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小説・うちの犬のきもち(9)・もしも・・・

きょうはひとりでお留守番。
天気が良いから、土手の方に散歩に行ってみることにする。
家の鍵をかけて、元気よく土手に向かう。横断歩道をてくてく歩く。
「あら、しーちゃん、こんにちは」山田さんちの前を通るとき、ちょうど庭の手入れをしていた山田さんに声をかけられた。
「あ、こんにちは。良い天気ですね」窓の内側に山田さんちの柴犬さんとチワワさんがいて、ふたりともスッと起き上がり姿勢を正した。
「ほんとねぇ。晴れて良かったわ。今日はひとりなの?」
「はい」
「そう、じゃあ気をつけて、お母様によろしくね」
「ありがとうございます」
 柴犬さんとチワワさんは今にも怒り出しそうだった。

土手の菜の花は遠くから見ると黄色い絨毯みたいだ。
ウグイスが、鳴く練習をしている。ぴぃーろろろろろ、けきょけきょ。ぴぃーろろろろ。

土手から住宅街へ降りて、てくてく歩く。

ハル君の家の前を通ったら、ハル君は定位置の窓際の犬用ベッドの上で、外を眺めていた。ちょっと眠そうだ。
・・・ワン。
ぼくに気付いて、顔をあげた。
「・・・寄っていけば?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあおじゃまします」足のよごれをふいて、家にあがらせてもらった。
ハル君もひとりでお留守番の日だった。
「紅茶で良い?」
「ありがとう」

ハル君は紅茶が好きだ。ポットで紅茶を蒸らしている間、棚をごそごそとして、クッキーの箱を取り出して、お皿にならべてくれた。「いただきものだけどね。どうぞ」紅茶はマグカップに注がれた。

ぼくたちは向かいあって座って、ハル君の部屋から外を眺めた。
「すっかり春だよね」ぼくはしみじみ言う。
「・・・うん」
話はとくに弾まないけれど、日当たりの良いハル君の部屋はとても居心地が良い。
「ハル君は好きな季節は何? ぼくはやっぱり春かな」
「・・・う・・・ん、でも、春ってムズムズして、落ち着かなくて不安になるな」
「あーそう言われれば、ムズムズするかも」
「・・・うん」

「いただきます」ぼくは紅茶とクッキーをいただいた。「んー。とっても、おいしい!」
ハル君は、紅茶にもクッキーにも手を出さない。
何か悩みがあるのかと思って、ぼくは待っていた。ハル君の家はきちんと掃除がいきとどいていて、とても気持ちがよく、あたたかいし、少し眠くなるくらいだ。失礼だけど、もし寝たらとっても幸せだろうな、と思うような心地よさだった。
「ぽかぽかで、気持ちいいねぇ」

「・・・紅茶があって」掠れた声でハル君は話し始めた。
「うん」
「・・・紅茶があって、クッキーがあって、暖かい部屋があって、幸せに過ごしているのを・・・」とっても深刻な顔をしていた。「いや、やめておこう」顔色も悪い。
「どうしたの? 話してみて」
「・・・本で読んだんだ」
「何を?」
「本だけじゃない。ニュースでも新聞にも書いてある」ハル君は急に早口になったけど声は震えていた。
「・・・」
「誰かの幸せをぶち壊すのを楽しむ輩がいる。紅茶のカップもクッキーの皿も床に落として、踏みつける。粉々になるまで。そこの犬用ベッドを切り裂いて、ナイフでグサグサ刺して使い物にならないようにして、窓ガラスを割って、部屋のものを順番に破壊していくんだ。やめてと言っても聞くわけない。そいつらの言うことには、その誰か、あるいは、家族が、皇帝の言うことに逆らって、自分勝手に振る舞おうとしたから、財産も自由もあらゆる権利を奪われて当然なのだ。破壊行動は、家中の食べ物をダメにし、庭や畑の作物も根こそぎ持っていく。それから、外出禁止にして、食料が手に入らないようにして、その家の住民を飢えさせるんだ。外出するところを見つかれば即、連行されて拷問か、そいつが面倒くさがりなら、すぐに銃殺か」
「・・・ハル君? 何の話?」ぼくはとっても怖くなってきた。
「決まっているじゃないか、人間だよ」
「・・・・・・」ぼくは言葉が出なかったし、じっさい何と言ってよいか分からなかった。
「そういう残虐な行為をするのは、みんな人間なんだ。人間の恐ろしいところだよ。誰かを攻撃することを正当化し、楽しむんだ」
ぼくはなんだか具合が悪くなってぶるぶる震えてきた。
「ぼくはどうしたらいいんだろう?」
「そうなったら、なにもできないよ。きみの家族もきみ自身を守ることもできないよ」
ぼくは涙がでてきた。
「そんなことない!」ってそんなことがあるからハル君は言っているんだ。ぼくはそんなことあっちゃいけない、と言いたいのに、上手く言えず、かろうじて小さな声で、キューンと鳴いた。

大きな手がぼくの背中にふれてぼくを揺すった。
・・・・・・ちゃん
・・・・・・ちゃん
・・・・・・ぃちゃん
・・・・・・の?
・・・・・・なされてる?
・・・そうに。
・・・ぶだよ。
し・い・ちゃん。
だいじょうぶだよ、しーちゃん。

目をあけて飛び込んできたのは、パパンとママンの心配そうな、優しい、安心してよいという顔が見えた。
「悪い夢みたの?」
「こわかったね」
「おりこうちゃんだね」
「え、何が」
「なんでも! おりこうちゃんでしょ」
「かわいいね」
「かわいいけど」
パパンとママンはぼくなでながら、くすくす笑い合っている。
ぼくはお腹を見せた。ママンがお腹をなでてくれた。パパンが頭を撫でてくれた。
ーくしゅっ。
くしゃみもしてみた。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ?」
パパンとママンが笑顔でなでてくれる。いつものパパンとママンの寝室だ。ハル君はいないし、紅茶もクッキーもそれを壊す人間もいない。
パパンの顔にジャンプして鼻をなめた。
「本気で目がさめちゃったかな?」
「まだ寝る時間だよ」ママンが言う。今度はママンの膝に乗る。ママンが優しく撫でてくれる。

「あれ、これなに? 菜の花かな?」ぼくを撫でるママンが言う。そっとぼくの顔を見つめてくる。「あれ、口元にも、何のおやつくっつけてるの?」


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