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文蔵組で落語に文句

(※2920文字)

2024年2/2(金)〜2/4(日)

渋谷ユーロスペースにおいて、文蔵組大落語会が開催された。

この方が橘家文蔵師匠です。

後援会名は「文蔵組」
後援会員は構成員と称する

私は2/3(土)の一部、二部、三部と終日参戦。
2/4(日)は第一部のみ参戦。

さて。

2/3(土)の第一部。
テーマは〝めんどくさい侍の噺!〟

有り得ないヘビイな落語会である。
朝イチで「柳田格之進」を聞かされるのだ。
いや、聴かせていただくのだ。
演者は隅田川馬石。

ちょっとこれを聞いて思いつくことがあった。

なので、文蔵組大落語会の感想はおっぽり出して書いてみる。

柳田格之進

まずは「柳田格之進」という落語のあらすじから。

主人公は堅物過ぎてお城勤めを追ん出された長屋暮らしの浪人、柳田格之進である。

柳田は娘と二人暮らしである。

娘の名前は落語家によって異なる。
「井戸の茶碗」でも同じく。
まあ昔から女の名前は残してもらえなかったから。
藤原某の娘……とかね。落語も同じさね。落語家が勝手に名付ける。

柳田は、商家の旦那と碁友達になって屋敷に通うようになる。

そこで五十両の金が紛失して、貧乏浪人の柳田が疑われる。

身の潔白を証明するために柳田は、娘を吉原に売って五十両を工面して商家に返す。

お城(松本城)

ここがまず現代感覚ではわからないとこだけど。

盗んでないなら返すこたねーだろ!!

と思うけど。
とにかく、めんどうくさい侍の柳田はそうするのだ。

やがて彼の潔白は証明され……と噺は進むのだが。

ここで一番の問題は娘の処遇である。

親の借金のために娘が遊郭に身を売る!?

あり得なーーい!!!

今時の人間なら皆そう思う。

落語家だってそう思う。
だから、皆それぞれに改編を加えている。

誰がどのように変えているか、しかと覚えてないのが残念だが。


はっきり覚えているのはベテラン中のベテラン、柳家さん喬師匠の改編。

娘は吉原に売られ、柳田は再仕官後すぐに身請けをする。

けれど娘は既に精神を病んでいた。

やがて、再会した柳田と商家の旦那。

柳田を疑って追い込んだ商家の番頭は娘を誠心誠意看病する。
そして快方の後、婚礼をあげるのだ。

他にはないドラマチックな改編である。

隅田川馬石師匠はこう変えた。

「お父上!どうか身の潔白を証してください」
と娘自ら吉原に身を売って金を作ると訴えるのだ。

しかし柳田はそれを受け入れず、刀を売って金を作る。

いや。
ちょっと待て!
刀は武士の魂だぞ!

そりゃ私だって女だ。
人の娘だ。

いくら噺の中とはいえ、娘を吉原に売るのはイヤだよ。
たかが父親の面子のために。

でも、あの時代のことを考えれば……。

そもそも女の人権なんかない時代だ。

〝たかが娘〟てな時代だろう。
跡取りの男子じゃない。

いざとなりゃ、売って金にするのもありだろう。

家紋 陰三つ千鳥
(製作過程Eテレにて)

刀と娘とは、言葉を変えれば、
〝武士の魂〟と〝たかが女〟だ。

秤にかけりゃ絶対に刀の方が重い。

まして堅物の柳田格之進だよ。

曲がったことの大嫌いな武士が、当時の常識として娘の代わりに刀を捨てるはずがない!

……と考えてしまうのだ。

が、私が考える〝当時の常識〟は正しいのか?

わからない。
別に歴史オタクじゃないし。

おい!

こら!!

じゃあ、偉そうに語るな!!

おまえは歴史学者の磯田道史か!?
……とか言われそうだけど。

でも知識の乏しいおつむで違和感を感じてしまうのよ。
良い悪いじゃなく。

ドラマとして見た時の違和感。
う〜ん?
と首を傾げてしまうのだ。

ちなみに馬石師匠のこの改編版は、柳家三三師匠もやっているらしい。
だから最初に改編したのが誰かは知らない。

落語の中にはいくつもそういう例がある。

古い話だから現代感覚に合わないと、落語家それぞれが手を加える。
そういう改編が加えられ伝わって来たのが落語である。

だから決して改編そのものを批判しているのではない。

あくまでも歴史を知らないBBAが、個人的に何か違和感を感じる改編だってこと。

浜野矩随

私が落語の改編で最初に違和感を抱いたのはこの噺である。

浜野矩随!

さあ、この漢字を何と読む!?

〝はまののりゆき〟です。

いや、違和感はそこじゃない。

あらすじとしては、ん〜と、これを読んで欲しい。

かいつまんで言うと、

名人彫師の息子が父親のような名人になれないでいる。

母親はそんな息子に命がけで彫ってくれと観音像を依頼する。

息子は必死で彫り上げる。

その見事な作品を見届けた後、母親は自害する。

かくして息子、浜野矩随は名人に成長するのであった。

つー噺なんだけど。

ここでの問題が、母親の命だよ。

現代の落語家では母親の命を助ける人が多い。
そしてその改編を推す人も多い。

先に名を挙げた柳家さん喬師匠も、自害を図った母親だが命は助かるという物語にしている。

確かに命は大切だ。
無闇に自殺なんかしちゃいかん。

でもね……。

これは息子が親を越えて成長する物語だ。

父は死んでも母は生きていて甘えの抜けない息子である。

その成長のために親は死なねばならない。
隠喩としてね。

だから物語の中で母親は死ぬ必要がある。
隠喩としてね(くどい!)。

私はそう思うのだ。

唐茄子屋政談


別に、何でもかんでも殺せばいいとは思わない。

「唐茄子屋政談」という噺の中では、長屋暮らしの貧しい母親が自殺する場面がある。

因業大家に金を取られて絶望して首をくくるのだ。

幼い子供がそれを知らずに、
「お母ちゃん、そんな所にいないで降りてきてよ」
と呼びかけるのが、観客の涙を誘う。

って、ふざけんな!!

そこで母親を殺す必要はないだろう!?
たかが、お涙頂戴のために!!


ここも柳家さん喬師匠は、間一髪で命は助かったという演出にしている。
これには異論がない。
ドラマとして、この母親は死ぬ必要がない。


ただ、それもあくまでも私個人の感覚だ。

やはりここは母親が自死した方がドラマが盛り上がる、と考える落語家もいよう。

あるいは何も考えず、口伝で伝わった昔のままで演る人もいよう。
はっきり言って、それが一番サイテーだと思う。

現代に生きる落語家として自分なりに考えて改編を加えてこそ真の落語家だと思う。

または、考えた末に昔のまま、習った通りにやるのも定見だろう。

それらが私の感覚に合わなくてもいいのだ。

今に生きる落語家の心意気を良しとする。

……って、偉そうになったので

おびんづる様を撫でてもらって終わりとします。

はい~悪いとこ撫でてください
おびんづる様が治してくださいますよ

いや、ちょっと待て!!

冒頭の文蔵組大落語会の感想はどうなった?

よかったよ……て感想だけじゃダメ?

そりゃそうか。

三日目第一部 きく麿師匠の
スナック・ヒヤシンスの会
わかりにくいけど高座の両端に
スナックヒヤシンスのミニ看板あり

毎年思うのは、文蔵組スタッフの素晴らしさである。

興行会社っぽいプロの臭みがない。

何となく素人の手作り的な感じが
(実際はどうなのかは知らない)
とても心地良い。

若いスタッフの皆さんは明るく元気で配慮が行き届いている。

渋谷のユーロスペースはラブホテル街の只中にある。
箱入りBBAには、なかなか行きづらい場所である。

名曲喫茶ライオン
ラブホ街で心洗われる憩いの場

けれどきっと私は来年も行くだろう。

文蔵組大落語会に!!


どっとはらい。
























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