愛と家族と人生の”完璧な”物語:ドラマ「Fleabag(フリーバッグ)」

9月に発表された米エミー賞で最優秀コメディ主演女優、最優秀コメディ・シリーズ、最優秀コメディ脚本など6部門をさらったドラマFleabag。
20〜25分で6話×2シーズンで完結する短めのシリーズなのですが、明確な起承転結がなく、いまだに単純に「ココが面白い!」と表現しきれないまま、あのシーンはこんな意味があるのかな、あのシーンは……と思考が巡ってしまう、独特の深みのある物語でした。

ファイナルシーズンであるシーズン2が公開されたときには「完璧」という評価も多かったという本作、たしかに振り返ると、短い物語の中にタイトルに掲げた3つの要素が(いや、他にも色々あるはず、シーズン2は宗教も)すべて詰め込まれていました。シーズン2の第6話は、シーズン1よりも少し希望が増しつつも、やっぱりほろ苦くてじんわりするエンドに到着します。

https://youtu.be/KwuNmgIP2Vk

皮肉屋で性欲は強め、怒りに駆られ悲嘆に暮れる。「フリーバッグ」は、現代のロンドンを生きる1人の女性の心理を描き出す、抱腹絶倒かつ辛辣なドラマである。脚本・主演は劇作家でもあるフィービー・ウォーラー=ブリッジ。差し伸べられる救いの手をことごとく拒絶し、常に虚勢を張りながらも、癒しを求めるタブー知らずの女性フリーバッグを演じる。(Amazon Prime Videoサイトより)

このドラマの仕掛けとしてユニークな点は、主人公をはじめとする主要な登場人物に「名前がない」こと。そして主人公が画面の向こうの視聴者に語りかけてくることです。(以下少しネタバレ有)

まず名前がないことについて。モノローグならともかく、多くの人が関わる物語で、主人公の名前を誰も呼ぶことなく1つのシリーズを完結させられるのか!という驚きがありました。クレジットでは、ニックネームのFleabagがそのまま役名として記載されています。
名前を呼ばれずに、妹、娘、彼女、といった関係性と属性のみで呼ばれるというのは、シーズンを通じて語られる「時々私がわからなくなる」という主人公の発言とリンクしているかもしれません。

そして、アーティストで、ちょっと変わった感性の持ち主である継母も、ゴッドマザーと呼ばれるのみ。
彼女と再婚しながら先妻を忘れられない父親にも、名前がありません。
(シーズン2 で継母がこの父親(夫)を周囲に紹介するシーンがあるのですが、いざ名前を呼ぶ段になって「あれ、どうしてかしら、名前を忘れちゃった!・・・ええと、こちらが私のダーリン」と取り繕っていました。物語世界のほつれをわざと見せて視聴者を違和感にさらすって熟練の技ですよね。)

明確な名前のない人はまだまだたくさんいて、固有名詞で呼ばれるのはほとんど姉のクレアです。クレアはフリーバッグと違って堅い職業についており、堅実、生真面目、神経質。彼女を笑わせられるのは、アルコール中毒、セクハラ発言を繰り返す旦那だけ。
目をむいてフリーバッグの身勝手な振る舞いを非難していたかと思えば、ときどきけっこう下品な言葉遣いをしたり、既婚者でありながら同僚に心揺れたり、シリーズが進むうちにどんどん人間味を増していきます。
フリーバッグを批判しているのか?それとも少し、自由奔放な妹が羨ましいのか?

クレアは、最初はカタブツで文句ばかり言う窮屈な人間に見えたはずなのに、出世(フィンランドへの転勤を伴う。以後ドラマでは単にFinlandと言及されるように)と家族の間で悩み、時々キャラが崩れてガサツになり、共通敵?である継母に対してフリーバッグと心を一つにして行動する。気づけばクレアの幸せを応援し、その決断に喝采を送っています。
対してフリーバッグも、最初は突拍子もない人間に見えたはずなのに、つらい過去の経験、ほろ苦い・気まずい経験、彼女なりの葛藤を見ながらシーズン1を完走したあとはすっかり考えが変わり、姉の旦那を殴る姿を応援している。
新しいセッティング、新しいシーンを提示し、そのたびに視聴者の先入観を覆して、単純な感想(フリーバッグはダメ女。クレアは常識人。など)を言わせないところがこの物語の深みです。

そもそも、劇中で提示される人柄は意図的に切り取られたもの。私達が普段目にしている他人の姿も、所詮はある場面での振る舞いを切り取ったものです。
父親はフリーバッグに対して、「愛しているが、お前をずっと好きではいられない」と言います。意見の対立が先鋭化する中で、やたらとワインのおかわりをすすめる煩わしいウエイトレスに対してNoを言う瞬間だけ結束する家族。様々な場面での様々な振る舞いが人数分掛け合わさって、絶妙なバランスで人間関係がもつれたり回復したりする。個々人のパーソナリティだけでなく、人間関係についても単純なジャッジを許さない素晴らしいドラマです。

続いて、主人公が視聴者に語りかけるシーンについて。
1話のうち10回くらいは、こちらに視線が投げかけられてる気がしました。心の声を話すこともあれば、ただ顔をしかめたり、したり顔でニンマリしたり。次にフリーバッグがどんな反応をしてくれるのか、楽しみで仕方なくなります。シーズン2の司祭がこのメタ構造に気づいたかのような言動を取るのも面白い。

フリーバッグの行動は、クレアをはじめとする周りの大人から、「常識はずれ」「ただの目立ちたがり屋」など、さんざんなレッテルを貼られます。それに引っ張られて、視聴者もつい同じ色眼鏡で彼女の行動を見てしまうのですが、彼女がこちらを見て投げかけるコメントには、喜怒哀楽を共有してしまうことも多い。自分はいったいどっち側の人間なんだっけ?

シーズン2で、失敗だらけで落ち込む主人公が司祭に対して「何を着て何を食べて、何を愛して何を信じて、どんなジョークなら言ってもいいのか、教えてほしい」というようなことを言うシーンがありました。

思うまま生きるうちに自業自得な災いに家族や親友を巻き込んでしまう。最初は神経太くはねのけてきたけれど、いつしか社会的常識への不協和が高まっていく。主人公は、シーズン中何度も出てきた「過去や自分と向き合う」ということを、ずっと半笑いで受け止めてきたけれど、ついに挑戦してみよう、と思って行動します。

グチャグチャだった生活と人間関係が少しずつ形を帯び、夜の街を(こちらに手を振りながら)去っていくフリーバッグの背中を見ながら、この物語がくれた沢山の問いかけを思い出すのでした。

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