創造をあきらめない人の世界は無限
いちばん好きな芍薬の季節が終わり、それでも意外と寂しくないのは、すかさず百合が美しい7月だからだろう。
芍薬は思い切りがいい花だ。五月から六月の花屋に芍薬が並ぶ時期、私は繰り返しそれを買い、家に飾る。嬉しい。とりわけ好きなのは八重の白い品種。まだ硬い蕾のものを選んでくる。頑なに握りしめたこぶしのように丸くて、ちゃんと開いてくれるのか心配になるものだけれど、扱いかたさえ心得ていれば、存外素直に威勢よく開いてくれる。
長年親しんできた芍薬の見かたが大きく変わる機会が昨年あった。子規の「病牀六尺」には芍薬が出てこなかったっけ? 改めて読んだせいである。
あまりに有名な書き出しで始まる日記の日付は五月五日になっていた。ちょうど芍薬のはじまりの季節。寝たきり。結核はいよいよ悪くなっている。それでも比較的具合がいいときには、子規ならではの皮肉たっぷりの批評あり、俳句や短歌あり、時に絵も描いている。よろしくないときは体の不調を率直に綴る。見るに耐えぬほど苦しそう。九月十七日、亡くなる二日前に筆は絶える。
さっそく芍薬の記述を探した。六月五日の日記にあった。
友人の俳人・内藤鳴雪のスケッチブックに芍薬を写生して、二句を詠んでいる。病床で花瓶に活けた芍薬を観察し記録する様子は痛々しいが、生の焔を燃やしている。
次に芍薬の記述が出てくるのは、六月十三日。一週間が過ぎ、先の芍薬が散ったとわかる。あんまりいい文章なので、少し長いけれど引いておく。
硯だけはいいのがほしいと思っていたが、あきらめていた。ところが最近、その物欲が再燃してきた、先も長くないのにーーあまりに切ない吐露だ。そんな折、いい硯を貸してもらったものだから、枕元に置いて飽きずに眺めていたら、その硯の上に件の芍薬が散る。
切花の芍薬は思い切りがいい。散り際がいいのである。活けた経験がある人はご存じだろうけれど、一週間で目に見えて変化する。硬い蕾が丸く開く。いちど開きはじめると、数時間目を離しただけでもう姿が別ものに見えるほど開花が進む。数日かけてまだまだ開く。そしてこれ以上開かないというところまで開き切ると、八重の花びらが耳に分かる音を立てながら、こわいほどに潔く、わさりと落ちる。覚悟の決まった女性が髪をおろすところを見てしまったようなインパクト。しかも香りが強い。
このことを知っているものだからいたたまれなくなってしまった。
病牀六尺。寝たきりの布団から日々眺めていた芍薬が散る。あんまりなメメント・モリ。先が長くないことを自覚する身にとって、刺激が強すぎる。文人らしく愛しんで枕元に置いてあった硯に落ちた花びらの山。それが子規が見た最後の芍薬だったのか。そう思うと切ない。しかし、それだけにとどまらない。この頃の子規にとっては、目にするもの、感じるものの一つひとつがもはや「人生最後の何某」なのである。そして、日常を受け入れながら、病牀六尺で芸術することを死ぬまであきらめなかった。
しみじみ思うのだけれど、私は表現をあきらめない人が好きなのだ。仕事で原稿のやり取りをしているときなんか、いい加減、きっぱりあきらめて原稿を出してほしいと思いもするものだけれど、それはまた別の話だろう。
読めばわかる。子規にとって病牀六尺から見える世界は退屈なものでは決してなかったし、好奇心と創造力さえあれば世界はいつだって果てしなく広がってくれる。懐が深い。見ようとする者、感じようとする者にとって世界は美しいのであって、そうでない者にとってはいくらでも退屈で狭量になり得る。
文・写真:編集Lily
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