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雑記帖:202307

 上下関係に固執する人は、上に立つ為に下の存在に依存している。下がいないと上へは立てない。自分の優越性を担保する為に、弱者を探し、マウントし続けるのである。こういう人間こそ、他者の存在を利用しないで、自己の存在意義を見出して頂きたいものである。マウントされる側は、マウンターに対して嫌悪感しか抱かない。

 結局、明示された中で活動するしかないのだ。不明示の世界は何の役にも立たない。恐怖感だけである。感覚的な世界は恐怖そのものである。それよりも明示された世界を十分に理解し、その明示された世界の中で、要素を組み合わせて、物事を設計していくしかないのである。感覚は個人的なものなので、一般性はない。すべて特殊な物である。そのような物を探求してもあまり意味はない。それよりも形になり、世に出ている物の中で、それをうまく活用して、活動していくしかないのである。無形の物は、存在しないのに等しいのである。有形化が大切であり、無形の物を無形なまま保存してはいけない。分かったのならば、それを形にしていけばいいのである。

法律は人工物。人が決めた物
自然法則は自然物。既に決まっている物。自然が摂理。自然が決めた物。自然には人格はないが、そういうことにしておく。神とでもいえばいいのだろうか?

法律と自然法則の乖離
自然法則 (既に)決められた物。自然物。
法  律 (人が)決めた物。人工物
科  学 人が決めた物。人工物

法律は自然法則に包含される。

 自然によって人という存在は決められている。法律は人が決めた物。人は自然に対して常に受身である。人は自然の言いなりである。歴史が示している通り、人は自然状態では、弱肉強食、強者が弱者を搾取するようにできている。個人の権利を確立するために戦ってきた歴史がある。法律は個々人の平等性を保つために作用するものである。法律がなければ、社会は争いが絶えないだろう。争いを避けるために法律があるのである。人は自然の従属物。主人は自然である。人は自然に合わせることはできるが、その仕組みを根本から変えることはできない。エントロピーの法則を変えることはできない。エントロピーの法則が先にあって、人はその後にある。人は自然法則の副産物に過ぎない、主は自然である。人は人に対しては主人になれるが、自然に対しては従物にしかなれない。あくまでも自然が主であり、人は従者に過ぎない。自然が決めた法律から自由になれない。常に人という存在は自然法則の下に統治されている。人の作った法律は社会を秩序立てるものにすぎず、自然の法則とは乖離している。エントロピーの法則は確率的なので、多数決はまさにエントロピーの法則に適合している。起こりやすい事象が場を支配するように出来ているのである。法規範という後世に残る情報という意味では、自然法則化がしつつあるのかもしれないが、法律は未完成の代物である。自然法則は完全であるが、法律は不完全である。人の行動を支配する自然法則を解明しない限り、真の自由は得られないのである。現状で得られるのは、仮初かつ暫定的な自由に過ぎないのである。自然法則が完全に解明されてない以上、人はその暗黙的な法則による行動支配からは逃れられないだろう。自然法則を解明しない限りは、人の行動は必然なのである。予め決まった人生を歩んでいるに過ぎないのである。その自然の仕向ける必然性に立ち向かわない限り、自由はない。偶然とは自由である。束縛とは必然である。自然の仕向ける束縛から自由になる為には、自然と向き合う必要性があるのだ。自然を理解しない限り、真の自由ははない。


自然法則という必然性への反抗=偶然
自然法則は必然的であり、その必然性へ人が抵抗する事で、偶然は起きる。必然性への抵抗が成功すると、偶然が生じるのである。

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