銀座に買い物に出かけた。1回目はホワイトデー(職場の義理チョコのお返し)、2回目はホームパーティの差し入れだ。立ち寄ったのは伊勢丹で、ついでに晩御飯の弁当を買いに行く。
高価格帯の弁当には共通したフォーマットがある。たくさんの種類のおかずが少しずつはいっている、少量多品種であるということだ。
「一度の食事で沢山の味を経験したい」とちう人類の欲望を叶えるには、その分高いお金を出しなさいということだ。
家で自炊をして残りものが溜まってくると、結果的に少量多品種になることはある。しかし、全てのおかずをできて間もないタイミングで食べられるという点が、お弁当と自炊の違いだ。
高価格には当然ながら納得できる説明が求められる。それは己の退路を断つということだ。普通の人間は先行きが見えないのにリスクを負うことを嫌う。そこをあえて引き受ける矜持に人は惹かれるのである。
最近、Chat GPTを触りながら、「人間の存在意義って何だろうな」と思うことが増えた。そして、食を通じて見えてくる情緒をより強く感じるようになった。
たとえば、ChatGPTではこんなやり取りもできる。
(私の命令文)
(Chat GPTからの回答)
入力情報をしっかり補ってやればここまでの回答が出て来るのだ。私たちが自分の価格(=給料)の説明責任を求められる日も近そうである。