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Box-tory #3

次回刊行までの間、弊社編集担当が場をつなぐべく連載する他愛もない箱庭ショート、Box-tory(ボックストーリー)。第三幕は侃侃諤諤、生物学的に解決不能な不倫のお話。


Box-tory #3 フリンフヘンロン


「まずね、これだけは言っておくよ。僕は不倫の話をしたいわけじゃないんだ。むしろ、不倫の話なんて勘弁してくれって話さ」

久しぶりに友人と会って酒を飲み、他愛のない話題で盛り上がる。今年新たに文春砲を浴びた芸能人の話が出たところで不思議はないが、彼はまだそれほどアルコールが回っているようには見えなかった。

「赤の他人の色恋沙汰を大っぴらにあげつらうこと自体、下衆の極みじゃないか」

そうだね。
僕はニヤニヤしながらペールエールをちびちびすする。ホップの香りが実に華やかだ。目をつむって外界をシャットアウトしたくなるが、友人の声には耳を傾ける。

「不倫は今の社会状況じゃ完全な悪だ。唾棄すべき悪行。言い訳することすら許されない。しかしね、不倫なんて概念は人類史上、ごく最新の数ページにしか書かれちゃいない。
これ自体、大っぴらに言えない雰囲気で困ってしまうね。
オスがメスをめぐって無益な争いに走らないように、婚姻関係という社会的安定の仕組みができたんだが、この後付けの仕組みは、工夫を重ねて今現在の形に仮になっているに過ぎない。
人類誕生直後は、おそらくチンパンジーのように乱婚状態で、オスは向かう先で都合の良いメスを見つけては性交し、なるべく自分の遺伝子を残そうと競争していた。あるいは一部の権力が集中したオスは、現代のゴリラと同様、ハーレムを形成していただろう。
今、残っている男性の遺伝子はすべてこの本能が備わっている。逆に言うと、『このメスと結ばれたから、他のメスとは交わらないことを誓う』ようなオスの遺伝子はとっくに淘汰されて残っていないんだ。メスを見ても欲情しないオスの遺伝子も同じ。性欲が低いオスしかいなかったら、大規模災害や感染症の流行などで急激に集団の人口が減った場合、おそらく低い生殖能力では集団は絶滅する。
何が言いたいかというと、性欲は種として当然備わっていて、性欲をなくすことは不可能だ。そして、不可能である以上、それに沿った行動も当然100%悪いと非難することはできない。不可避なんだ」

車に乗る以上、交通事故がゼロにはならないのと同じ。
しかし、そうは言ってもね。

「そう、不倫は話が違うというかもしれない。いやむしろ恐ろしい剣幕で、違う!と怒鳴られるかもね。でも、それも不可避だ」

それも不可避?

「法律上の婚姻関係にある場合、不倫は絶対に許されないという。結婚していたら我慢しなければならないのが当然だという。これは実はどちらかというとメスの論理だ。
オスは乱婚状態を経て、なるべく性交の機会を逃さなかった遺伝子が残ったわけだけど、メスには別の淘汰圧がはたらいている。
つまり、情報収集能力だね。井戸端会議する本能だよ。
遺伝子を残すためには、オスと同様に多く性交することも一つの手だろう。けれど、それとは別に生まれた子を無事育てあげるためには、オスに経済力があるかどうか、確実に食料を運んでくる強い忠誠心を持ち合わせたオスであるかどうかをあらかじめ判定しなくちゃならない。そこで判断を誤ると母子ともに生き残れない可能性がある。
そのためいかに情報を集め適切に判断するかの能力に淘汰圧が加わったとみても不自然じゃない。女性がうわさ話や外見に異常に強い興味を持つのは当然の帰結だと思う。
そして、女性の社会的地位が向上した現代に、不倫が絶対悪だと判定されるのもよくわかる。不倫は女性にとって、本能的に全力を傾けたはずの情報収集を裏切る、もっとも許しがたい行為、起きてはならないエラーだ。本能から、つまり心の底から問答無用に嫌悪の対象なんだよ」

ははあ、だから不倫されて逆上するのは当然の反応だと。

「そう、不倫に走るのが男性の本能なら、不倫を許さないのは女性の本能なわけ」

すべての男も女から生まれるのに、不思議なものだね。

「まあ、そんなふうに乱暴に類型化したら誤解があるかもしれない。多くのオスと性交するのもメスの一つの戦略ではあるからね。だから不倫は成立するんだし。不倫するオスを受け入れるメスがすべからくいらっしゃるんだからさ。
だから、さんざっぱら女性側の論理で不倫の悪を弾劾しながら、男性のリードがあったから、みたいにそこだけ突然男性優位の前提を持ち出すことには違和感を覚えるよね。まあ、それもみみっちい言い訳だと叱られそうだけど」

まあ、確かに遺伝的な問題なら解決は難しいんだろう。数世代で遺伝的な変化は可能とは言うが、生殖の方法を変えたりしないかぎり変化を促す要因がない。結婚したらなにかしらフェロモンが自然に発生してパートナー以外への性欲が抑えられるような人為的遺伝子改変をするとか。しかし、離婚したらスイッチが切り替わらなければならない。

うーん、難しいか……とうなりつつホップの香をまた楽しむ。友人はハイボールを何杯か飲み干していた。
まあ、確かに婚姻関係が今の形が最終形態かと言われたら、それはたぶん違うだろうとは思う。そういう意味では、現時点での不道徳性で不倫をことさらに糾弾しても不毛なのかもしれない。

「いや、今生きているのがこの社会なんだからさ。この社会の規範で判断されるのはある程度は仕方ないことだよね」

でも、本能だから大目に見ろと。

「そういうわけじゃない。そんなこと言ったら袋叩きだよ、このご時世。
あくまで生物種として避けにくいことだし、同時に不倫した人を糾弾するのも本能的に過度になりやすいことを理解するべきだと言いたいだけだ。
それに不倫の話なんてまっぴらというのは別の理由だよ」

友人はまたグラスをぐっと傾けて中身を飲み干した。グラスを持ち上げて店員に目だけでお代わりを注文する。新型コロナウイルスのせいで大きな声を出せないと思っているのは彼も同じらしい。

「他人の不倫を暴いて叩くってのは、結局ね、表面上の正義を振りかざして大っぴらに他人を批判して楽しんでいるんだよ。
だってさ、一般市民は基本的に文春砲が向けられることはないじゃない。しかも、不倫は絶対悪で話しているこちらは善。性的な話が絡むのは皆好きだしイメージしやすい。
皆が自分の味方についてくれるのがはっきりわかったうえで他人をいじめるのと同じ構図だ。自分は安全な岸に上がって、おぼれる人間を笑っているんだよ。
ひとことで言ってしまえば卑怯者の所業以外のなにものでもないじゃないか。
そして、この世間公認のイジメを定期的に行えるように、誰かがまたネタを提供する。それをまた喜んで話題にして楽しむ。
これって、未熟な社会にはびこる実に下衆な構造じゃないか?こんなものに加担したくないだろう?」

ハイボールが届けられて、友人は目を細めてまたぐっと飲んだ。

「ふー、しかし、店で酒が飲めるのがやっぱり良いな。他人の話なんてどうでもいい。やっぱり自分が楽しまないとね」

未熟な社会にはびこる実に下衆な構造、か。

しかし、人品が高い人間だけが暮らすわけでもないのが社会だ。僕も友人も既婚者だったが、まあ、そんな話はどうでもいいだろう。一軒目であらかた酔っぱらってしまっているが、まだまだ夜は長い。どうしようもない僕らオス二匹は、これからまたしばらく飲んで、今年に限ってやたらとメディアに登場するいわゆる「夜の街」に消えていくつもりだ。


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