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「書きたいことを書く」というエゴを自覚することについて

「書きたいことがある。でも、書いたら人を傷つけるかもしれない」

よく受ける相談だ。あんまりよく受けるから、よく考えた。いま製作が進行している、エッセイストで翻訳家の著者の仕事論にも、「エッセイを書く」という文脈で出てくる話なので、少しメモしておきたい。

逡巡はよくわかる。だから、よく自問してみてはどうかと思うのだ。自分の「(書きたい)欲望」の本質を突き詰めて考えてみたらどうか? という話である。

問い:書きたいことを書いた結果、傷つくと嫌なのは「果たして誰」なのか?

  1. (文章を読んだ)読者

  2. (その文章で物議を醸した結果の)自分

問うてはみた。しかし本気では問うていない。なぜなら、たいていは「2」に帰結するからだ。他者を傷つけるのが怖いのではない。結果として自分が傷つくのが怖いのだ。もし「1」だと言い切れるならば、どこかの誰かを決して傷つけたくないならば、「書かない」の一択しかないだろう。「言わぬが花」の潔さは美徳である。

誰も傷つけない/不快にさせない言葉は、ない。ただ存在し、息をしている。それだけで、関わった覚えがないような人にさえ、時にムカつかれ、嫌われ、ムカつき、嫌い、私たちはこの世界を互いにそれなりに生き抜いている。いわんや、物言えば/書けばをや。

「MARGINAL NOTES」の山下陽光さんの原稿にいい文章があった。

今は書き手がビビり散らかして100書いたら怒られるところをギリギリまで攻めることもなく50も書かずに14くらい書いて曖昧にしてて何を言いたいのかが伝わらない。

MARGINAL NOTES|抵抗の快楽|残暑/01 #2|山下陽光

その通りだ。そして、いち編集者としての自分が言うならば、〈14くらい書いて曖昧にしてて〉な文章にはあまり惹かれない。個人の好みの問題だけれど。

書きたいことを書く。「書く」は能動的な行為である以上、そこになんらかの意思を孕む。意思を孕む時点でセルフィッシュな行為、エゴである。その利己的な己が、誰も傷つけることなく、誰からも非難されることなくこの世界に在ることができる途はない。

だから、自分の「(書きたい)欲望」の本質を突き詰めて考えてみたらどうか? と、私は思っている。

突き詰めた結果、

  1. 「自分が」非難されるのは嫌だから、やめておく

  2. それでも「自分が」書きたいから書く

どちらなのか? 「1」と「2」のあいだには、先の引用のように「反感を買わないように」「丸めて書く」という無限の選択(グラデーションでバリエーション)があるだろう。だが、究極的には「1」と「2」のどちらがいまの「自分にとって」大事なのかを考え抜き、「自分で」納得するしかない。「いまは書かない。が、いずれ書く」という答えに至ることもあるかもしれない。

他責(読者)ではなく、自責(執筆者)である。答えはその人の中にしかない。そのうえで、私は思う。自分を守ることは大事なことで、何も格好悪いことではない。ただ、「守っているものが他者でなく自分である」と自覚することによって、見えてくるものはある。見えてくるものは自分である。心許ない自分である。新しい哲学がはじまる。

サムネイル=カラスはいいね。大好きな鳥
文・写真:編集Lily



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