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芸術は気安い友か?

先日、Netflixのエッセイ動画シリーズ「映画という文化」の中でこんな台詞が出てきました。

「芸術は気安い友ではない 真実を突きつけ困惑をもたらすものだ」

Netflix「映画という文化」第3回

「主人公に親しみやすさや共感性は必ずしも必要ではない」という文脈で語られたと記憶しているのですが、そのすぐ後にこんなツイートを見たのです。

「私たちはコンテンツに騙されたいんですよ!うまく騙して欲しいんですよ つまり!!」

服部昇大さん「邦キチ!映子さん」

この二つのセリフで気づいたのですが、

【エンターテインメント】
→受け手が現実から逃避することを目的として、幻を見せることを目的とした作品
【芸術】
→クリエーターの考える真実という因子を受け手に気づいてもらうことを目的にした作品

なのかもしれない、と思いました。
たぶんここで言う「真実」とは、客観的な事実でなくてもよいのでしょう。
きっと「心地よい」とか「気持ち良い」とか「わかりやすい」ものではなくてもよい、そこで、少なくとも芸術作品としての価値が決まるわけではない、という意味だと思います。

多分、芸術とエンタメの側面は完全に分けることができるものではないのだと思います。比率配分は作品それぞれであって。


そして最近思うのですが、ポピュラーミュージックという分野は、エンターテインメントとして、受け手に幻を見せられなくなっている分野なのではないかな、と考えています。

以前、ビートルズの功績について、
ビートルズの最大の功績について、「僕もポップスターになれるかも」と多くの子どもに思わせたことによってポピュラーミュージックを発展させたことだ、と思っています。」
と書いたことがあります。

しかし、日本においては、アイドルやVtuberなどを除き、ポピュラーミュージックにおけるポップスターという存在は消えかかっているように思っています。
少なくとも影響力は過去ほどないでしょう。

覆面アーティストが増えたのはその影響ではないかな、と思います。
顔を出すことが音楽評価にとって邪魔になる、つまり社会的アイコンたりえない、ということなのだと思います。
またトップアーティストですらアニメのOP曲でないと売れない時代です。

そう考えた時、もうすでにポピュラーミュージックという分野は、ある意味で、「気安い友」ではなくなっている気がします。
少なくとも演奏や創作する人にとっては。

そして、多くのエンタメの受け手としては、ポピュラーミュージックは「どうでもいいもの」「他のコンテンツの付属品」になっているように思えてならないのです。

たとえば、アニメ「チェンソーマン」のED曲が毎回話題のアーティストの曲で変わることが話題になりましたが、どれだけ覚えていますか?
Vaundy、Eveさん、PEOPLE1、凛として時雨、女王蜂、あのさん、が使われていたくらいしか覚えてないです。ほとんど後半だな…
曲の内容的にはあのさんの曲の「ゲロチュー」と女王蜂の「バイオレンス」のフレーズだけ。
毎回聞いていたら覚えてるのでしょうが、さすがに一回だけだと。

どの曲も良い作品だったと思うのですが、使い捨て商品みたいな使われ方だったのが、なんとも自分にとっては悲しいというか悔しいというか…という気持ちです。


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