【現代語訳】幸田露伴「運命」11 東昌の激戦

【私訳】
十二月、燕王は河に沿って南下した。盛庸は兵を出してその後を襲うも追いつけなかった。
王はついに臨清に至り、館陶に駐屯し、次に大名府を奪いここで転進、汶上に至って済寧を奪った。盛庸と鉄鉉は兵を率いてその後を追い、東昌に陣を張った。
このとき北軍(燕王軍)は南にあり、南軍(建文帝軍)が逆に北の位置にあった。かくして北軍と南軍は戦わざるを得ない情勢になって東昌の激戦がついに始まったのである。
初戦は官軍(南軍)の先鋒の孫霖が燕将の朱栄、劉江のために敗走したが、それからは両軍は自重し、主力が動かないこと十日を越えた。
燕の全軍がいよいよ東昌に到着すると、盛庸と鉄鉉は牛を殺して将校と兵士を労い、義を唱え励まし、東昌の城を背に陣を張り、ひそかに火器や毒の石弓を連ねて、粛々と敵を待った。

燕兵はもともと勇壮のうえ、これまでずっと勝ちを重ね負け知らずである。盛庸の軍を見るや、太鼓を鳴らし鬨の声を上げて迫った。
するとたちまち火器が稲妻のごとく発射され毒の石弓が雨のように注いだので皆傷つき倒れた。
そこへちょうど平安の軍が到着した。盛庸はこのとき自ら采配をふるい大いに戦った。
燕王は精鋭の騎兵を率い盛庸軍の左翼を突いたが、左翼は動かず入ることはできなかったので、王は馬頭を転じ中堅を突いた。
盛庸は陣を開いて王が入るにまかせておき、急に閉じて厚く周りを囲んだ。
燕王は突撃して囲みを破ろうとしたが出ることができず、今にも捕虜になろうとした。
王が危ういのを見た朱能と周長らは、韃靼騎兵を放ち盛庸軍の東北角を攻め、盛庸がこれを防がせたので囲みがやや緩んだ。
朱能はその隙に分け入って死闘し王を助けて戦場から離脱した。しかしこの時、張玉もまた王を救おうとしており、王がすでに脱出したのも知らずに、盛庸の陣に突入、縦横に奮戦し、苦闘の末戦死した。
官軍(南軍)は勝ちに乗じ、万を超える死者を出した燕軍は大敗し逃走した。盛庸は兵を放ってこれを追撃し、多くの者を殺傷した。
この戦いで燕王はたびたび危険な目に会ったが、南軍の諸将は建文帝の詔を奉じて王を殺傷しようとはしなかった。
そして燕王もまたその事情を知っていたのである。
王は騎射に長けていたので、追撃する者は王を斬ることはできず、王に射殺される者が多かった。
たまたま高煦(燕王の次男)が華衆らを率いやってきて、兵を撃退し逃れることができた。
 燕王は張玉が死んだことを聞いて、ひどく悲しみ、諸将と語るたび東昌のことに話が及ぶと、張玉を失ってからというもの私は今まで寝食の折も心が休まったことがないといい、涙が止まらず諸将もみな泣いた。そして後に功臣をたたえた際、張玉を第一の功臣とし、河間王の爵位を与えた。

この戦いのはじめ燕王が出軍する際、軍師・道衍はこういったことがある。
「我が軍はいつも勝つでしょう、ただ両日を無駄にするだけです。」
東昌から北平に帰還すると、王は多くの精鋭を失い、張玉を亡くしたので少し時間をおこうとした。
すると道衍はいった
「以前言った「両日」とは「昌」(二つの「日」の字からなる)のことです。つまりこの東昌での戦いのことを言ったのです、しかしこの戦いはもう終わりました、ここからは全勝するだけです」
かくしてますます兵を募り、士気を奮い立たせた。

建文三年二月、燕王は自ら書をしたため涙を流しつつ戦死した張玉らを祭り、着ていた上着を脱いでこれを焼き、亡くなった者たちに着せる意を表しこう述べた。
一本の糸といえども私の心を察してくれ。
将卒の父兄子弟はこれを見てみな感泣して、この王のために死のうと思った。

かくして燕王はついに再び軍を率いて北平を出た。
将兵たちに諭していうには
戦場では死を怖れる者は必ず死に、生を捨てる者は必ず生き残る、おまえたち力を尽くせ。

三月、燕王軍は盛庸軍と來河で会戦、燕将・譚淵、董中峰らは南将・荘得と戦い死に、南軍はまた荘得、楚知、張皀旗たちを失った。
その日が暮れると両軍はそれぞれ兵を引いて軍営に戻った。
燕王は十騎あまりの兵を連れて盛庸の陣に近づいてそこで野営した。
夜が明けるとまわりは敵だらけである。
だが王は悠然として去った。
これを見た盛庸軍の将たちは驚いたが、建文帝の詔に自分に叔父殺しの汚名を着せないでくれとあるので矢を放ったりはしなかった。

この日再び両軍は戦った。
午前八時から午後二時まで両軍は互いに一進一退を繰り返した。
すると急に東北風が吹き荒れて砂礫が顔を打った。
南軍には向かい風だが、北軍には追い風である。
燕軍は声をあげ敵陣に突き進み鉦鼓の音は地を揺るがし、これには盛庸の軍も太刀打ちできず敗走した。
燕王が戦を終え自陣に帰ってくると、顔中土埃だらけで居並んだ将軍でさえわからず、声を聞いてようやく王であると気付いたという。
黄塵舞う中、王がいかに馬で駆け回り叱咤号令したか察せられるであろう。

呉傑、平安は、盛庸の軍の救援に向かおうとして、真定より兵を率いて出たが、來河まであと八十里というところで盛庸の敗れたことを聞いて真定へ帰還した。
燕王は真定が攻め難いとみて、燕軍は何回も兵を出し兵糧を消費したので陣に蓄えはないと流言し、呉傑らを誘い出そうとした。
呉傑らはこれを信じてついに滹沱河に出た。
王は河を渡り、流れに沿って二十里行軍し、呉傑軍と藁城で相見えることになった。
実に閏三月己亥のことである。
翌日両軍は大いに戦った。
燕将・薛禄は奮闘し、王は勇猛な騎馬隊を率いて呉傑の軍に突入し、大呼しつつ猛攻する。
これに対し南軍は雨の如く矢を飛ばし、王の建てた旗は降りそそぐ矢で針鼠のようになり、燕軍は多くの者が傷ついた。
だが王は屈せず、いよいよ突撃する。
するとまた暴風が吹き荒れ、樹を抜き陣幕を吹き飛ばした。
燕軍がこれに乗じると、呉傑らは潰走、燕兵はこれを追い、真定城下まで来て驍将・鄧戩、陳鵰らを捕虜にし、六万余りを斬首、すべての物資や器械を得た。
王はその旗を北平に送り、世子に諭していった、
これをしっかり保管して後世忘れることのないようにせよ。
旗は世子のもとに届いたがこの時、降将の顧成がその場にいて旗を見た。
顧成の先祖は船頭であった。
顧成は偉丈夫かつ勇敢で、怪力の持ち主であり、全身の花文は異様で人を驚かせた。
太祖に従い、そのそばを離れなかった。
昔太祖に従った時、その船が川を渡ろうとして座礁すると顧成は船を背負って浅瀬を渡ったことがある。
また鎮江の戦いで捕らえられ縛りあげられたが、勇躍して縄を断って、刀をもった者を殺して脱出し、直ちに衆を導いて城を落としたこともある。
その勇力を察すべきであろう。
後に戦功を積み重ね将軍となって、蜀を征伐し雲南を制圧し蛮族を平らげ、その勇名は世に知れ渡った。
建文元年、耿炳文に従い燕と戦ったが耿炳文は敗れ、顧成は捕らえられた。
燕王は自らその縄をといて言った、
先祖の霊がおまえのような猛将を私に授けてくれた。
そして挙兵した理由を語ると、顧成は感激して心を燕王に帰し、ついに世子を補佐し北平を守ることになった。
だがたいていは作戦を立てるだけで、最後まで将軍として戦うことを承諾せず、兵器を賜ってもこれを受け取ろうとはしなかった。
おそらく中年になってから書を読み何か得るものがあったのが原因であろう。
顧成もまた一種の人物であった。
後に世子の高熾が多くの小人たちのために苦しめられたときはこんな風に言った、
殿下は今はただ誠を尽くし孝行をなし、孜孜として民を恵みなさるだけです。万事は天にあります、小人相手に心を砕いてはなりませぬ。
識見が高いというべきだろう。
顧成はこのような人であった。
燕王から送られてきた旗を見ると、心を痛めなんと勇敢なことかと涙を流して言った、私は若いときから従軍して今は老いてしまったが多くの戦場を見てきた、だが今までこんなのを見たことがないと。
水滸伝に出てくる豪傑のような顧成にこんなことを言わせたのだから、燕王も悪戦苦闘したというべきであろう。
そして燕王が豪傑の心をもっているというのは実に王のこの勇往邁進、危険を冒して避けない雄風にこそあったのである。

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