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『エキリ・コミッション 謎の感染症に挑んだ医師たち』第一章お試し読み!


第一章 日本占領


昭和二十(一九四五)年八月三十日未明、連合軍の本艦隊が南の水平線にあらわれた。先頭艦はスタージスだ。ゆうべ東京湾について、沖に停泊していた先行の艦隊がうごきはじめ、本艦隊に合流した。これからこの灰色の連合大艦隊は、日本上陸拠点である横須賀湾に向かう。
先頭艦スタージスには、クロフォード・F・サムスが乗っていた。サムスは四十三歳になったところだが、今回の戦争で軍医大佐に昇進した。その能力と人柄をみこまれてマッカーサー元帥に抜擢され、三週間まえに首都ワシントンからマニラへ飛んできた。占領下日本では連合軍総司令部の、医療と公衆衛生をうけもつ局の局長となることになっている。
さきほど、とつぜん警報が鳴った。サムスは寝床からとびおりて身じたくをし、肩からつるした革サックのピストルをたしかめた。デッキへ駆けあがりながら、きょうは八月三十日で、戦争は十五日まえにおわったはずだ、と考える。にもかかわらず日本軍の爆撃機が攻撃してきたのか、でなければ掃海をまぬがれた機雷か。サムスは救命ボートのそばの待機定位地について、まわりを見まわした。
船の右弦にはまだ暗い太平洋と、ほのかに明けそめた空。左弦には神奈川の低い山なみが見える。そのかなたの高嶺が、富士山だろうか。山肌がしだいにばら色に変わってゆく。
警報はやがて解除された。東京で市街戦が起きたという無線が入って、大事をとって待機命令が出されたのだ。朝日が昇りきるころ、連合軍艦隊は横須賀港に入港した。
午前十時、一万三千の海兵隊員が完璧な戦闘隊形をとって、渚を歩いて上陸をはじめる。上空では米軍の偵察機が爆音をたてて旋回している。気温は高く、むし暑い。
浜辺のそこここに、カメラをこちらに向けている小柄な男たちがいる。日本の新聞社のカメラマンらしいが、この暑さに、きっちり背広を着てネクタイをしめている。
連合軍側のカメラマンが、つぎつぎに上陸してゆく。おなじくカメラをもってうろうろしているが、こちらはベレー帽にショートパンツ、上半身はだかというのもいる。
やがてスタージス号は海兵団桟橋に横づけされ、サムスは横須賀の土を踏んだ。軍服のわきの下には、すでに汗で半円のしみができている。
サムスの生まれ故郷のイリノイ州イースト・セントルイスでも暑い日はあったが、風が草原をわたってきた。これまで軍務に就いてきたパナマやエジプトでは、日ざしが灼けるように熱くても日蔭はすずしかった。
日本の暑さはちがう。こんな湿気の高い暑さのなかでは、軍医は伝染病を覚悟せねばならない。
米国の兵員には、日本の伝染病への免疫がまったくないのだ。その点で、首都の東京が気にかかる。数日たてば、連合軍は東京へ進駐をはじめることになっている。
数日後、日本帝国陸軍省医務局から連絡将校がわりあてられて、平賀稔という軍医中佐がサムスのところへやってきた。
「東京において、いま発生している伝染病はないか」
とサムスはたずねた。
「東京では、エキリが発生しています」
というこたえに、サムスは愕然とした。
エキリという病名は、聞いたことがあった。コレラのことだったように思う。コレラは致命的な下痢病で、はやれば何百人もの命を奪う。インドやイランでサムスはコレラの流行をみた。ベッドに穴をあけて患者の尻をはめ、とめどなく下る便を床のバケツで受けるようになっていた。米軍兵員はコレラの予防接種をうけているとはいえ、大流行となれば安全とはいえない。
上陸して十一日目の九月十日、サムスはむりに時間をつくって、東京へ出かける許可をとった。
エキリ視察のためだった。この視察には連合軍のジープではなく、旧日本陸軍の車を使うことにした。平賀軍医中佐と日本人運転手の道案内がなければ、とても東京へなど行けない。京浜地帯は激しい爆撃をうけて、いちめんの瓦礫だった。東京へ向かうにも、どこが道やら見分けがつかないのだ。
一行は朝はやく横浜の総司令部を出発した。予想どおり道はわるく、どうやらたどれる道へ出ても舗装がなく、見はるかすかぎり穴ぼこがつづいている。ふつうなら時速三十マイルは出るところ、五マイルしか出せない。そうしなければ車はノミのようにとびはねて、車体のバネが切れてしまうだろう。
四時間後、サムスの一行は東京都文京区にある都立駒込病院へたどりついた。病院の全貌をゆっくり目におさめるいとまもなく、サムスは廊下を病室へと急いだ。
病室には、子どもがひとり寝ていた。布団がきっちりと身体にかぶせてある。唇がひびわれて、せわしい息をしている。昏睡して、かなりの熱がある。通訳によれば、きのう発熱し、下痢をして吐いたという。うわごとをいって騒ぎ、うとうとと眠り、呼べば返事をするときもある。昏睡からさめるときに痙攣を起こして、そのまま息をひきとることが多い。
「患者は子どもばかりだそうです、大佐。それも八歳以下の。それから、夏だけに、はやるのだそうです」
と通訳がいった。どうみてもコレラではない、と思ってサムスはまずほっとした。
「病原は?」
通訳がまとめたこたえは、つぎのようなものだった。
「わからないそうであります。赤痢菌が便からでるときもあり、大腸炎かもしれず、それに特異体質がかかわっているともいわれ、アレルギー、またはショックの可能性もあるといっています」
「手当ては?」
「生理食塩水と解熱剤をあたえてあるそうです」
「赤痢菌感染の可能性があるなら、なぜ抗生物質のサルファ剤をうたない?」
「薬はほとんど手に入らないそうです」
「死亡率は?」
エキリの子どもが死ぬ率は、五割だという。母親にひとりが抱かれ、父親がもうひとりを抱き、三人目が手をひかれて入院してくるとする。一両日のうちにひとりが死に、すぐにもうひとりも死に、この子だけはせめて助けて下さいと両親が懇願しているうちに、三人目も絶命する。そういうこともある病気だというのだった。
サムスは立ち上がった。エキリがコレラではなく、しかもおとなを襲わないとすれば、なすべきことはほかにある。総司令部でじぶんが率いる公衆衛生福祉局の設営はもちろんのこと、沖縄では上陸した米兵がなにかの脳炎にかかったらしい。米軍が原爆を落とした広島と長崎へはすでに医療救援物資を緊急空輸で届けたが、追加も考えなければならない。日本に残っていた外国人の医療も始めねば。
やがて連合軍総司令部は東京丸の内の第一生命ビルへ移った。そして総司令部という意味の「ジェネラル・ヘッドクォーターズ(General Headquarters)」を略して、以後GHQとよばれるようになった。
この占領初期、サムスはGHQ高級将校用宿舎として米軍が接収した帝国ホテルに住んだ。早朝に出勤して、食事と睡眠をとるためだけに帰ってきた。あとの時間はただ仕事をした。
このころのサムスの仕事のなかでいちばん重要だったのは、伝染病を食いとめるための防疫活動だった。日本人の体力はおとろえ、食糧はなく、衛生状況はわるく、大陸からの引揚者とともにコレラや発疹チフスが日本へ入ってきている。サムスはまず占領軍の人員をまもるために、占領軍の日本人雇用者に予防接種をした。それから病原菌を媒介する害虫駆除用に石油やDDT、消毒用の石灰を緊急輸入し、日本国内でも増産させた。新聞や放送をとおして、また学校や街角で、全国キャンペーンがはじまった。
サムスはこのときGHQの局長として、日本政府の厚生大臣をしのぐ強権をもっていた。だからサムスの意向は警察命令よりも威力があって、国民はいやおうなくこのキャンペーンに協力させられた。
くみとり便所にはふたをする。便所の窓には金網をはる。生ごみは家庭で土に埋めさせる。わずかに手にはいる新鮮な配給食品を、ハエのたかっているまま手づかみで渡さないよう指導する。
蚊も病原菌をはこぶが、その幼虫のぼうふらを繁殖させないために、古い水はためない。庭に泉水や池があるなら金魚を飼う。手をよく洗い、食べ物には火をとおして滅菌し、生水は飲まない。
小学校の生徒や復員者に頭からDDTを吹きつけ、回虫を駆除するために海
人草を飲ませた。
道の溝には消毒液をまいた。高等教育を受けたものだけが知っていた細菌のことや滅菌の方法を一般に知らせるために、作文や講話、研究会や討論会がもたれた。
にもかかわらず伝染病は減らなかった。
昭和二十年がおわり、二十一年の正月がくると、発疹チフス、天然痘、コレラ、ジフテリアが流行しはじめ、春になってもひろがる一方だった。赤痢患者の数も増えていた。局がまとめる毎月の伝染病統計グラフの折れ線は、右へ上がりつづけた。
だがサムスは自信を失わなかった。伝染病の原因はわかっているのだ。病原菌の伝播をくいとめ、食糧の配給で国民に体力がもどれば、いずれ流行は止む。
しかし、サムスは上陸直後にコレラかと思って見にいった「エキリ」のことを忘れてはいなかった。あのエキリは、夏に流行すると聞いた。では夏が来れば、もうひとつこれが伝染病統計に加わることになる。原因がまだわからないとすれば、その流行を予防する手だてはないことになる。
原因がわからないというが、日本でのエキリ研究はどこまで進んでいるのだろうか。日本人が書いたはじめてのエキリ報告は、四十年まえの明治三十七(一九〇四)年にさかのぼるという。
それはドイツの小児科の雑誌に投稿されていて、題はドイツ語で「疫痢―日本小児流行病」となっていた。報告者の伊東祐彦は、九州帝国大学医学部の小児科学教授だった。
伊東は東京帝国大学医学部の出身で、東京から福岡の九州帝国大学へ移ってきた。福岡の町で夏を過ごすうちに、夏にはきまって「はやて」という子どもの病気が流行することに気がついた。
進行がはやく死亡率が高く、激烈な痙攣をともなう。かかるとすぐ死ぬから「疾風」という意味の「はやて」と呼ばれていて、東京でもあったのかもしれないが、伊東にとっては初めて知る子どもの病気だった。
その伊東が、エキリにたいする手当ての方法はまったくないとしていた。患者の便を調べても赤痢菌が出るとはかぎらず、大腸菌のいずれかが病原菌のようでもある。しかしその症状(痙攣や昏睡)を観察すると、むしろ中枢神経系と心臓循環器に急性かつ劇症の中毒症状があるように思われる、という。
伊東のドイツ語報告から五年あとの明治四十二年に、エキリははじめて日本人の死因のひとつとして統計にあらわれた。それから十三年のちの大正十一(一九二二)年に、伝染病予防法が改正された。このときエキリも法定伝染病と定められて、このあとエキリの子どもは伝染病院で隔離されることとなった。
昭和の統計でもエキリは減っていない。戦争が終わった夏、サムスが見に行った駒込病院でのエキリ入院患者の総数は、三十三人だった。うち死者は十五人である。だから死亡率はよくて三割、わるくて五割というのも、明治からこちら四十年間、変わっていないことになる。
かならずしもひよわな子どもがかかるわけではなく、兄弟そろってエキリにかかっても、小さいほうが重症であるとはかぎらない。エキリとはなにか。腸の病気か、昏睡するのだから脳炎の一種なのだろうか。
そうしているうちに、昭和二十一年の夏がきた。GHQ公衆衛生福祉局に報告されてきたところでは、ことしの夏の駒込病院エキリ入院患者は、六十人を超えそうだ。治療方法はあいかわらずないという。サムスは仕事に追われながら、エキリという病名を聞くたびに、
「エキリの謎を解くならば、日本の医師にまかせておいてはだめだ」
と思うようになっていた。


昭和二十一年七月、土屋卓軍医少尉はふつうの医師にもどって、復員してきた。東京のはずれにある質素な家が、焼けずに残っていた。これには土下座をして礼をいいたかった。雑草がくずれた塀をおおい、たたみはカビで青黒い。とうぶん板の間に寝なくてはなるまい。
土屋医師は地方の三年制の医学専門学校を出て開業し、親のえらんだ嫁をもらい、息子が生まれたところで召集された。昭和十八年だった。大東亜戦争の戦況が思わしくないので法令が変わって、土屋医師のような貧弱な体格の丙種合格者も兵役を免除されなくなったのだ。家族を疎開させ、見習軍医士官として輸送船に乗りこみ、中国沿岸を南下していった日々がきのうのことのように思い出される。
たばこをさがして雑嚢をさぐると、芋するめがでてきた。干したさつまいものうす甘さをかみしめながら、さっき買った新聞をとりだす。紙不足なので、うらおもて一枚きりの新聞である。
「きょうは、アメリカの独立記念日なのか」
日付を見ると、昭和二十一年七月四日となっていた。その下に、アイゼンハワーという米陸軍の参謀長が《日本占領は一年を経たが、このさき五年ないし十年はつづくだろう》といったと書いてある。
「いいことはひとつも書いてないな」
と思いながら、土屋医師は下欄の広告を口に出して読んでみた。
「進駐軍要員、緊急募集。英文タイピストにバーテンダー、プールの番人。英語ができないと、だめなんだろうな」
新聞を読みおわると、土屋医師は流しへ行って水が出ることを発見した。さっきは日盛りで、断水だったらしい。手ぬぐいをぬらして、汗のしみた顔と身体をふく。日のあるうちに、大切なことにとりかからねばならない。
あがりかまちのはめ板をはずすと、なかに細長い空間がある。つめてあったボロ布や新聞紙をとりだす。その下の土に穴が掘ってあって、油紙でいくえにもくるんだ包みが埋めてあった。三年まえに出征するとき、土屋医師は開業医がつかう医療用の器具や材料を、ここにしまいこんだのである。ガーゼや脱脂綿は黄ばんでいたが、聴診器も煮沸器も注射器も無事だった。
家族は疎開して親戚の農家にいるはずだから、食べるものには困るまい。さしあたってここでひとりで暮らさねばならないが、きょう器具が出てきたということは、あす医院を開業できるということだ。
天井板を一枚はずして、つぎの日には「土屋内科小児科医院」という看板ができあがった。部屋を掃き出して玄関にも雑巾をかけると、なんとか医院のようにもみえてきて、数日すると患者がときどき来るようになった。少々の診察料と、金のかわりにもらう物品を売って、土屋医師の診察室はすこしづつととのっていった。
だが健胃消化剤としてつかう重曹が、ヤミで五十グラム十円もする。アスピリンは一グラムが二円だ。下痢患者に飲ませるサッカリンなど、たった一グラムで十円である。下剤のヒマシ油さえヤミでなければ手に入らず、しかも政府公定の価格の一円十二銭の数倍の値になっている 。
売り手の薬剤師が、
「重曹はね、健胃消化剤どころか、蒸しパンやなんかのふくらし粉に使うんです。サッカリンはもちろん甘味料でしてね」
というので、土屋医師はたずねてみた。
「しかし、ヒマシ油は食用にはならんでしょう。あれは下剤ですよ」
「てんぷらをするんだそうで、ヒマシ油だって油ですからな 」
それから薬剤師はつけくわえた。
「すべて、サムスがわるいんでさ」
サムスといえば、復員してひと月しかたたない土屋医師も、GHQ公衆衛生福祉局長として日本の保健関係者すべてを支配するサムス大佐の名前はおぼえてしまった。薬剤師は、
「サムスが日本の医者や薬剤師を牛耳ってるうちは、どうしようもないですよ」
と、憎悪をこめていった。薬をヤミで売って金まわりがいいから、医学情報誌をよく読んでいるらしい。たとえば『日本医事新報』は月に二回、医界のニュースを知らせてくれる。薬剤師はサムスが断行している医制改革を、あれこれと教えてくれた。
「先生だって、いまから医師国家試験を受けろ、なんていわれたら困るよね」
「すでに医師免許をもっていれば、受けなくていいと聞きましたが。これからさきは国家試験をやるということで」
といいながら、土屋医師は心細くなった。法律や条例は、いまはサムスの気持ひとつでひっくりかえるのだ。
「学生さんだって、戦争中に勉強して命からがら医学部を卒業したってのに、このさき一年もインターンをやれなんてね。それも無給でだよ。ひとのことだと思って、横暴だよ」
「無給でというのは、気の毒だね」
「それにいずれ、医者が薬を売れないようにするんだってうわさだ。処方箋だけ医者が書いて、薬は薬剤師が売るんだって」
「えっ」
診察料が安くても、医師はじぶんが処方する薬にすこし利益をのせて患者に売ることができる
から、暮らしていける。土屋医師がむりをしてヤミの薬を買いにくるのも、そのためである。
「それに、サムスは医科大学に昇格できない地方の医学専門学校もつぶすんだってね。先生のご出身校は、だいじょうぶですか」
出身校どころか、案じられるのはじぶんの行く末だ。土屋医師はいつも気を滅入らせて薬の買出しから帰ってくるのだった。
そのうえこの夏、土屋医師はじぶんがなんのために医師をしているのかわからなかった。ひとの命を救って診察料と薬代をもらうはずなのに、金は死亡診断書文書代として受けとることのほうが多かった。死亡するのはおもに子どもで、死因はエキリである。
ある家では玄関に入るともう線香の匂いがして、患者は亡くなっていた。べつの家では痙攣がひどくて、どうしたものかと思っているうちに息がとまってしまった。午前、午後、夜半と往診した家では、患者が昏睡からさめず、湯ざましをのませようとすると痙攣がはじまってこときれた。
八月のお盆がすぎて、きょうも朝から診察室の温度計が摂氏三十度をさしている。そこへ老人が往診をたのみにきた。案内されて土屋医師は三十分ほども歩き、便所の臭気のするほそい道に入り、せんたくものが干してある軒先をくぐって、粗末な部屋に入った。
女の子が眠っていた。きのう熱をだして吐いたという。まず腸のなかの菌を出すためにヒマシ油を女の子の口にあてると、うとうとしながら飲んでくれた。腹部を布団でよくくるむ。やがて痙攣がはじまった。
「エキリのようです」
と土屋医師が言うと、老人がこたえた。
「そうではないかと、思っていました」
この子が数時間のちに息をひきとったとき、いますぐこの部屋を出てしまいたい、という気持をおさえて、土屋医師は万年筆をとりだした。かばんの上で死亡診断書を書きはじめる。こういうことは、あとまでのばさないほうがいい。
「早川よう子ちゃん。ようは太平洋の洋。五歳」
エキリの子どもの半数は助かると聞いているのに、この子もふくめてこの夏みた十人をこえる
患者のうち、助かったのはふたりだけだった。あとは入院させるいとまもなく、自宅で亡くなっている。
死亡診断書を書きおわって万年筆をしまうと、土屋医師は部屋をみまわした。どこの家でも、流しには断水にそなえてバケツに水がくんである。その水を洗面器にもらって、清拭をはじめる。
まず顔と身体をぬぐい、新聞紙をしいて腹部をていねいに押して、腸の内容物がないことをたしかめる。きれいに拭ききよめ、脱脂綿を鼻腔と肛門につめる。老人が出してきた紫と赤のきものの襟をあわせ、へこ帯をむすぶと、市松人形が目をとじているようだった。
「母親がおれば、紅でもさしてやるんでしょうが」
と、老人がいった。
「お母さんは、いまどちらに」
「満州から引き揚げるとちゅう、胡蘆島でチフスにかかってな。博多へつくまえに死にました」
「……お父さんは」
「婿は、シベリアです」
「……大勢の日本兵が、まだ抑留されているそうですね」
ばらばらっと天井に音がして、数分たつうちに激しい雷雨になった。炎天下を歩いて来た土屋
医師は傘を持たない。もうしばらく、ここにいなければならない。
「お孫さんは、五歳といわれましたか」
「じっさいには、三つぐらいでした。知恵おくれでな。ようやくおむつがはずれると、こんどは便所がこわいという。だれかに見ててもらわんと用も足せん子で、ことばも片言のままでした」
「そうでしたか」
「このまえ、小麦粉を占領軍が放出しましたが、あれでうどんをつくってやったのが、さいごでした」
「……配給といえば、ずっとコンニャクと大根でしたからね」
雨はまだやまない。孫の遺体をまえに、なんとしても涙をみせない老人の心を察して、土屋医師は「コロナ」を一本すすめた。老人はうまそうに煙を吸いこみ、土屋医師がたばこの箱をポケットにしまうのを見て、
「先生は、まだ軍服ですか」
といった。
「復員したのが先月でしてね。家は三年のあいだ空き家でしたから、服もこれしかありません」
老人は中国の大連で商売をやっていたといった。
「大東亜戦争も、日露戦争のようにいずれ精神力で勝つと信じておりましてな。内地へ引き揚げ
ることになるなんぞ夢にも思わずに、日曜日には店を娘夫婦にまかせて、この孫をつれて、人力車で西公園とか浪花町の繁華街へでかけたものでした」
「大連のうつくしさは、聞いたことがあります」
「そういえば大連でも、夏にはエキリがはやっておりましたよ」
「大連で?」
「大連医院なぞでは、毎年何十人もの日本人のこどもがエキリで死んだということでしたが 。うちの孫はそのころは元気でな」
大連医院なら、土屋医師も聞いたことがあった。満州鉄道が経営していた大病院である。戦争がはじまるまえ、その設備は東洋一といわれていた。入院ベッド数は七百床、学閥としては京都帝国大学医学部系で、若手のすぐれた医師たちがあつまって医療と研究をしていたはずだ。
「もちろん、大連医院へつれてこられたのは大連日本人町の子どもです。中国人やロシア人の子どもはエキリとも知らず、そのまま死んだかもしれん。エキリとは、いったいなんでしょうかな」
外の雨音がやんでいた。障子をあけると、なまり色の空に虹がかかっている。土屋医師は立ち上がった。
わかれぎわに老人がさしだしたのは、上質の英国ウールの背広上下だった。戦前の大連であつらえたというから、いま新橋のヤミ市で数百円はするだろう。土屋医師はもちろん固辞した。
「お支払いは、いつでもいいですから」
「いや、この部屋の間代の二十円さえ、あてのないありさまです。なにか売って孫の葬式をしてやって、寺へ供養代をおさめれば、先生にはいつになってもお支払いはできんでしょう」
「ですが、わたしはお孫さんのお命を救うこともできませんでした。じぶんではもっと勉強をせねばと思うのですが、つい」
新聞広告によればこの夏、『日米医学』や『アメリカ医学』といったあたらしい医学雑誌が創刊されている。最先端のアメリカ式医療のしかたが書いてあるにちがいない。もともと土屋医師は医学専門雑誌を読むのが好きだった。しかし一冊が五円、半年予約すると三十円だという。
老人がいった。
「勉強ならば、医師会とかで講演をやるでしょう。丸善へ入って医学書を立ち読みしても、背広を着ておればおかしくはない。秋が来れば、使って下さい」
胸のまえにさしだされた背広から、虫よけの樟脳がさわやかに匂った。
秋が来ると、土屋医師はこの背広を着て区の医師会の講演を聞きに出かけた。古本屋で立ち読みをしても、これを着ていればとがめられなかった。義理がたい土屋医師は、そういうおりおりにエキリに注意をはらうようになった。
富士川游の『日本医学史』という本を古本屋で見かけたときも、土屋医師は索引からエキリの章をさがしあてた。これは初版が明治三十七年の本だった。
記録によれば、エキリはむかしから日本にあったようだった。「はやて」という名前のほかに、地方によって「颶風」とか「急症」といった和名がある。江戸時代の医者たちは、エキリを「小児暴瀉」とよんでいたらしい。 
「小児暴瀉」は盛夏に起こる。おとなはかからない。かぞえの三歳から八歳ぐらいの子どもにかぎられている。まず頭が痛くなり手足がだるく、顔が赤らむ。そのうちお腹が痛くなって、下痢をする。と思っていると熱が上がり、おびただしい汗が流れて、子どもはうわごとをいいはじめる。それから目が吊り上がって天をにらみ、歯をかみしめ、筋肉がつって縛られたようになって暴れる。やがて恍惚となって昏睡する。このすべてが十二時間ぐらいのあいだに起こる 。
エキリの治療について、あたらしいことを書いたものはなかった。丸善でのぞいた『日米医学』や『アメリカ医学』は、結核の特効薬であるストレプトマイシン、または抗生物質ペニシリンのことでいっぱいだった。和文の雑誌にはときおりエキリについての報告が載っていたが、抽象的に原因を論じたものが多い。どうすれば子どもがエキリで死ななくてすむかについては、ヒマシ油を飲ませ、生理食塩水を注射し、腹を冷やさないようにするといったありきたりのことしか書かれていなかった。
では来年の夏も、と土屋医師は考えた。じぶんは炎天下でエキリの子どもを往診して歩き、死亡診断書を書いて、さいごの清拭をするのだろうか。



※章末注は省いています。

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