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【掌小説】放し亀

ある朝、散歩の途中いつもと違う道を行きたくなった。
こんないい天気に道草の一つもしないのは勿体無い。
今日は休日だし、たまには寄り道をしてもいいだろう。
それでいつも通る橋を渡ると左へ折れた。
ここは川沿いの小高い土手になっていて左手は川、右手には似たような平家が土手沿いにずらずら並んでいる。
その中の一軒の庭に色とりどりの花が咲いていた。
写真に撮ろうと石段を降りたが、スマホを家に忘れてきたのに気づいた。
舌打ちしてバラが家の柵から覗く横を通り過ぎる。
いくらも行かぬうちに坂道の下にコンクリートの小さなトンネルが見えた
以前何度か見かけたが今だ入ったことがない。
入口から覗いてみると中は車一台がやっと通れるくらいの幅だ。
向こうに畑や林が初夏の陽光に照らされているのが見える。
薄暗いのでなんとなく怖かったが、ままよと入ってみると中はひんやりして静かだ
しかしなかなか向こうの畑や木が近づいてこない。
確かに前へ進んでるはずなのにずっと同じところで足踏みしているようだ。
おかしい、こんなに長いトンネルではないはずだ。
気味が悪くなって引き返そうとしたら途端にゴォッと音がして向こうの畑や木がいきなりこっちに飛んできた。
逃げるヒマもなかった。
とっさに両腕で顔を覆い目をつぶったがしばらくすると何やら辺りが騒がしい。
目を開けると畑や林なんてどこにもない。
いきなり風呂敷包みを持った娘とすれ違った。
と思ったら編み笠を被った侍もやってくる。
天秤棒を担いでいる男もいる。
棒の両端の桶の中にはウリだのナスだの野菜が溢れんばかりに入っている。
通りの両側には商家らしき家が並んで客が盛んに出たり入ったりしている。
まるで時代劇の中にでも入ったかのようだ。
呆然と周りを見回していると急に近くで甲高い声が響いた。
振り向くと、上半身裸の男がこっちへ突進してきたので慌ててよけた。
遠ざかっていく男の右の肩の上から釣竿のような長い棒が伸びてその先に紙のようなものがひらひらしている。
もしかしてあれが飛脚か。
その時ようやく自分が侍の格好をしていることに気づいた
こうした着物はなんて呼ぶのか知らないが紺のぱりっとした一張羅で腰には刀、頭を触るとちゃんと髷がある。
さっきのトンネルはタイムトンネルってやつだろうが、姿格好まで変えてくれるなんてえらく親切だ。
後を振り返ると薄暗い路地がある。
どうもあそこから出てきたらしい。
となるとあそこから帰れるはずだ。
一瞬帰ろうかと思ったが、せっかく江戸(?)にきて姿まで侍にしてもらったというのにすぐに帰るのもつまらない、少しそこらを見物してやろう。
それで歩き出したが周りの者が皆自分をびっくりしたように見る。
背が高いので驚いてるらしい。
自分の身長は170ちょっとだからそれほどのっぽでもないがここを歩いてるとどう見たって頭一つぶんは高い。
なんだか大男になった気がする。
それにしてもスマホを忘れたのが残念だ。

川に出た。
柳が垂れる下で男たちが運んできた米俵を肩に担いで陸にあげている。
川面が陽光を反射して眩しい。
男たちの顔も汗に光っている。
その向かいの酒屋の前では町人二人が床几に腰掛けてのんびり酒を飲んでいる。
「きっつぁん、そりゃあいけねえよ、そいつは剣呑だ」
通り過ぎる際そんな声が聞こえ二人とも大声で笑った。
きっつぁんというのは名前だろうか。
吉兵衛とか吉右衛門とか・・何が剣呑なのだろう。
そんなことを思いながら歩くうち大きな橋に来た。
これまた大層な人だ。
街の老若男女、職業や年齢も様々な者が漏斗の口の如く一ヶ所に流れ込んだようだ。
ふと橋の下を見ると川のほとりに小屋が建って子供含め数人集まっている。
(なんだろう)
興味が湧いて石段を降りた。
近づいてみると小屋の前に大きな板が立てかけてあって筆で黒々と「放し亀」とある。
板の横には木製の物干しをうんと小さくしたようなのがあって横に渡した木の枝から亀が数匹ぶら下がっている。
その前には10歳くらいの男の子がしゃがんで亀を見ている。
「お侍さんやってかないか。功徳になるぜ」
近づくと亀売りが声をかけてきた
にわか作りでも一応侍に見えるらしい
「どれも4文だ。どうだい安いだろう。やってきねえ」
やってもいいが金がないと言うと
「そりゃあ仕方ねえな。金もってまた来てくんなせえ」
白い歯を見せながら亀売りは傍らに来た男の子の手から金を受け取った。
男の子はたちまち亀をぶら下げて川べりへかけていく。
するとそばの床几に腰掛けていた煙管を吹かしていた爺さんが
ここに4文ある、これでやりなさいといって懐から金をだして自分に渡そうとした。
驚いて、申し出はありがたいがなぜと理由を問うと
何、こうしたことも功徳を積むことじゃろうからな、遠慮せずに受け取りなさい
気持ちはありがたいが貸してくれても返せないと言うと
何あげるのだ、返す必要などない
そう言って微笑した。
宗匠頭巾をかぶった上品そうな老人で何か裏があるようにも見えないしせっかくの好意を断るのも悪い気がする。
それで礼を言って金を受け取り亀の品定めをした。
亀は大小含めて五匹、ほとんど首や足を引っ込めているが
中に一匹だけ足を出したままぐったりしてるのがいた。
死んでるのかと思って片足を指でつつくと弱々しくその足を動かした。
自分はそれを買ってさっそく川のほとりへ持っていった。
急に川の水のにおいが鼻についた。
なんだか懐かしいにおいだ。
川べりにしゃがんで亀を縛っていたひもをほどこうとしていると
「ああだめだだめ」
急に後ろで声が聞こえ振り向くとさっきの爺さんだ。
「ほどく前にちゃんと祈らんと。こう、亀を川の方に向けて、の手を合わせて」といろいろ手ほどきをしてくれる。
「詳しいですね。だいぶ亀を放されたのですか」
「ああ物心ついた時からずっとやっとるよ。亀だけじゃのうてスズメやウナギもな。」
「スズメやウナギもですか、じゃあ亀の分と合わせると随分、その、ええと、功徳になったでしょう」
「まあそのはずじゃが・・どうも最近は恩知らずじゃな」
「恩知らず?亀がですか」
老人は返事をしない。
急に唇をへの字に曲げて黙ってしまった。
何か気に障ったのだろうか?
「まあもともと放し亀というのは御利益より殺生を戒めるために始まったものですからね」
自分は場を和ませようと言った。
以前ネットで読んだことをそのまま言ったのである。
すると老人は急に顔を青空に向けてカラカラと笑った。
「あんた、嘘ついたらあかん。」
そう言って自分の顔を見た。
目が朝露のように光っている。
「戒めじゃいうてもなにかしら見かえりを期待しとるじゃろ。金だの名誉だのをーいやなにもいわんでええ。人間はそんなもんじゃから」
微笑しながらそういうと川の方に顔を向けた。
「わしがお前さんに金を出したのは商売繁盛のためよ。それだけじゃ。他はなんもない」
自分は正直な人だと思った。
足元の亀に視線を戻すと依然としてぐったりしている。
自分は亀に手を合わせ祈った。
なんでも金だの名誉だの随分欲張って願をかけたようである。
ただ、元の世界に無事帰れるようにとは祈らなかった。
それから亀のひもをほどいて川に放してやった。
亀はたちまち足を動かしあっと言う間に見えなくなった。
ついさっきまでぐったりしていたとは思えない。
立ち上がると老人は既にいなくなっている。
振り返ると既に石段を上がっていくところだった。
自分も上がろうとしていると
「いやあ、珍しいこともあるもんだ」
と亀売りが言った。
「何が珍しいんだい」
「あの爺さんでさ。分限者なのにケチで有名でね、やたらと値切るんでさ。それが人のために金を使うなんて」
「へえ」
「さっきも安くしろってうるさかったんですよ。今までずっとお前のとこで亀を買ってきたんだからと言ってね。それが毎回ですぜ。たまったもんじゃない」
「この近くの人なのかい」
「爺さんですかい。ええ、若い頃回船で一山あててね、今は息子に商売任せて楽隠居でがす」
「最近は恩知らずじゃな」
自分は急にそう言った時の不機嫌な顔つきを思い出した。

上に戻って橋を中ほどまで渡った時であった。
ふと欄干から下をみるととさっきの亀売りが川の中に入っている。
着物の裾をたくし上げ何やらじっと川面を見ている。
と、いきなり右腕をざんぶと水に突っ込んだ。
引き抜いたときには何か黒いものを掴んでいる。
キャッチアンドリリース、リリースアンドキャッチ。
わかっていたとはいえ、自分は落ち着かない気分になった。
あれは自分の放した亀かもしれない。
亀といえど水中では多少はすばしこくなるだろうがああいったプロにはかなわない。
あっという間につかまってまた吊るされるのだ。
考えてみればあの亀があんな風に弱っていたのも川と店とを散々往復したせいではあるまいか。
そうであるなら自分はますます酷い目に遭わせたのかもしれぬ。
それなのに自分は特に弱ったものを選んでよりたくさん御利益をうけようとしたのだ。
「人間はそんなもんじゃから」
再び老人の言葉が口調も表情もそっくりそのまま再生された。
橋の上はいよいよ人の流れが激しくなって橋板を踏む音もドタドタしだした。
話し声が遠くから近くからしきりに聞こえるがそれが全部何を言っているのかわからない。
自分はその流れの中に沈んで、頭だけ空に突き出している。
さてどうしたものか。

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