中央集権国家!?

 東大を中心とした社会。東大の問いに社会の方向性が決定されている。しかし、その問いはどれだけの人に有効なのだろうか?自らの問いを東大レベルまで、各個人が向上させない限り、社会の多様性は実現しないだろう。時短の為に他者の問いを真似るのも良いが、自己成長の為には自らの問いを成長させるしかない。
 模倣するのは見本をお金で手に入れるようなもの。創造するには見本はないが、自分自身を資本にすればいいので、見本を手に入れる費用は節約できる。お金が掛からない仕事が何より良いのだ。成果を出す為に、経費ばかり掛けていては、富を築く事は出来ないだろう。一部の人間だけが富を介して手にできる見本を基にした社会では、多様性を実現する事は出来ないだろう。
 トリクルダウンなんか待っていても、下層まで富が落ちて来る事はないだろう。他力本願ではダメなのだ。自ら行動し、成果を挙げて、社会的に評価されない限り、成功はあり得ない。
 東大だけが成功できる社会では、閉塞感を拭う事は出来ないだろう。成功する為の必要条件が東大合格では、成功者は一握りになってしまう。努力せずとも、成功できる社会の方が、希望を持てるのではないだろうか?
 情報中心の社会ではなく、現物中心の社会の方が良いのではないだろうか?高度な情報を理解できる一部の人間だけが富を独占できる社会には、違和感しか覚えない。情報だけで社会が構築されている訳ではない。社会は物質を中心に構築されているのだ。情報をもっと簡素化し、一目で分かる工夫をした方が良いのではないだろうか?
 情報よりも、構造物の設計に注力した方が所有の面では、有益ではないだろうか?所有できない情報に労力を注いでも、誰にも幸せにならないのではないだろうか?情報を更新するよりも、構造物を更新した方が、社会を刷新できるのではないだろうか?情報という記号に注力しすぎる事は、社会を貧しくする方向へ導く行為にも思えてしまう。
 これらの内容を証明する事は出来ないが、情報に注力しすぎる事はあまりよろしくない気がする。形式が変わっているだけで、問うてる内容は変わらないのではないだろうか?複雑な問いは、問題解決を導くのだろうか?もっと問いをシンプルにしても良いのではないだろうか?複雑な問いを、メモリーに保持できるのは一部の人間だけではないだろうか?
 情報を中心とした社会設計では、先へ進めないと思うのは私だけだろうか?皆様はどのようにお考えだろう?情報中心か?物質中心か?どちらをメインに選択するかで、行動が変化するかもしれない。

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