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みんな光ってくれていたらと思うよ


 DAOKOの一番星の冒頭、“嫌いなあの子が死体になっちゃっても、誰も気にしないんだろうなあ” の歌詞の意味がまったく、本当にまったくわからないまま、16歳も17歳も18歳も19歳も過ぎてしまった。だってそんなわけないし。気にするに決まってる。世界の中心はわたしではないのだから。
 けれどこの歌い出しほど、わたしの心に引っかかっている歌詞はほかにない。心にすとんと落ちずにずっと、処理できないまま頭の片隅に残され続けている。

 わたしは、そのひとの名前の漢字とか、声の聞きごこちとか、顔の細かい特徴とか、体感としての身長とか、髪の毛の質感とか、そういうものをぱっと取り出せなくなるくらいに、そのひとと遠く遠く離れられたら、無条件でそのひとの幸せを願うことができるようになる。ちゃんと関わっていたときにどれだけ嫌いだったとしても。冷える日にはあたたかい場所で鍋でも食べていてほしいなと思うし、気の合うひとたちと好きな話をたくさんしてくれていたらいいなと思う。
 高校生のときに信じられないほど嫌いで、心のなかで何度も何度もナイフを研いだひとのことも、いまはなにも思わない。本当にただ、にこにこと笑顔で暮らしてくれていたらなあと思う。それ以上でもそれ以下でもなく。
 意外とみんなそうなのかも。あまり、自分以外のひとにこんなことを聞いたことがないからわからない。もしくは、わたしが心底恨んでしまうようなひとと出会ってこなかっただけかもしれない。し、嫌いだと思い続けるだけの興味や関心がそもそもなかったのかもしれないし、思い続けられる精神力がなかったのかもしれない。そのあたりもよくわからない。

 まあ、けれどつまり、そういう考えがずっと心のなかにあるから、かはわからないけれど、いくら嫌いなあの子でも、死体になってしまうのは本当に嫌なのだ。悲しいじゃんそれは。
 しかも誰も気にしないわけないし。誰かは絶対気にするし、悲しむわけだ。少なくともどれだけ離れていたとしても、話を聞いたらわたしは悲しむよ。約束する。

 でももしかすると、みんなずっと、自分の嫌いなあの子ともインスタが繋がっているから、ヘイトが薄れることなく溜まり続けるのかもしれない。そのひとのアカウントを目にするたびに嫌だったことを思い出して、けれどそのひとの投稿はどうにも幸せそうで、それもまた嫌で……の繰り返しで、どんどん蓄積されていく。のかも。
 そういうことなら、わたしにはわからない。嫌いなあの子のSNSは全部消してしまったし。

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