見出し画像

#9 「 雨 の あ と さ き 」

ぼくも彼女もじっとりと汗をかいていた。
白で揃えたヘインズのTシャツが、汗を吸い込んでからだに纏わりつく。
襟をつまんでパタパタと胸元に風を入れてみても、太陽に温められた空気が抜けるだけだ。
汗を諦めたぼくたちは、また、手をつないで歩きはじめた。
ぼくの右手にはコーラ、彼女の左手にはスプライト。
とっくに飲み干して空になった缶を、捨てることもできずに手のひらで持て余しながら。

夏休みも残り3日。

春に3年2組で彼女と出逢い、梅雨が明けるころには二人の時間を過ごすようになった。
来年の春、都会の大学を志望するぼくと地元で働き始める彼女。
近い未来のことなのに、ぼくたちはその話になると口をつぐんだ。

ぼくの家から彼女の家まで、ゆっくり歩けば45分。
住宅街を抜けて、市民体育館に併設されたこじんまりとした公園を経由するのがお気に入りのコースだ。

暑さのせいか人影はなく、車も走って来ない。
他愛のない会話が途切れると、足を止めて短くキスをした。
彼女はこれが何回目のキスなのか覚えていると言った。
因みに今のは何回目?
297回目よ。
ホントかウソかなんて聞かない。

ふっと風が冷たくなって、太陽が翳る。
低く雷の音がして、振り返ると遠くの空が鈍く光った。
彼女は少し不安そうな顔をしてる。
また光った。
1,2,3,4,5,6,・・・・。
10数えたところでゴロゴロと空が高い鳴る。
音は1秒で360m走るから、雷はまだまだ遠いよ。
安心させようと声をかける。
光の速さは340mよ。受験大丈夫?と彼女はニンマリ笑った。
からかわれたぼくが小さく口を尖らせると、彼女は短く298回目のキスをした。

高台にある市立体育館から国道に繋がる緩やかで長い下り坂の入り口にたどり着いたころには、ついさっきまで真っ青だった空を、黒く厚い雲が覆っていた。

降るね。
彼女の声につられて空を見上げた。

バラバラと落ちてきた大粒の雨に街路樹の蝉たちが黙り込む。
熱を孕んだアスファルトに落ちてくる水滴は、夏の匂いを巻き上げながらぼくと彼女を濡らしていく。

あっという間に雨だけの世界になった。

2、3歩、走りかけたけど、すぐにやめた。
顔を見合わせて互いが濡れていくのを笑い合う。

ガードレールの支柱の上に空き缶を置いて、彼女の濡れた髪に手をのばすと、ぼくの背中に両手をまわし、からだを寄せてきた。
びしょ濡れのTシャツ越しに伝わってくる体温が愛おしい。

ずっとこの時間が続けばいいのに。

彼女は小さな声で、願った。
ぼくも、願った。


 - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ -


降ってきたね。
喫茶店の窓から外を眺めながら、頬杖をついたままの彼女がつぶやく。
アスファルトに打ちつけられた雨粒は、小さな飛沫を無数に散らしながら辺り一面を濡らしていく。
入り口のドアにつけられたカウベルが揺れた。
カラン、カランカラン。
乱暴に鳴らして駆け込んできた客のうしろから、強い雨の音が聞える。

やっぱり無理じゃないかな。
彼女は窓の外を向いたまま、さっきよりもはっきりと言葉を落とす。
俺はその言葉をうまく拾えないまま、運ばれてきたままテーブルの上にある、ふたつのタンブラーをぼんやりと眺めていた。
アイスコーヒーに浮かんだ四角い氷が小さくなっている。

グラスについた水滴が、静かにすべり、パッチワークのコースターに吸い込まれていく。

言い争うことがあっても、次の日には何事もなかったように笑いあえてた。
お互いの思いを伝えあうことで、分かりあえたような気がしていた。
自分らしさを主張しているうちに、いつの間にか大切なことを忘れていたのかもしれない。
繰り返す小さな諍いは、やがて綻びとなって、繕うことのできない大きな穴になった。

雨脚がさらに強くなってきた。
客の誰かがおしゃべりを止めて外の様子を覗うと、ほかの客たちもつられるように雨の音に耳を澄ます。
困った顔をしながら、ソワソワとした落ち着きのなさで。

景色を塗りつぶすように窓の外が光った。
離れた席からキャッと小さな声があがる。

1,2,・・・・。

有線で流れていた最後の雨のクライマックスをかき消して、空を割く大きな音が鼓膜を震わす。

割と近くで鳴ってるんだね。
首をすくめた彼女は、今日初めて俺の目を見た。
そして、ほんの少し笑った。

どこまで時間を戻せばやり直せるんだろう。
言葉を絞り出してみたら、なんとも間抜けなセリフになった。
どの道を通っても、ここにたどり着いたんじゃないかな。
その、気の強いところも好きだ。

そう、大好きだ。
たったこれだけを、いつから言えなくなってしまったんだろう。

言葉を継げない俺を、真っ直ぐに見ている。
長い沈黙のあと小さく息を吐くと、彼女はバッグから鈴のついた鍵を取り出した。

チリン。

テーブルの真ん中よりちょっとだけ俺の近くに置いた。


 - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ - ◇ -


よかったわね。もう少し遅かったら濡れちゃってたわ。
7階へ向かうエレベーターの中で、降り始めの雨に濡れた肩のあたりをハンカチで拭いながら、彼女がホッと息をついた。

いつもだいたい雨だ。

彼女が受付をしている間、締め切ったベランダの窓から見える雨をぼんやりと眺めていた。

窓の下では、突然の雨に慌てた昼休みのサラリーマンたちが、避けられる場所を探して走りまわっている。
テラス席でランチをしていたOL二人組が、プレートを持って店内に避難する。
店員が大急ぎでシェードを出そうとするが、既にテーブルも椅子もびしょ濡れだ。

無事に大きな屋根の下へ潜り込めた若者が、恨めしそうに空を見上げ時計に目をやった。
午後の会議の書類が間に合っていないのかもしれない。
仕方なさそうにビニール袋からサンドウィッチを取り出して頬張る。

そう慌てなくても、すぐそこの空は明るいからただの通り雨だ。
声を掛けたくなった。

そうか、彼からは私が見ている空が見えないんだ。

さ、行きましょ。
待ちきれない足取りで彼女が前を歩く。

個室のドアを開けると、娘と、その娘が並んで静かな寝息を立てていた。
その枕元に飾ってある、お世辞にも上手とは言えない筆跡で「 希美 」と書かれた色紙は、私をお義父さんと呼ぶ、不器用そうな彼が書いたものらしい。
二人を起こさないように、そっとベッド脇の椅子に腰を下ろし、生まれて間もない命を覗き込んだ。

彼女が小さな手のひらをツンツンとつつく。
その人差し指をぎゅっと握られて、彼女はうれしそうに笑った。

のぞみちゃん、おばあちゃんですよ。
彼女がそっと声を掛けると、名前を呼ばれたことに気づいたのか、うすく目を開いた。

チリン、チリン。

彼女は手に持っていた鈴を鳴らし、ミルクのにおいがする柔らかな頬にキスをした。

記念すべき1回目のキスね。
また、うれしそうに笑った。

ふにふにと小さく前置きをして、元気な泣き声が上がる。
娘も目を覚まし、白い部屋がとたんに賑やかになった。

窓の外に、青い空があった。

サンドウィッチを頬張っていた若者の姿は、もうない。

<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?