長編小説 『桜花爛漫・下』
第四章 アキラ
九、毎日が人生最後の日でいい
初めて見た景色は、コスモスだった。
「ずいぶんと早く咲いているじゃないか。」
季節を間違えている。まだ梅雨が明けたばかりだ。かくいう僕は、自分自身が咲く時期なんてわからないんだけど。
世界が植物であふれている。視界に濃度があるとしたら、植物だけ異様に濃く映るのかもしれない。前世は蝶や蜂だったんだろう。
さて、どうにも自分の名前にしづらい花を前に、頭をひねる。
「コスモス、コスモ……。宇宙じゃあるまいし。」
どちらかといえば、現状はカオスだ。
「秋桜か。アキザクラ。……アキラ。」
月見草という植物そのものの名前をした彼を思い出す。草愛は、今、どこで、何をしているんだろうか。
「僕は自分で名前を付けられるんだけど、なかなか虚しいもんだな。」
紫陽は、記憶が飛んでしまうタイプの人格だ。僕は、どうやら違うみたいだ。六花や紫陽の記憶を、リアルタイムで知ることができていた。テレビを観ているような感覚だった。そのため、自分のプロフィールを確認せずとも、自分が人生に疲れ果てた二十二歳の朝日生一であることを理解している。
「この声帯も、なかなか使い慣れないな。」
自分で言っておきながら、とんでもなく珍妙なセリフだった。これが俗にいう「身体を使う」ということか。初めて自分の足で立つ感覚は、なんとも不思議なものだ。僕は、時折仕事をする程度の交代人格だった。名無しなりに、役割を果たしてきていたのだ。主に、紫陽が苦手な社交辞令を含む人間関係で、適当な会話を捏造した。ストレスが溜まって事務作業がおろそかになっているときには、淡々と作業を進めた。明け方に悪夢を見て起きた日には、意識を眠りに落とす、なんてこともしていた。記憶が飛んでしまう紫陽を混乱させないために、僕の行動はたいていの場合、特殊だった。口だけを動かしたり、手だけを動かすということが可能だったのだ。紫陽には、上の空のような違和感があったようだ。
しかし、今は全身が僕自身。こんなことは、初めてだ。
「雨が降りそうだ。」
初めて見上げる空は、あまりにも重たい灰色だった。眼球を己の意のままに動かせるということが新鮮で、しばらく眺めていた。
心臓が動いている。血液が流れている。足が地面を踏みしめている。掌に汗をかいている。呼吸をしている。土の香りがする。風の音が聴こえる。
「紫陽は何故、こんなに美しい世界で、絶望しているんだろう。」
いったい、どうしたというのだ。
「とりあえず、家に帰ろうか。」
声帯を使いたくて、意味もなく独り言を続けてしまう。ほら、歯が生え始めた時に、むずがゆくて何かを噛みたくなるのだろう? アレと同じような理屈だと思うんだ。声帯がむずがゆくて、どうしても声を出したい。眼球についてもそうだ。この目でしかと見るという体験は、この世に生まれた時の感動に匹敵する。ひっきりなしにキョロキョロあたりを見回してしまう。けれど、これ以上の独り言や目の機能を楽しむ様子は、さすがに奇異に思われるだろう。
歩き出す。そのとき、グラリと世界が揺れた。次の瞬間、一切の手応えを失った。生きている手応えを、一切失った。死んだのかと思うほど。
ユラリ、ユラリ、ユラリ。地面に対する信頼を失った。僕は、突っ立ったまま歩くことができない。いつこの地面が無くなってしまうのかわからない。そう思うと、立っていることすら恐ろしい。生きていることに対する信頼を失った僕は、自分の鼓動を探した。それはすぐに見つかった。だが、体内で響く自分の鼓動が幻想だったらどうしよう。愕然とする。この思考がまったく理にかなわないものだと気づくことができない。
呼吸をすると、背中が鈍く痛んだ。痛みが、だんだんと大きくなる。息ができないほど。背骨が痛くて、息ができない。
「……こういうことか。」
唐突に悟った。痛みを感じないように、紫陽は痛覚を切り離したのだ。いや、五感すべて、世界そのものを切り離したのだ。
「これは、絶望する。」
くらり、くらり、くらり。生憎、僕はこの身体を助けるための救世主ではない。残念だが、記憶と適当さが取り柄の交代人格にすぎない。だから、痛みと世界の美しさを天秤にかけることすらしなかった。瞬時に美しさを切り捨てた。紫陽と同じように、痛覚と五感を手放した。この世界の絶望を、受け入れた。
「美しいものは遠くから眺めるに限る。」
薔薇には棘がある。触れようとすれば血が出る。
「まぁ、いいや。」
呼吸ができないほどの痛みに耐え続けるのは、無理だ。それこそ、死んでしまう。
「僕を責めるなら、この痛みを味わってからにしてくれ。」
誰にともなく言った。
「このコスモスが、幻覚だったらどうしよう。」
色褪せた世界を眺めても、愛おしくもなんともない。
「本当は何も存在しないのだとしたら、どうしよう。」
自分自身が、愛おしくもなんともない。
「誰か代わってくれ。」
すでに、六花の代わりに紫陽が、紫陽の代わりに僕が背負った。それでもなお、この人生から逃れたいと思った。僕は、きっとまともな人間ではない。
「まともでは、生きていられない。ならば、いっそ死のうか。」
どういうわけか、笑いがこみ上げた。
「何もないなら、死ぬことも意味はないか。」
生も、死も、無い。
「では、どうして意識はここにあるのだろう。」
あぁ、そうか、本当は豊かな世界に生きているからだ。
「僕は、普通の人を装うデータか何か。いいや、これが紫陽の言っていた社会人人形ということか。」
なぜ、死んだように生きなければならないのだろう。
「……花になりたい。」
けれど、「お前は人間だ」と突き放される。
することもなく、家に帰った。ノートが散らかったままの机、割れたマグカップ。埃っぽい床、衣類の山、ゴミ袋の山。空の冷蔵庫、あふれている洗濯機。
梅雨の時期から、紫陽の様子がおかしいことは把握していた。だが、自分が主体となってみて、ようやく事の重大さに気づいた。これが、他人事と当事者の認識の差なのだろう。僕たちの生活は、だいぶ前から大丈夫ではなくなっていたようだ。見慣れた自室を見回して、今更ながら痛感する。これでよく、職場でほころびを出さなかったものだ。いいや、所長には見抜かれていただろうか。カバンから、星、太陽、月の煎餅が出てきた。食べても、味がしない。それはそうだ、五感を手放したのだから。でも、これはおいしく食べたかった。残念だ。
ため息をついて、もう一度部屋を眺める。魔法が使えたら、一つの呪文でこの部屋は片づくのだろう。散らかった机に手をかざしてみる。できないとわかっているのだから、無駄だった。
紫陽は生命維持活動すらままならないほど、疲労困憊だったのだ。身体を切り刻まれるんじゃないかと六花に怯え、脆い愛情を支えに仕事をこなし、最近はよく悪夢にうなされていた。よく頑張ったと思う。
僕は、とりあえずゴミを出した。スーパーに行き、掃除機をかけた。コインランドリーにも行った。許容範囲内の生活空間を取り戻せた頃には、明け方の五時だった。
「嘘だろ。」
時間の感覚がおかしい。疲労感も無い。おかしい。完全にハイだ。今日は、朝一番で会議がある。紫陽は大丈夫なんだろうか。
「紫陽、仕事しろよ。」
わかっている。正気の沙汰じゃない。
「僕は、満員電車になんて乗らないぞ。紫陽、仕事に行けよ。」
そこそこ良い給料と、やりがいのある仕事。この平凡な生活を手放すわけにはいかない。生活するには金が要る。家事を楽にこなすにはもっと金が要る。普通に生活をしたい。普通に仕事をしたい。常識の流れの中にいなければならない。自力で生きていかねばならない。
僕が自力で?
違う。僕は人生の傍観者だ。人生なんて、他人事で充分だ。遠くから眺めているくらいが、ちょうどいい。人生のすべてを背負うのは、御免だ。
「紫陽、生きろ。」
自分という他人に向かって話す。この滑稽な独り言を聴いてくれる人はいない。
僕は、何事もなかったかのように出勤した。だが、気が遠くなるような眩暈に、何度もふらついた。すでに現実感など無くなっていたというのに、さらに世界が遠くなった。ここにいるという実感を失った僕は、身体の扱いに苦労した。自分の手がどうなっているのか、足がどうなっているのか、ほとんどわからなかった。
書類にサインをしようとして、自分の名前を思い出せなかった。手が覚えていたおかげで、意思とは関係なく書けた。もしかすると、紫陽はいつもこんなふうにして仕事をしていたのかもしれない。会う人、会う人、名前を思い出すことができない。それなのに、口は勝手に動いてしゃべった。所長と目を合わせることは、できなかった。
家に帰ると、玄関で足が動かなくなった。夥しい量の負の感情が、全身を駆け巡った。血液に混ざって身体中を流れていくそれは、冷たいヘドロのようだ。腕が身体を支えきれずに、床に倒れこむ。涙がとめどなくあふれてくる。
僕は急いで身体から意識を離した。自分自身を上から俯瞰する。「軽度の幽体離脱」とでもいえば理解してもらえるだろうか。
そういえば、四月に異動してからは、ずいぶん頻繁に、このフラッシュバックに見舞われていた。
今、誰もこの苦しみを感じていない状況で、身体が症状を発している意味はあるだろうか。自分の身体を見下ろしながら、哀れに思う。
およそ十分間で、それはおさまった。まだしびれて痙攣している身体をのろのろと動かし、這いつくばるようにしてベッドに移動する。
《もうやめてくれ》
うざったい。僕だって疲れている。動けない奴は黙っていてほしい。
《これ以上は無理だ》
代わりに仕事をしてやったというのに。満員電車に乗ってやったというのに。家事も全部やってやったというのに。
《もう無理だよ》
生きることを放棄したのは紫陽だろう。だから僕が、この身体を動かして、生活する羽目になった。人生なんて眺めているだけでよかったのに。紫陽のせいで、僕が毎日の営みをしなければならなくなった。それでも、こうして生きてやってるじゃないか!
《死んでもいいのか》
「死にたいなら、ちゃんと死ねよ。クソが。」
明日も会議がある。だから、食事をして、洗濯をして、睡眠をとらなければならない。邪魔をしないでほしい。
《もう限界だ》
「僕が代わりに、ちゃんと生きてやってるじゃないか。」
《痛い》
「僕は痛くない。何もしないくせに、文句を言うな。社会生活から逃げた紫陽が、口出しするな!」
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