【現代語訳】幸田露伴「運命」10 白溝河の戦い&済南城の戦い

今回は「白溝河の戦い」と「済南城の戦い」を訳しました。合戦シーン多め。

【私訳】
年は改まり建文二年となった。燕では洪武三十三年である。
燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下して大同を攻めた。李景隆は出軍しこれを救おうとしたが燕王はそれより早く居庸関に入って北平に帰ったので、景隆の軍は寒さに苦しみ、移動するに疲れて戦わずして自滅した。
二月、韃靼の兵が来て燕を助けた。春になって暖かくなれば景隆と戦うことになることを考え燕王が援軍を要請したのである。
春もたけなわになると南軍(建文帝軍)に勢いが出て、四月初め、李景隆は兵を徳州に集め、郭英、呉傑は真定に進軍した。
ここで建文帝は巍国公・徐輝祖に三万の兵を与え急ぎ彼らと合流させ、李景隆、郭英、呉傑らの軍勢は合わせて六十万となり百万と号して白溝河に留まった。
南軍の将の平安は勇猛で、かつて燕王に従って塞北で戦ったこともあり、王の用兵術について詳しかった。
そのため平安が先鋒となって燕軍に突っ込み矛を揮って進み、瞿能父子もまた勇ましく戦った。二人の将軍の向かうところ、燕兵は退却した。
夜になって燕王は張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳亨を右軍に、丘福を騎将とし、騎馬と歩兵を合わせ十余万が夜明けに河を渡った。
南軍の瞿能父子と平安らは房寛の陣を突き、これを破った。張玉たちはこれを見て怯んだ。燕王は言った、勝ち負けがあるのはいつものことだ、おまえたちのために日中のうちに敵を破ってみせようぞ。
そして精鋭数千を指揮して敵の左翼に突入した。王の子である高煦も張玉らの軍を率いて同様に進軍した。
両軍は激突し、一進一退の攻防を繰り返した。喊声は天を揺るがし、飛ぶ矢は雨のようであった。
燕王の乗る馬は三度傷を負い、王は三度馬を換えた。王は弓で奮戦したものの、三つあった矢筒の矢が尽きてしまった。
そこで王は剣を抜き、周りの兵に先んじて敵陣に斬り込み、右に左に剣をふるった。そのうち剣が折れて欠けてしまい、攻撃できなくなった。
そんな折も折、瞿能と出くわした。王はもう少しで彼に追いつかれそうになった。
王は急に川の堤防に上ると、手にした鞭を差し招き、あたかも後続の者がいるかのようなふりをして、辛うじて攻撃をかわし、その後また兵を率いて馬を駆り戦った。

南軍の将・平安は巧みに槍刀を使いこなし、向かうところ敵なしであった。燕将・陳亨は平安に斬られ、徐忠も傷を負った。燕王の子・高煦はこの窮地を見て精鋭の騎兵数千を率い、王と合流しようとしたが、それを見た瞿能が再び猛攻し燕を滅ぼせと大声で叫んだ。
その時たまたまつむじ風が巻き起こり南軍の大将の大旗を折った。南軍の将兵はこれをみて驚き動揺した。
好機と見た燕王は騎兵でその背後に回り込み高煦の騎兵と合流し、瞿能父子を乱戦のうちに殺した。平安は朱能と戦って敗れた。南軍の将であった兪通淵、勝聚らは皆戦死した。
勢いに乗った燕兵が陣に迫り火を放つと、突風は火を煽った。
ここにおいて南軍は総崩れとなり、郭英らは西に逃げ、景隆は南に逃げた。兵器と軍用品は全て燕が手に入れ、南軍の兵の死体は百余里に及んだ。残っていた軍団もこれを聞いて全軍が散り散りになった。
この戦いで無傷で退却したのは徐輝祖の軍のみである。南軍には瞿能、平安など勇将もいなくはなかったが、李景隆が凡庸で彼らを率いる大将軍の器ではなかった。
これに対し、燕王と子の高煦は二人とも生まれつきの豪傑であり、また張玉、朱能、丘福らも勇猛であった。北軍が勝ち南軍が潰えたのはまことにもっともなことであった。

山東参政の鉄鉉は儒者から身を起こし、かつて疑獄事件を裁判し太祖の信任を得て、鼎石という字をうけたまわった者である。
北征軍が出ると彼は兵糧を輸送するため景隆の軍のもとに赴いた。しかしその最中、李景隆の軍が潰滅し諸州の城がみな情勢をみて燕に降伏してしまい、仕方なく臨邑に止まっていると南に帰ろうとしていた参軍の高巍と出会った。
ふたりとも文官であるものの、この戦いで目の前で官軍が大敗し、賊軍の勢いが盛んなのを見て、憤激も極まった。
高巍が燕王に書を奉ったが効果のなかったことを嘆けば、鉄鉉は忠臣として死ぬ者が少ないのを憤る。慨世の嘆き、憂国の涙、二人は顔を合わせてさめざめと泣いたが、酒を酌み交わして盟友の契りを結ぶと済南に走りそこを守った。
敗走した李景隆が済南に身を寄せると、燕王は勝利に乗じて進軍した。燕兵が済南に到着したときには景隆にはまだ十万余りの兵がいた。しかし戦ってまた敗れ景隆は一人、馬で逃げた。
燕軍の勢いはいよいよ盛んになって済南城を落とそうとしたが、鉄鉉は左都督の盛庸、右都督の陳暉らと力を尽くして防いで志を堅くして城を守り、日が経っても屈しなかった。
このことを朝廷が聞いて、鉄鉉を山東布政司使、盛庸を大将軍にして、陳暉を副将軍に昇進させた。
李景隆は召還されたが、黄子澄・練子寧が景隆を死刑にしなかったらどうやって国家~兵を励ますというのですかと言っても、建文帝は結局責任を問わなかった。

燕王は済南を囲むこと三月に至ったが、結局落とすことができなかった。それで城外の谷川の水を堰き止めて城内に注ぎ入れ水攻めにした。城中の者がその対応に苦慮していると鉄鉉は言った、
怖れるな、私に策がある。まず千の兵士を敵に遣わして偽降し燕王を城に迎えよう。それから王が入城するのに合わせ城壁から鉄板を落として殺すのだ。伏兵で橋も爆破しろ。

燕王はこの策にはまった。彼が馬に乗り~橋を渡って城に入ると、大きな鉄板が急に落ちてきた。しかし落とすのが少し早くて王の馬の首を傷つけただけだった。王は驚き、馬を替え城を出ようとした。そこで橋を爆破しようとしたが、橋が堅く断てないでいるうちに王は逃げてしまった。王はすんでのところで死ぬところであったが幸い難を逃れた。天の助けがあったのであろう。
王は激怒して城を砲撃した。城壁は壊れそうになったが、鉄鉉は屈せず太祖高皇帝の神牌を書して城壁高く掲げた。それで王は砲撃できなくなった。
鉄鉉はまた不意打ちで城から出て血気盛んな者たちで燕兵を脅かした。燕王は大層怒ったが策がない。
そんな折、軍師の道衍が書を寄越した、
兵は疲れています、しばらく北平に戻り出直しましょう。
王が包囲を解き軍を返すと、鉄鉉と盛庸らはここぞとばかり追撃し、ついに徳州を奪回したので官軍の士気は大いに上がった。
鉄鉉はこの功で抜擢されて兵部尚書となり、盛庸は歴城侯となった。

盛庸ははじめ耿炳文に従い次に李景隆に従ったが、洪武帝の時から武官であり戦について学んでいた。
済南を防衛し徳州を奪回したことで軍才を認められた彼は平燕将軍として陳暉、平安、馬溥、徐真らの上官として、呉傑、徐凱らとともに燕を討つ任に当たることになった。
盛庸は呉傑、平安に西の定州を守らせ、徐凱を東の滄州に駐屯させ、自分は徳州にとどまり、連携して燕を牽制しようとした。
燕王は、徳州の城が修築は完全に済んで防備も厳しく突破するのは難しいのに対し、滄州の城は長くこわれ崩れたままになっているのでこれを破るのは簡単だと思って、まずこれを下して盛庸の勢いを削ごうとした。
そこでまず表向きは遼東を制圧すると命令を下して滄州の主将・徐凱を油断させ、天津から直沽に到着すると、急に河に沿って南下するように命じた。兵たちはこの時その意味するところをまだ知らず、東を制圧しようとするのになぜ南下するのかと訝った。
燕軍は王の厳命により強行軍で三百里を進み、途中で偵察の騎兵に会うと皆殺しにし、一昼夜かけ夜明けになって滄州に着いた。
徐凱が燕軍が来たことに気付いたときには、北軍(燕軍)は四方から急襲していた。滄州の兵は皆驚いて防ぐことができなかった。張玉が進撃すると滄州城はついに攻め落とされ、徐凱と程暹、兪琪、趙滸らは皆捕虜となった。実にこの年の十月のことである。
 

【原文】
年は新になりて建文二年となりぬ。燕は洪武三十三年と称す。
燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下し、大同を攻む。景隆師を出して之を救わんとすれば、燕王は速く居庸関より入りて北平に還り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。
二月、韃靼の兵来りて燕を助く。蓋し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮りて、燕王の請えるなり。春闌にして、南軍勢を生じぬ。
四月朔、景隆兵を徳州に会す、郭英、呉傑は真定に進みぬ。帝は巍国公徐輝祖をして、京軍三万を帥いて疾馳して軍に会せしむ。
景隆、郭英、呉傑等、軍六十万を合し、百万と号して白溝河に次す。南軍の将平安驍勇にして、嘗て燕王に従いて塞北に戦い、王の兵を用いるの虚実を識る。先鋒となりて燕に当り、矛を揮いて前む。瞿能父子も亦踴躍して戦う。二将の向う所、燕兵披靡す。夜、燕王、張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳亨を右軍に、丘福を騎兵に将とし、馬歩十余万、黎明に畢く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛の陣を擣いて之を破る。張玉等之を見て懼色あり。王曰く、勝負は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為に敵を破らんと。既ち精鋭数千を麾いて敵の左翼に突入す。王の子高煦、張玉等の軍を率いて斉しく進む。
両軍相争い、一進一退す、喊声天に震い 飛矢雨の如し。王の馬、三たび創を被り、三たび之を易う。王善く射る。射るところの箭、三箙皆尽く。乃ち剣を提げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒折れ欠けて、撃つに堪えざるに至る。
瞿能と相遇う。幾んど能の為に及ばる。王急に走りて隄に登り、佯って鞭を麾いで、後継者を招くが如くして纔に免れ、而して復衆を率いて馳せて入る。
平安善く鎗刀を用い、向う所敵無し。燕将陳亨、安の為に斬られ、徐忠亦創を被る。高煦急を見、精騎数千を帥い、前んで王と合せんとす。瞿能また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。
たま〳〵旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相視て驚き動く。王これに乗じ、勁騎を以て繞って其後に出で、突入馳撃し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵、勝聚等皆死す。
燕兵勢に乗じて営に逼り火を縦つ。急風火を扇る。
是に於て南軍大に潰え、郭英等は西に奔り、景隆は南に奔る。器械輜重、皆燕の獲るところとなり、南兵の横尸百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。
此戦、軍を全くして退く者、徐輝祖あるのみ。瞿能、平安等、驍将無きにあらずと雖も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以てす。北軍の克ち、南軍の潰ゆる、まことに所以ある也。

山東参政鉄鉉は儒生より身を起し、嘗て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石という字を賜わりたる者なり。
北征の師の出づるや、餉を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰えて、諸州の城堡皆風を望みて燕に下るに会い、臨邑に次りたるに、参軍高巍の南帰するに遇いたり。
偕に是れ文臣なりと雖も、今武事の日に当り、目前に官軍の大に敗れて、賊威の熾んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上りしも効無かりしを歎ずれば、鉉は忠臣の節に死する少きを憤る。
慨世の哭、憂国の涙、二人相持して、泫然として泣きしが、乃ち酒を酌みて同に盟い、死を以て自ら誓い、済南に趨りてこれを守りぬ。景隆は奔りて済南に依りぬ。燕王は勝に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚十余万の兵を有せしが、一戦に復敗られて、単騎走り去りぬ。
燕師の勢愈旺んにして城を屠らんとす。鉄鉉、左都督盛庸、右都督陳暉等と力を尽して捍ぎ、志を堅うして守り、日を経れど屈せず。
事聞えて、鉉を山東布政司使と為し、盛庸を大将軍と為し、陳暉を副将軍に陞す。
景隆は召還されしが、黄子澄、練子寧は之を誅せずんば何を以て宗社に謝し将士を励まさんと云いしも、帝卒に問いたまわず。
燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂に下すこと能わず。乃ち城外の諸渓の水を堰きて灌ぎ、一城の士を魚とせんとす。城中是に於て大に安んぜず。鉉曰く、懼るゝ勿れ、吾に計ありと。
千人を遣りて詐りて降らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯いて大鉄板を墜して之を撃ち、又別に伏を設けて橋を断たしめんとす。
燕王計に陥り、馬に乗じ蓋を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易えて馳せて出づ。橋を断たんとす。橋甚だ堅し。未だ断つに及ばずして、王竟に逸し去る。燕王幾んど死して幸に逃る。天助あるものゝ如し。
王大に怒り、巨礟を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈屈せず、太祖高皇帝の神牌を書して城上に懸けしむ。燕王敢て撃たしむる能わず。鉉又数々不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅かさしむ。燕王憤ること甚しけれども、計の出づるところ無し。
道衍書を馳せて曰く、師老いたり、請う暫らく北平に還りて後挙を図りたまえと。王囲を撤して還る。
鉉と盛庸等と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大に振う。
鉉是に於て擢でられて兵部尚書となり、盛庸は歴城侯となりたり。

盛庸は初め耿炳文に従い、次で李景隆に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕将軍となり、陳暉、平安、馬溥、徐真等の上に立ち、呉傑、徐凱等と与に燕を伐つの任に当りぬ。
庸乃ち呉傑、平安をして西の方定州を守らしめ、徐凱をして東の方滄州に屯せしめ、自ら徳州に駐まり、猗角の勢を為して漸く燕を蹙めんとす。
燕王、徳州の城の、修築已に完く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰え圯るゝこと久しくして破り易きを思い、之を下して庸の勢を殺がんと欲す。
乃ち陽に遼東を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津より直沽に至り、俄に河に沿いて南下するを令す。軍士猶知らず、其の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途に偵騎に遇えば、尽く之を殺し、一昼夜にして暁に比びて滄州に至る。
凱の燕師の到れるを覚りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂に抜かれ、凱と程暹、兪琪、趙滸等皆獲らる。これ実に此年十月なり。
 

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