が出そうで怖かった。自分が傷つくのも、誰かが血を流すのも、もう嫌だった。
それなのに、学校でも家でも、常に臨戦態勢でいなければならない。危ない共通言語を使わなければ、会話が成立しないからだ。傷つけ合わなければ会話ができないなんて、とても悲しいことだと思う。
小学生の頃は、言葉がこんなにも酷い扱われ方をすることはなかったと思う。もっと柔らかくて、まるかったりして。キラキラの花びらを重ねてひとつの花ができるような。そんな会話をしていたはず。なのに。
ついに、家の中では声が出なくなった。僕が厳選した日本語は、母には届かない。もしも、この悲しみが刃物や矢のかたちをした言葉になって、母に向かってしまったら……。そんな予感がすることも、苦しかった。
何もしゃべりたくない。
スクールカバンから、ノートを取り出す。
そのとき、前触れもなくドアを開けられた。
「早く宿題しなさいよ。」
「……。」
「返事くらいしたらどうなの!」
「……。」
「いつまでお母さんに嫌がらせをすれば気が済むの?」
「……。」
「中学生にもなって、どうしようもない子ね。」
「……。」
「あんたのために働いてんだからね! 誰のおかげでご飯食べられると思ってんの!」
「……。」
「どうしてしゃべらないのよ!」
「……。」
「気味の悪い子ね。異常よ。」
ドアが勢いよく閉められた。
痛い。
言葉が、痛い。
声が、痛い。
心も身体も無くなってしまうんじゃないかと思うほどに。
痛みが僕を砕いていく。
どこなら、蝶を飛ばせるだろう?
ぽた、ぽた、ぽた。
あれ?
心から血が出ている。
ぽた、ぽた、ぽた。
あれ?
目から血が出ている。
寒くて、血液が、雪に変わってしまう。
最近知ったことがある。これは、「ゲンカク」というものらしい。
雪の結晶は美しいのに その刃は鋭く この皮膚を傷つける
寒さは己の熱を際立たせるが 骨まで凍てついてしまったら
僕も誰かの心を傷つけるのだろうか 雪の結晶は刃だろうか
儚い六花にさえ血を流す これは弱さでしょうか
美しい言葉だけが、僕の世界を守ってくれる。澄んだ風のような言葉は、僕の味方だ。誰も助けてくれなくても、心の破片を虹の雫のように並べてゆこう。
残酷であればあるほど耽美に書いた。詩になるときだけ、絶望は希望の糧になった。
まるで、魔法のように。詩は、僕を助けてくれる。
爆弾が投下され荒れ果てた地に、天使が舞い降りる詩を書いた。
言葉を失った少年が妖精と遊ぶ詩を書いた。
涙があふれてしかたがない、緩んだ視界の優しい詩を書いた。
助けてと泣き喚く自分の詩を書いた。
いつまで生きていればいいだろうと、天の迎えを待ちわびる詩を書いた。
血潮のかぐわしさを、傷跡の尊さを、微かな灯を言葉にする日々だ。
そうだ、死のう。
自分が死ぬ詩を書いた。六花の詩を書いた。
『僕は六花、母や友に触れたら、その体温で僕は死ぬ』
誰も傷つけずに死ぬことができたら、しあわせだと思った。
『冷たいこの世界で、六花は咲き続ける運命か』
自分で書いておきながら、死ぬことができないと気づく。
「死にたい。」
初めて口に出した言葉。身がすくむような恐ろしい共通言語。陳腐な言葉を吐いた自分が、とても醜く思えた。まるでヘドロが血管を流れていくようで、血の色を確かめるために皮膚を切り裂いた。心の痛みよりはマシだった。我慢できる痛さだった。
出てきた液体がヘドロではないことに安堵した。それと同時に、これが自傷行為であるという知識が矢となって、己を深く突き刺した。
ねぇ、お母さん。これなら、僕がどんなに傷ついているか、見えるかな。
だけど、こんな腕を差し出したら、お母さんは、『詩ね』って言うのかな。
『詩ね』
綺麗な赤い線だったよ。
その生命線は愛を描いて、見惚れるほどの芸術だったの。
大好きだったよ。
ためらいなく引き金を引くようなクラスの中で、なす術なく共通言語に侵されていく。「死ね」と反撃することもできない。僕に銃口を向け続ける母の前で、「死にたい」というヘドロに堕ちていくこともできない。
左腕は、赤黒いかさぶただらけ。どんどん汚くなっていく。この行為に唯一救いがあるとすれば、「現実」で手当てができることだ。まるで、見えない心の傷を手当てするために、身体に傷を移しているようだ。
この心を、たったひとりにだけ、打ち明けた。
たんぽぽにだけ、打ち明けた。
僕も花になりたい。
第三章 紫陽
六、 散り時をわきまえぬ花は醜いか
はじめに感じたのは、「怒り」だった。
俺の意思は、ただ「生きたい」という強烈なエネルギーだった。
血だらけの左胸に、痛みは無い。
死んだくせに、死にきれなかったのか。
包丁で心臓を刺そうなんて、肋骨に阻まれるに決まっているだろう。
馬鹿だな。
肋骨が役に立つことを、身をもって経験してしまった。
窓の外には、紫陽花が枯れかけていた。
静かに枯れゆく紫陽花のほうが、よほど潔く、美しい覚悟を持っていた。
繰り返すが、痛みは無かった。不思議と、悲しいとか苦しいとか、そういう感情もわいてこなかった。なかなか血は止まらなかったが、騒ぐ理由も見当たらない。胸の傷は自分で手当てをするだけで済ませた。死のうとしていたくせに、消毒液とガーゼはすぐそばにあった。本当に半端な覚悟だなと軽蔑した。
俺は今、誰を軽蔑したんだ?
床に落ちていたノートが目に入る。何ページにもわたって、蝶が死んでいた。読めば読むほど、惨い死に方だなと思った。でも、蝶の羽音が鮮明に聴こえた気がして、その洗練された羽ばたきに耳をすませば、きっと磨き抜かれた生き様だったのだろうとも思えた。
俺は鉛筆を手に取る。
雨が根こそぎ洗い流しても 風が流れるなら また命は芽吹く
雨が根こそぎ奪っていこうとも 日が昇るなら また命は芽吹く
雨はそれを生かすだろう
「生きなきゃ。」
生徒手帳で自分の名前を確認する。引き出しを片っ端から開けてみる。どこに何があるのかを確認する。母子手帳を見つけ、母のことを頭に入れた。
「生一、ごはんよ。来なさい。」
時計を見ると十九時。それにしては、空腹を感じていなかった。いいや、身体感覚が驚くほどに鈍いのだと気づく。自分の身体が、生きているとは到底思えないような、ゴム製の物体のようだ。
「早くしなさい!」
返事をしようとして、声が出ないことに気づく。声帯が機能していないのだろうか。いったいどうやって出せばいいのだろう。
「生一!」
考えるのをやめると、身体が動いた。
「早く座りないさい。お母さん疲れてるの。早く食べて。」
母の後ろをついて歩き、ダイニングテーブルに座る。
「消毒液の匂いがするわ。」
「……。」
「変なことしないでって、何度言ったらわかるの?」
母に出来事を言語化して伝えるのは、とても難しいことのように感じられた。俺の言葉がこの人に伝わるような感じが、一切しないのだ。
「せっかく作ったんだから、おいしいくらい言ったらどうなの。」
「……。」
「もう、食事つくるのやめようかしら。」
気が立っている相手に向かって、たとえどんな言動をしたとしても、こちらが攻撃されるだけだ。おとなしくして、気配を消すようにしているのがいい。
「ごちそうさま。」
「……。」
「あーぁ、どうしてこんなことになったのかしら。」
「……。」
「もう勝手にしなさいよ。」
この戦場で、どう振舞えばいいのか。
身体が知っていることは、とても多かった。
身体が覚えていることも、案外多かった。
*
少しクラスを見回してわかったことがある。話す言葉に感情がのってはいるが、全くちぐはぐだということだ。心で思っていることと、口から出ている言葉が、一致していない。それは、先生も同じだった。いったいそんなコミュニケーションで何ができるのか。何が面白いのか。そこらじゅうで、支離滅裂な会話が繰り広げられている。これでよく友人関係が成り立つものだ。いいや、誰一人として友人関係など成り立っていないのかもしれない。不気味な空間だ。
「生一、空気読めよ。死ね。」
俺はどうして教室で凶器を向けられているのだろう。もしかして、ここは教室ではないのか。戦場なのだろうか。
「死ねと言われて死ぬ奴がどこにいるんだ?」
あ、声が出た。
「生一君は死ぬのが恐いのかな~?」
「いいや。ただ、死ぬって結構大変だからさ。」
何より、身体が死にたがっていない。
「死ねよ!」
「何を言っているの? 短絡的過ぎて理解しづらいよ。」
「死ねって言ってんだろ!」
日本語が、通じない。
「本当はなんて言いたいんだ?」
「ハァ?!」
「行き場が無いからって、その感情を俺にぶつけないでくれ。」
「てめえ、ぶっ殺すぞ。」
鷺沼君は、とても苛立っていた。これ以上、対話ができない相手に時間を費やす理由は無い。その場を去ろうとした。その瞬間、こぶしが飛んできた。
「避けんなよ!」
「いや、身体が勝手に動いただけだ。」
顔を赤くした鷺沼君は、机を思いっきり蹴り倒した。そのまま、教室を出ていった。静まり返った教室の空気は、鷺沼君が残した怒りのエネルギーと、クラスメイトの動揺で満ちていた。
俺は、なんとなく、鷺沼君の怒りに共感してしまった。彼が何に怒っているのかはわからない。だが、俺の場合でいうところの、勝手にこの身体を殺されそうになった時の強烈な怒りが、ちょうど似ているんじゃないだろうか。俺には、蹴り飛ばせるような机が無かった。それに、生きたいという衝動が怒りを吸収したようだった。だから、あんなふうに発散しなくても済んだだけなのだ。
その後、鷺沼君はターゲットを俺から別のクラスメイトに変えた。先生は、クラスのそこかしこで発生する殺し合いを見つめながら、ただ困った顔を続けている。
俺、こんなところで死んでいいわけがない。
残りの中学生活を空気のように過ごした。せめて日本語が通じる高校に行こうと、勉強を積み重ねることに決めたのだ。鷺沼君が俺にかかわらなくなったことで、流れ弾も当たらなくなった。ただ、たまに聴こえるクラスメイトの心の悲鳴がうるさくて、耳をふさぐ代わりに風を切って走る習慣がついた。風の音は俺の聴覚を守ってくれるような気がした。
その先には、かけがえのない出逢いが待っていた。しかし、偏差値の高い高校でも、日本語は通じなかったのだからお笑い草だ。
本来の意味で言葉を使わずに、どうして会話が成り立つのか、理解に苦しむ。だが、考えてみればそれも今更だ。中学のころから、輪に入れないのは俺のほうなのだ。俺の正しい日本語がおかしいのだろう。
高校入学後、クラスで空気のように過ごしはじめた俺に対して、中学の時のようなからかいは無かった。だが、友人関係を築くには、やはり生徒同士特有の共通言語が必要であることに変わりはない。戦場とまでは言わないが、時折隠し持っている武器が教室でちらついている。
それはたぶん、劣等感とか、傲慢さとか、あるいは無気力とか、妬みとかだ。それらが、生徒それぞれの心の中で、危ない武器のような言葉となってしまうのだろう。
ふざけた冗談だと思いたい。殺し合うように会話をするなんて。傷つけ合うように会話をするなんて。
海原を自由に泳ぐ魚たちのような言葉がいい。そういう言葉を話す人が、どうしていないのか。
また、別の意味でも俺は落胆していた。脳みそは物理学の先にある宇宙のように大きい。高校入学に向けて勉強漬けだった中学とは違い、授業が驚くほど暇だった。一秒一秒の時の流れをカウントしていた方がよほど有意義ではないか。教科書を眺めていれば理解できるし、先生の話す日本語はつまらない。
やることが無い。時の流れを一秒一秒カウントすることはとても面白かった。だが、予想外に集中力が必要で、起きている間ずっとそれをしていることは不可能だった。ただ生きているだけでは、どうしても脳に隙間ができてしまう。気づくと、その隙間で何か思考している。生きている理由や、目的や、意味。生きる衝動についての、根本的な問いだ。
『なぜ生きているのか』
その答えは、どの教科書にも載っていなかった。いいや、逆に言えば、すべてが答えだったのかもしれない。それでも、わからなかったのだ。質問をしようにも、教えてくれそうな先生がいなかった。むしろ、身体に聞いたほうがよほどマシな答えが返ってくる。感覚的なその答えを共通言語に変換することだけが難しかった。
だから、詩にした。
愛している
闇が光に満ちて また闇が来る
光を待ちわびて 闇はここにある
光が光であるために
生が生であるために 死を愛している
俺の日本語がわかるのは、俺だけだった。
「朝日さんは、国語だけが苦手なのかしら。」
答案用紙を返された時に言われた言葉が、思いのほか胸をえぐった。美しさは点数にはならないのだから当然だと言い聞かせて、奥歯を噛みしめた。再試は免れる点数だったが、どうせならこんな中途半端な評価ではなく、満点か零点が欲しかった。
いいや、言葉の海で泳がせた魚たちに、点数なんて付けられたくなかった。
「俺、国語嫌いなんですよ。」
「理系を目指しているの?」
「考え中です。」
授業がつまらなければ、テストもつまらなかった。ギリギリの点数だったのは、国語だけ。中間テストを暇つぶしにクリアしてしまった途端、俺は高校生活に意味を失った。もう、どうでもいい。心底どうでもいい。
ほとんど教室には行かず、保健室で過ごすようになっていった。これが「保健室登校」という「問題児」か、と自嘲する。だが、そんな肩書も、もうどうでもよかった。
唯一、興味を捨てきれなかったのは、数学だった。けれど、ある日、数学に絶望したのだ。
【解答:解なし】
教科書の、たった一行である。俺は、神かなにかが「正解という光」で、そこにたどり着ける道標が「公式」だと勝手に勘違いをしていたらしい。だって、解いていけば答えにたどり着くじゃないか。
数学も、生きる意味についてはお手上げか。
勝手な思い込みで一方的に数学に裏切られた俺は、勉強と人生のプロセスを一緒に放り出してしまった。
もう何もしない。そうだ、時の流れでもカウントしていようか。
「【解なし】なんて、ふざけんな。」
「数学って、先生は一番苦手だったわ。」
「俺は、日本語が苦手みたいなんだ。」
「得意不得意を判断するには、まだまだ早すぎる年ごろよ。」
「そうかな。」
「そうよ。数学に絶望したくらいで、この世の終わりみたいな目をしないでちょうだい。」
「……じゃあ、何を希望に生きればいい?」
「新たな希望を探しなさいよ。」
「希望なんて無くても、生きていけるかな。」
「……さあね。」
「よりどころなんて無くても、命綱なんて無くても、生きていけるかな。」
唐突に、寒気がした。そして、気づいたことに気づいてしまった。家族って、戸籍のつながりなんだろうか。それとも、血のつながりなんだろうか、いいや、それとも、心のつながりなんだろうか。俺が、支えだと思い込んでいた家族は、今や母親だけ。その母親も俺に攻撃をするだけの動物で、家はサバイバル状態である。
「よりどころなんて、はじめから無かったのか。」
家出をした。脳みその判断ではなく、身体が家から逃げた。計画を練っていたわけではなかった。行き場もなく、ゲームセンターで補導されるという古い青春映画のような経験をした。
父親の家に移ることになった。最後に母親の顔を見た時、自分では制御できない怒りをぶつけてしまった。鷺沼君よりも、何倍も酷く。
俺が使った凶器は、言葉だった。やり過ぎだと理解していても、どうしても自制することができなかった。だが、凶器を振りまわし投げつけているのは俺だというのに、傷つくのは俺自身だった。部屋中に銃弾とナイフ、魚の死体が転がっていった。
瓦礫の中で蝶が死んでいく……そんな、いつか見た光景と重なった。
「生一、ごめんね。お母さんが悪いのよね。」
《あんたなんて、いなければよかったのに》
心がこもっていない言葉は、兵器だった。世界がなくならないのが、不思議だった。
俺は、聴きすぎる自分の耳が嫌いにいなった。せめて数学に答えがあれば、母という難問を解き続けることができたのに。
この絶望も、その尊さを思えば詩になるのだろうか。
太陽の裏側にあなたがいるなら 月の裏側に僕はいる
でも 大地にあなたがいたら 僕は風になりたい
でも あなたが水なら 僕は火なんだろう
でも 今日もどこかで 二人は生きている
瀕死状態の心。もはや正常とは程遠く、異常そのものだった。考えてみれば当然か、兵器をまともにくらったのだから。
「先生。悲しいとか、苦しいとか、思うことってある?」
「あるわ。」
「……俺は、ないんだよね。」
異常な俺は、いつも通りに過ごしている。痛みは、あの一瞬だけだった。すぐにいつもの無痛状態に戻ったのだ。
「異常だよね。」
「異常とか正常とか、そういうものさしって、当てにならないのよ。自分を責めるのはよしなさい。」
「うん。じゃあ、どうしたらいい?」
「朝日さんは、どうしたいの?」
「何も考えたくない。」
「そうよね。無理に頑張る必要なんてないわ。」
「あんまり優しくしないで。」
「生意気なこと言わないの。」
「生意気なほうが可愛いかと思って。」
「そうね。」
もっと早く、自分の異常さの原因を、突き止めていればよかった。自分に何が起きているのか、調べればよかった。
気がつくと、腕から血を流している。
また気がつくと、足、脇腹、肩と大きな傷が増えている。さらに、首を切られたところで意識が戻った時には、さすがに動揺した。
ゴム製の身体から、赤い液体がただ流れるだけ。まるでゲームの世界、現実世界とは程遠いファンタジーだ。けれど、出血量が多ければ、自分の鼓動が激しく生命活動をしていることを教えてくれた。はじめて、俺の心臓が確かに動いていることを実感した。身体中の傷が、本当は激痛であろうことを想像することは容易かった。この身体は生きている。俺は、生身の人間だ。このままでは、殺される。
犯人は自分だ。
だが、切られた時の記憶が無い。明け方に見た夢を思い出そうとして、それがどうしても叶わないように、思い出すことができない。
部屋中の刃物を引き出しにしまい込んで、鍵をかける。鍵はタンスの奥にしまった。
ダメだった。
今度は家中の刃物を隠し、鍵をペンチで捻じ曲げてから、学校の裏の川に投げ捨てた。
「ねえ、今の話、他の先生にも共有してもいい? 例えば、担任の先生とか、学年主任の先生とか。」
「……何の話?」
「え?」
「今、何の話してたんだよ!」
直前の記憶が無い。俺は自分の身体をざっと確認する。出血している様子はなかった。
肝が冷える。
「先生、あいつが言うことは聴くな!」
考えるよりも先に言葉が出ていた。
「あいつ?」
「俺を殺そうとしてるんだ。」
そうだ、敵は自分だ。
「生きなきゃ。俺がしっかりしなきゃいけないんだ。俺がこの身体を生かさなきゃいけないんだ!」
俺はいったい何をしゃべっているんだろう。
「生きてるんだ。ちゃんと、心臓が動いてるから。」
「朝日さん、ここに座って。」
「なんで?」
「傷の手当てをするわ。化膿してない?」
「は?」
「ここは保健室だから、傷の手当てをするのよ。」
「嫌だ。」
見られてはいけない。
「じゃあ、病院に行く?」
「嫌だ。」
見られてはいけない。
「傷から感染症になったら大変だわ。」
「嫌だ!」
見られてはいけない。
「大丈夫よ。」
「嫌だって言ってるだろうが!」
自分の大声が、内側のエネルギーを解放する合図だった。
「うるせえんだよ! 大丈夫って何?! 勝手なこと言うんじゃねえ! 大丈夫なわけがないだろう! どこ見て言ってんだよ!」
近くにあった本を、先生に向かって投げそうになった。ギリギリのところで床に投げつける。蓄積され続けている死への恐怖が、野性的な攻撃性を刺激していてたまらない。まるで獰猛なトラになっているかのような気分だ。
「それでも生きていくしかないだろうが!」
机を、こぶしで思い切り叩いた。骨が当たる鈍い音がした。そのおかげで、人間であることを思い出せた。このエネルギーを人に向けてはいけない。
「俺は、大丈夫でいなきゃいけないんだ。落ち着け。」
目の奥に集まった血液を、腹の底に戻す。
「朝日さん、担任の先生に……。」
「言うなっ!」
言ったってどうにもならない。あんな奴、生きてる意味なんてろくに知らないんだ。頼ったって仕方がない。生き方なんて教えてくれない。俺が誰であるかなんて知らないんだ。わからないことだらけだ。はじめから期待なんてしていない。どいつもこいつも日本語が通じない!
「でもね、それなら誰に相談を……。」
「うるせえ! 近寄るな!」
頭に血が上る。机の上にあった花瓶を、思い切り窓に投げた。派手な音がして花瓶が砕け散る。怒りもこんなふうにバラバラになってくれたら扱いやすいのに。
ああ、くらくらする。いつかこんな風景を夢で見た。危ない破片だらけだった。寒くて、痛い部屋だった。どこまでがゲンカクで、どこからがゲンジツなんだろう。
もう一度、机にこぶしを叩き下ろす。しびれるような振動が肘の関節まで響く。意識が怒りよりも身体に向くと、衝動が少しおさまっていくように感じた。
「先生、ごめん。走ってくる。」
「……気をつけてね。気が済んだら、戻っていらっしゃい。」
「なんで?」
「絶対、ここに戻ってきなさい。」
「嫌だ。」
「怒らない。何も聞かない。何も言わない。だから、必ずここに戻ってきなさい。」
「嫌だ。」
「私が全部許す。」
「……。」
「朝日さん、私と約束してください。必ずここに戻ってくる、と。」
「……はい。」
「待ってるから。」
たった三年間しか付き合いのない、『よりどころ』だ。しかも、学校という空間でしか効力を持たない『よりどころ』なんだ。
養護教諭なんかに心を許してたまるものかと、踏ん張るしかなかった。
骨が僕を許すから 僕はいつか世界を許すのだ
皮膚が僕を許すから 僕はいつか僕を許すのだ
いつか その日まで
砂漠さえ走り抜けてしまいそうな 生きるための怒りを
オアシスまでたずさえて
七、 恋に落ちた日、すべてを敵に回した
高校生活、二年目。
俺は、保健室登校を継続している。身体に生傷ができることは、ほとんどなくなった。きっと、母親にぶつけられた兵器のせいだったのだ。あの兵器が、俺を内側から蝕んだのだろう。
命に興味のなさそうな担任が、定期的に家庭訪問をしてくる。父親が上辺の対応をするだけで済んでいて、目的や意味があるとは思えない。ぶっちゃけ、成績が良かった。だから、「少し集団が苦手な子」として見逃してもらっているのかもしれない。俺のことを知っている人なんて、誰もいない。
「この本、とてもおすすめよ。」
養護教諭に勧められたのは、中高生向けのセクシュアルマイノリティの本だった。ぱらぱらとめくってみる。ポップな色合いが優しくて、逆に気がめいった。
こんな高校で保健室登校なんてしている生徒は珍しいのだ。俺は、必然的にサボり仲間との親交を深めていた。それが、隣のクラスの「月見(つきみ) 草愛(そうま)」だ。
女子に間違われそうなキラキラネームだが、男子だ。女子と間違えて、だったらどれほど救いがあったかしれない。俺は、サボり仲間の男子に恋をしているのだ。
自分に呆れる。よくこの状況下で、恋なんざできる余裕があったなと。いや、恋とは、余裕があるときにするとかいうものでもないのだろうか。
【解答:解なし】
まさに、恋とはなにか、という問いに対する模範解答だ。近々、数学と和解することができるかもしれない。
「結構、いるのよ。」
「セクマイが、クラスに二人も三人もいるわけないだろ。」
「わざわざ言わないだけよ。朝日さんと同じようにね。先生の友達に、ゲイやレズビアンがたくさんいるわ。カミングアウトしてる人もいるけど、隠してる人も多い。」
「へぇ。何人?」
「数えきれない。」
「数えてよ。」
「……そうね。真面目に考えて、五十人くらいかしら。」
「嘘つくなよ。」
「もっと多いかもしれないわ。」
「嘘だろ。」
「私は、嘘なんかつきたくない。人生って、本当のことほど信じてもらえないものなのよ。」
「ふうん。ていうか、この本、あんまり参考にならない。」
「……そう?」
「俺はさ、LGBTで悩んでるわけじゃないんだ。セクシュアリティと、家族と、社会と、恋愛。人生に悩んでるんだ。」
「やけに素直ね。」
「そんな日もあるよ。」
「先生が学生の頃は、そういう本も珍しかった。本があったとしても、手に取って読めるような勇気は、なかったわ。」
「ふうん。」
「あなたも、時代を動かす一員よ。先生はね、朝日さんの生き方、とても好き。」
「あっそ。先生にも素直な日があるんだね。」
「感化されてしまったわ。」
「死にてぇ。」
「生きなさい。」
チャイムが鳴る。
「一時間目は体育ね。走ってらっしゃいな。」
「……本当は、ちょっと参考になった。」
「そう。よかった。」
「いろんな事がさ、時代と一緒に、動いていけばいいのにね。」
「信じる気持ちを、希望と呼ぶのよ。」
「ふうん。」
*
「大丈夫?」
ランニングコースの折り返し地点になっている公園。ぼーっとベンチで休んでいた時に声をかけてきたやつがいた。それが、ツヅミとの出会い。
「誰?」
見慣れない制服を着ている。
「え? ひどいなー。ツヅミだよ。」
「……誰?」
「生一君だよね?」
「は?」
なぜ、俺の名前を知っている。
「紫陽って呼んだほうがいい?」
「……は?」
なぜ、俺だけの名前を知っている。
「ちょっと、本当に覚えてないの? こないだもここで会ったよ?」
ああ、そういうことか。俺に記憶が無いのだ。
「そうだっけ。」
適当に話を合わせるのも面倒だ。
「まーいいや。こんな時間にジャージでどうしたのさ。」
月曜日、午前十時。
「体育の授業を抜け出してきた。」
「ふーん。」
「お前こそ、制服でこんなところほっつき歩いてていいのかよ。」
「ひなたぼっこでーす。」
なんだか、気が抜ける奴だ。
「いやー、絵本みたいにいい天気だね。詩人はこの空をどんな言葉にするのかな。」
「この空を踊ったら、愛する彼の胸に美しい音を届けられよう。」
「……なんかの詩?」
「即興。」
「詩人だー。」
なぜ、俺は口に出してしまったんだろう。
「前に会ったときも思ったけど、紫陽と話してると、日本に生まれてよかったと思うよ。小説とかは書かないの?」
なんだ、こいつは武器を持っていないのか。
「……詩と小説は別物だ。でも、そうだな、自分が主人公の小説を書いたら、……。設定盛り過ぎで、却下されると思う。」
「俺は却下しないよ!」
「お前は友達じゃない。」
「えっ?! なんで?!」
「お前は俺の何を知ってるんだよ。」
「例えば、紫陽の恋心とか。」
「地雷を踏まれて笑えるほど、お人よしじゃないから、俺。」
無駄話をするところだった。保健室に戻ろう。
「身体の傷は? 最近は大丈夫?」
「は?」
「どうせ、記憶も抜けてるんだろ?」
「……。」
「まー、最近はだいぶマシになったって言ってたよな。」
「おい。」
「そんな怖い顔しないで。本当に、俺、紫陽のこと知ってるから。」
「……誰から聞いた?」
気が変わった。今日は、サボろう。
「紫陽から聞いたと思ったんだけど、覚えてないなら違うのかなー?」
「あいつか。」
不毛な会話だ。
「紫陽、せっかくだからもう一度友達になろうか。」
「変な奴。」
「紫陽に言われたくねーよ!」
「その通りだ。」
「認めるんだな。」
「お前、日本語がわかるんだな。」
「は?」
「なんで日本語が通じるんだ?」
「ここは日本だぜ?」
「そうだよな。……もう一回、名前教えて。」
「ツヅミ。」
「変な名前。」
「だから、紫陽に言われたくねーってば!」
たんぽぽが咲いていた。
幼児と若い母親ばかりの公園で、俺たちの存在は浮いていた。砂場で穴を掘ることに、どんな楽しみを感じていたんだろう。もう一度やって確かめてみることは可能だろうか。
「で、どうよ?」
「何が?」
「何がって、月見君!」
「え。」
「月見草愛! 今朝は会えた?」
「……いや。あいつは、ほとんど不登校。たまに保健室に来るだけ。」
「フラッと来るかもしれないじゃん、戻らなくていいのか?」
「月曜日は絶対来ない。」
「ふーん。」
「……キモくねぇの?」
「何が?」
「同性愛とか。漫画みたいな名前とか。」
「なんでキモいの?」
「先入観。」
「なんだよ、自分でわかってんじゃん。頭良いくせに、どうして俺を使ってわざわざ確認するんだよ。」
「草愛にも先入観はある。」
「そうだろうな。」
「だから悩んでんだよ。」
「まあ、同性愛でも異性愛でも、恋愛に悩みはつきものだよ。」
「そういうことだな。」
この空を踊ったら 愛する彼の胸に美しい音を届けられよう
宵闇に咲く花と並べたら きっと双方の輝きが際立つ
隣にあれば より美しい それが恋
*
「詩って、キレイゴトかもな。いや、願望?」
「ん? なんて?」
保健室のソファに寝転がっている。机に向かっていた草愛が、俺の独り言に振り返った。
「独り言だ、聴かなくていい。」
彼に届くように、声量を調節して言い返す。
「えー、生一君が冷たーい。」
「平熱高めだっつーの。」
「せんせー、飽きたー。」
「無視かよ。」
「無視してなーい。聴こえないだけですー。」
「聴こえてんじゃねぇか。」
「はいはい、二人とも、あと二十分だから、頑張って。」
「俺はノルマ終わった。」
「じゃあ朝日さんは静かにしていてあげなさい。」
俺は再びソファに寝転ぶ。草愛は机に向き直った。
保健室登校生徒への、今日の課題。音楽鑑賞とそれに対する感想文だ。
「なー、生一の感想文見せて。」
「なんで?」
「生一にはどんなふうに聴こえていたのかなって。あと、単純に、生一の言葉がわかりやすくて、好きなんだ。」
「あっそ。」
四つ折りにしてポケットに入れていたレポート用紙を取り出す。
「ほらよ。」
「サンクス。……相変わらず、書き出しから最高だな。これで国語できねーとか嘘だろ。」
「国語は芸術じゃねぇんだよ。お前は絵を描けるからいいよな。美術でちゃんと点数になるんだろ?」
「ごめん、目が合ってないときにしゃべらないで。」
「こっち向けよ。読めない漢字があったら聴け。常用外があるかもしれない。」
「音楽が聴こえてきそうな言葉だ。」
「あっそ。」
「二人とも、先生ちょっと職員室行ってくるから、月見さんは早く課題やっちゃいなさい。」
「なー、生一。」
「何?」
「お前さ、修学旅行どうする?」
「こら、月見さん。」
「行くわけねぇだろ。」
「じゃー、二人で修学旅行しよー?」
「……は?」
「なんか楽しいことしよーよー。」
「月見さん、まず課題をしなさい。」
「はーい。」
*
放課後、偶然ツヅミに会った。それはもう、ドラマのように。信号待ちをしている道路のあっちとこっちで、目が合ったのだ。
「ツヅミ!」
「紫陽!」
横断歩道の真ん中で、咄嗟に声をかけた。
「相談があるんだ。」
「えっ? 何、どうした?」
「……。」
「……行こ、紫陽。」
「時間大丈夫か?」
「うん。」
ツヅミに連れられて来たのは、アパートの一室。あからさまにならないように、部屋を見回した。すぐに見回せるほどの広さだった。
「座ってて。」
「あ、うん。」
畳に座布団。なんとなく、母親の実家の匂いを思い出した。
ツヅミがココアを運んでくる。
「サンクス。」
「で、どうした?」
マグカップを両手で包んで、心を落ち着かせる。でも、指先が冷たく、痺れていた。
「紫陽、丹田で深呼吸だ。」
「丹田?」
「そう、ここ。臍と尾てい骨を結んだちょうど中心あたり。」
言われるがままに丹田の場所を探る。
深呼吸をする。
なるほど、落ち着く。
「胸で深呼吸すると逆に苦しくなるときがあるからな。」
「すげぇ楽になったわ。ありがとう。」
「どーいたしまして。」
ココアに口をつけて、足を崩す。
「ツヅミ、修学旅行って、どこ行く?」
「どこだろう? 紫陽は?」
「沖縄。」
「えーいいなー。」
「行かないけどな。」
「え、行かないの?」
「ここからが本題だ。」
「ど、どうした?」
俺は、草愛に誘われたことを話す。
「どう思う?」
「喜べよ。」
「一緒に温泉なんて入れない。」
「色気の話?」
「それもあるけど違う! ツヅミがどこまで知ってるのか覚えてないけど、俺、身体中に傷があるんだ。」
「あ。」
「……詰んだ。」
「待て、考えよう。どうしたらいいか、一応考えてみよう。」
「俺だって、一応考えた。」
「別々にシャワー浴びればいいじゃん。」
「温泉で?」
「んー、なんつーか、のぼせやすいんだとか何とか言って。」
「別々に風呂入る理由にはならないだろう。」
「じゃあ、俺は部屋風呂でいいから、お前は露天風呂行って来いよ! みたいな?」
「もっとマシな意見くれ。」
「んー、そうだなー。いっそ、諦めて一緒に入っちゃえば?」
「……俺さ、自分の身体をあんまり見ないようにしてるんだ。」
「傷、そんなに酷いの?」
「生傷はもう全然ないけど、傷跡が……。俺、この身体嫌いなんだ。」
「うん。」
「心臓の上にケロイドがあったら引くだろ?」
「……。」
「産まれた頃の身体が欲しい。」
黙ってしまったツヅミ。俺はなんだか傷ついた。
「知らなかったよ。傷跡って、こんなに消えないんだって。」
*
俺は、丹田で深呼吸をして、話し出した。
「日帰りでも、いいか?」
目を合わせることができなかった。でも、ちゃんと伝えなければと、意を決して顔を上げる。
「暗い顔で何を言い出すかと思えば、そんなことかよ。」
「え?」
「心配したじゃん。別に日帰りでもいーよ?」
草愛は、俺の声を正確に受け取ったように笑っていた。
「……いいのか?」
「むしろなんで駄目だと思った?」
論理的な思考が、今更冷静に確率を分析した。数学に草愛の人間性を含めて答えを導いたなら、この問題はもっと気楽に解けていた。どうして俺は、駄目だと思い込んだんだろう。
「……草愛。ネガティヴ過ぎると馬鹿になるみたいだ。」
「そうみたいだな、秀才。」
「馬鹿になると、死にたくなるんだ。」
「生きろ。」
「理由とか聞かないのか?」
「聴いてほしいなら聴くけど?」
「……聴かなくていいです。」
「ほんと馬鹿だな、秀才。」
俺は最近、日本語が通じることに重ねて、心が通じることに喜びを感じている。好きだというこの気持ちや、傷だらけの身体さえ、いつか伝えてしまいそうな予感がする。
ああ、クッソ死にてぇ。
「海に行きたい。」
「俺は泳がねぇぞ。」
*
結局、水族館へ行くことになった。だが、電車から降りると、俺たちの足が海岸に向かって歩き出したので、少し風に吹かれている。潮の香りが鼻から喉の奥へと流れて、背骨を伝って流れていく。
「気持ちいいな。いい香りだ。」
「あははっ。生一でもそういうこと言うんだ。」
「え?」
「いや、匂いとかに鈍そうだと思ってたから。」
「……うん、全然わからない。この香りが、実は潮の香りじゃなかったらどうしよう。脳がでたらめにつくり出す妄想だったら、どうしよう。」
「おい、自分の嗅覚くらい信頼しろよ。」
「何を根拠に、これが現実だと、真実だと言えるんだ?」
「生一は、いったい何を疑ってるんだ?」
「さぁね。」
砂浜を目指して、なんとなく歩く。
「草愛、こんなところに桔梗が咲いてる。」
「シーズンオフだな。人が少なくて気楽だ。」
水平線を見つめている草愛の肩をたたく。
「ん?」
「桔梗が咲いてる。これって海辺に咲く花か?」
「そーかもな。花が好きなの?」
「え、別に。」
ただ、その色に魅かれただけだ。
桔梗のそばにしゃがんだ草愛。その向こう側で、波が轟いている。身体の奥へじかに響いてくる音だ。
海が、生きている。
こんな音なら、草愛にも聴こえるんだろうか。
裸足になって、波打ち際へ歩む。
「聴こえるか?」
「聴こえる。」
「波の音が? それとも俺の声が?」
「全部。」
「嘘つくなよ。」
「いや、嘘っていうか、なんていうか。……生一はゆっくり話してくれるだろ。」
「ゆっくりしゃべれば日本語が通じるなら、ゆっくりしゃべるよ。」
「必死に聴かなくてもいっか、と思ったら、感情が聴こえる気がした。」
「……その機能、つらくねぇ?」
「え?」
「人の感情がわかったら、つらくねぇ?」
「今は大丈夫だよ。」
「ふうん。」
波が、俺たちの足を濡らした。
「冷たい。」
「生一って、鈍感なのか敏感なのか、どっちなんだ?」
「知らねぇよ。」
鈍感だと思う。痛みがわからない時点で、どう考えても鈍感だ。だったら、恋心なんかも感じなくていいのに。
『好き』という気持ちは、痛みに似ているのかもしれない。
「草愛、好きだよ。」
「月?」
「違う、好き。花が好き。」
「なんで急に素直になったの?」
花に似た声だと思った。
「そーだ、修学旅行なんだから、勉強しようぜ。生一、桔梗の花言葉は?」
「知らねぇ。……月見草は?」
「『無言の愛』。生一は、どの花なら知ってる?」
「花言葉なんて、……あ、杏は『臆病な愛』だ。」
「何そのマイナーな花のチョイス。」
「マイナーとか杏に失礼だろ。」
「アプリコットって、杏だっけ?」
「そうだな。」
「俺、食ったことねーなー。」
「食ってみるか。」
スーパーでドライアプリコットを買って、水族館に向かった。
この海を踊ったら 愛する彼の胸に美しい音を届けられよう
波の揺らぎは命のリズム
海原は僕らに呼応する 僕らは風に呼応する
君に呼応する僕は 恋をしている
「生一。聞こえる世界って、どんな?」
魚の群れを見ながら、目を合わさずに話すものだから、俺は草愛の正面に回り込んで立ち止まる。水槽の前で、人目もはばからず両手と両足を大きく広げて立つ。
「こんなだよ。」
「あはははっ! わかんねーよ!」
「じゃあ、俺も知りたいんだけど、お前が聴いてる世界って、どんな?」
草愛は、おずおずと、俺と同じように身体を大きく広げて立った。
「こんな感じ。」
「わかんねぇよ。」
「全然わかんねーな。」
「うん。」
「生一、イルカを見に行こう!」
「うん。」
「……館内放送があったら、何言ってるのか教えて。」
「うん。」
「嫌じゃなかったら、車道側を歩いて。」
「わかった。」
「ありがとう。」
「草愛、疲れたら言って。」
「うん。」
「わからなかったときは、わかったフリしないで。」
「わかった。」
草愛の瞳に、魚の光が映り込んでいる。だから、きっと満天の星空のような世界なのかもしれない。
「生一。」
「なに?」
「映画ごっこしよう。」
「は?」
「もし、地震とか災害があったら、俺を置いて逃げてください。」
「馬鹿なの? ちょっと笑える。地震だらけの日本だからこそ引き立つセリフだな。」
笑わないと、この儚い言葉の痛みがじわじわきてしまいそうだった。
「ノリ悪いんですけどー。ちょっと映画みたいなことを言ってみたかっただけなのにー。」
「お前を置いて逃げるなんてこと、絶対にしない。約束する。」
「え? 続けんの?」
「え?」
「生一は、自分の命を大切にしてください。……それで、可能な限り、俺を助けてください。」
「はい。カット。オーケーです。」
「いいシーンをぶった切るなよ。きっとこの辺で感動的な音楽が流れはじめるんだ。どんな音楽か知らないけど。」
「アングルを変えよう。こっちに立って。」
なんて言えばいいんだろうか。役作りをするように静かに深呼吸をした。彼と向き合い、光り輝く一番星に祈る。
「あなたがくれた淡い灯を分かち合うために、あなた自身も同じ言葉を受け取ってください。」
「……ハイ、カット!」
「おい、ぶった切るなよ。」
「急に詩人モードになるなよ、びっくりするじゃん。」
「詩人モード?」
「生一って、二重人格だよな。」
「そうだよ。」
「お前の言葉は、人の心を揺さぶりすぎる。ちょっと泣きそうだから、トイレ行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」
「あ、ついでにもうひとつ言っておく。停電とか暗闇はお前の百倍くらい怖いから。よろしく。」
映画俳優の背中を見送りながら、憂う。
「……本当のことほど信じてもらえない、か。先生の言う通りかもな。」
それとも、聴いてなかったか。
目を閉じて、耳をふさいでみる。だけど、彼の恐怖を再現することは難しい。
きっと、内側から殺される恐怖が彼にはわからないのと同じように。
八、 彼のいない世界で生きている意味なんてない
卒業式の後、告白をした。
「なにそれ。ヤりてーの?」
世界が色を失くした。もはやモノクロだ。
「え、ごめん。本気なのか?」
俺の空気が豹変したのを察したのだろう。だが、もう遅い。草愛に背を向けて走った。焦ったような彼の声が、微かに聴こえた。
「待って! ごめん! 友達だと思ってたから!」
美しい本音が聴こえた。美しい本音すら、凶器となってこの心を切り裂く。俺はどうやって生きたらいいのだろう。
こんな思いをするくらいなら、死んでいればよかったんだろうか。
草愛に助けてほしかったわけではない。草愛を助けたかったわけでもない。この気持ちが同情なのか、それとも本当に恋なのかなんて、嫌というほどに悩みつくした。それでも、何度考えても答えが同じだったんだ。【これは恋ではない】という仮説の証明を試みようとすればするほど、【これは恋である】という確認にしかならなかった。
もう解放してくれ。
生きることから、解放してくれ。
*
数日後、草愛から連絡があった。会いたいと。
彼は、俺に対して恋愛感情は無いが大切な人だと思っている、と丁寧に言った。
俺は、ありがとうと言った。丹田で深呼吸をしていた。
この空を唄っても 愛する彼の耳には届かない
宵闇に咲く花は きっと太陽の輝きを求めない
離れていても 凛と美しい命
恋の忘れ方を 思い出せたら
「紫陽くーん、ずいぶん感傷的だな。」
引っ越しをしたばかりで片付いてない部屋。ツヅミと一緒にココアを飲む。
「泣いたっていいと思うよ。」
「笑ったらどうにかなるかな。」
「笑ってみる?」
「……無理だな。」
「そっか。」
「さっき、この近所でクソみたいな標語を見たよ。【ポイ捨ては 心を捨てると 同じこと】だってさ。ポイ捨てで心を捨てられるなら、どれだけいいか。」
「失恋って、みんなどうやって乗り越えてるんだろうねー。」
「さぁね。」
「……しっかし便利なところに引越したな。」
「職場が、配属先が七月にならないとわからないから。」
「なんで?」
「三ヵ月間は本社で研修だ。」
「……大丈夫?」
「信じる気持ちを、希望と呼ぶそうだよ。」
「無理すんなよ?」
「無理しないと生きていられないよ。」
「秀才らしくない生き方だな。」
「解なしの矛盾を生き抜くのは、難しいことなんだよ。かといって、馬鹿になれば死ぬほどネガティヴになる。……四面楚歌とはこのことか?」
「独りで悩むなよな。」
「これからもよろしく。今までもサンクス。」
四年後、冒頭に至る。
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