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災害関連死
大きな災害時(地震や津波等)の直接の被害は免れても、避難所又は施設等における生活等において死亡するケースである。様々な原因があるだろうが、避難生活(普段の生活環境から一転した劣悪な環境下)からのストレスなど、「救えたはずの命」とも言われている。阪神・神戸大震災時で教訓を得たので、各自治体で対応しているものの、上手く運んだケースもあれば、熊本地震時のように直接被害の犠牲者よりも関連死の方が圧倒的に上回るケースも発生している。自治体の規模や能力の差もあるだろうが、肉体的・精神的疲労又は負担等が圧倒的であり、やはり高齢者が抜きん出ているが、弱者への負担だけでなく若い人にもみられるとの事。

せめて時期的な事だけでも配慮してもらいたいものだが、自然が相手なのでお正月や冬季時に来ないで!とも言えない。デジタル通信等、デジタル社会は上手く活用できれば便利で何よりだが、電源が入らず通信も出来ない状態では無力である。特にこれらに依存している社会では、電源・通信等が確保できなければ、災害時などには効力も機能も皆無である。

私たちの大半の仕事は「サービス」という役務提供における対価の収入というのが原則論にあり、様々な産業媒体があり、企業や個人の得手不得手によって業種ごとに働いている。デジタル社会に入り、デジタルアプリやソフトを活用する分にはとても便利で国や自治体、金融機関などの手続き等も、全てITを使用して完結できる。人がいない分、手数料も無料もしくは僅かで済むし、何よりも時間の制限もなく煩わしくなく活用できるので便利極まりないのである。あらゆる情報も瞬時に取得することもできるし、株の購入もアプリを利用すれば人の仲介などは必要ない。

ただ、このデジタルで不可能なのが「人に会うという行為」である。私たちの大半の仕事の原点に帰れば「人に会うという行為」だけは、デジタルに変換することはできない。その内、ロボットが対応したり、仮想空間的な社会が生まれるだろうが、直接、生身の人間に会う行為だけは、どうしてもデジタルでは不可能である。

近年の災害を見て思うのは、暖かい食事や暖かい環境で寝起きをしている外野で騒いでいるSNS等の発信は、その殆どが正しい情報では無い。余りにも乖離があり過ぎるし、素人の個人的な解釈による意見にも満たない戯言であることは間違い無いだろう。専門家でも慎重になっているのに、素人の発言には信憑性もなく、単に戯言と言わざるを得ないだろうが、なぜかバズっているのである。この「バズる」という表現さえ、私も最近知ったのだが、残念ながらそういう時代だからしょうがないのだろうか。。。自衛隊の出動や人員数、国や自治体、医療体制の問題など、意見を言える立場では無いのに、なぜかバズっているのである。バズっている事が、正当的な評価を受ける新しいデジタルビジネスの入り口である。

自衛隊の「御用聞き隊」というのが、報道されていた。普段から体を鍛えている屈強な訓練生達しか辿り着けない被災地域での情報収集である。正確な情報収集が出来なければ、正しい救援判断ができないからである。救援物資も潤沢では無いので、むやみにやたらに提供するものではなく、本当の意味で必要な物資の支援である。そして何よりも「人の行動」、そして「人との会話」、生身の人間達とのコミュニケーションが最も重要な「ケア」に繋がっているのである。「心のささえ」、これは「アナログ」でしか対応できないのである。

肉体的・精神的疲労や負担というのは、デジタルでは拭う事はできないと思われる。幼児の火傷で痛ましい死亡事故の報道もあった。病院や医師の対応にも問題はあると思われるが、容易には語れないそれ以前の問題もあるだろう。誰が悪いのではなく、災害時というものが、これほど困難な問題を引き起こすことに、無念で仕方がない。

災害場所の問題もあるだろう。豪華客船を用意した方が良いとか言われているがあくまでも現地の「情報」を知らない評論家の意見にしか過ぎない。隆起だらけの海岸、山岳地帯、豪雪地域、海、空、陸から、どのようなアプローチ方法が適切なのかもわからない中で隊列を組んで、徒歩で対応している自衛隊の隊員は、少しでも前へという気持ちで駆けつけている。しかも自分たちの寝食は一切の映像は流さずにだ。

都心部のタワーマンションに住む理由があるのだろうか、四六時中ネオンや電子騒音に囲まれ無ければならない理由があるのだろうか、デジタルの普及は、一極集中の経済活動に終焉をもたらせてくれるかも知れないが、畑でビール飲みながら、無農薬野菜を食べながら、顔見知りの近所の付き合いで、子供の成長や高齢者の役割もみんなが共有している社会(コミュニティ)。お金は対価であるが、お金の代わりでも無い、物々交換で成し得た社会があった。ほどこしでも無い、哀れみでもない、助け合いである。共助である。これが原点であろう。〇〇主義とか関係の無い、戦争や紛争も無縁の社会であり、人類も生物も、そこからスタートしているのである。

災害関連死の大半が高齢者である。高齢者は昔の人である。昭和世代の大先輩である。自分のことよりも、子供や女性をかばい、人のために「我慢」している人達ばかりが犠牲になっている。せっかく救助に来ても、何も言わないのである。今、必要なモノがあっても、困った人から優先しろと譲り合っているのである。日本人としての気質かも知れないが、都会では、私の住む街では、我先にと電車に乗って椅子取りゲームだ。体力ゲームなら若い人ほど有利で高齢者や障害者が公共の場に立っている。妊婦が目の前にいても寝たふりだ。元気な若者が公共施設で座っていたり、お参りだって我先精神で揉めている人を見掛ける始末だ。一方で年末のコミケイベント?毎年のように来場人数も更新しており、海外からもわざわざ訪れるらしい。その人数は20万人を超えるとか。しかも隊列を組んで、まさかの整列入場。一切の文句も言わず、イベントを楽しんでいるのである。

私は昭和の人間だから、大先輩に教えてもらった事がある。「備蓄は米と味噌だけで良い。後は何とかなる。」土で野菜がとれる。海で魚がとれる。そして、家族やみんなで笑うこと。テレビもお金も全く必要が無いとは言わないが、使い道は限られているもんだという。しかも、病院には縁がなく健康だって。「先生」と名前の付く人達も、みんな友人(ともだち)だってさ。だって「先生」と名の付く人達は、殆どお金を持っていない、みんなで世話をしている「貧乏人」なんだそうだ。