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【現代語訳】幸田露伴「運命」9

【私訳】
李景隆は大軍を率いて燕王を討とうと北上した。建文帝は北方を憂う必要はなくなったとして文治に専念し、儒臣の方孝孺らと周礼の制度を討論して日々を送ったが、この間、監察御史の韓郁(韓郁或は康郁)という者が時事を憂い、上書を奉った。
その内容は黄子澄と斉泰を非難し、残酷で愚かな儒者だといい、諸王は太祖の遺体であり、孝康(第2代皇帝建文帝の父・朱標)の手足であるとして、彼らを厚遇せずに周王・湘王・代王・斉王を不幸な目に遭わせたことは、朝廷のために計る者の過ちで~諺で「親者之を割けども断たず疎者之を続げども堅からず」と言うのはまことに道理、~願わくは斉王を許し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧めて、戦争をやめご親戚を大事になさって下さい、そうしなければ十年を待たずして必ず後悔なさるでしょう、上書はそんな内容であった。
その論、人の守るべき道を大事にし動乱を鎮めようというのはよい、斉泰と黄子澄を非とするのもよい、ただ時機が去って勢いがすでに成った後でこうしたことを言ってもやはりもう遅い。帝は結局用いようとはしなかった。

李景隆が耿炳文にとって代わると、燕王はその五十万の兵を怖れずに、その~敗兆を指摘して私がこれを虜にするだけだといい、諸将の言を用いずに、北平を世子(後の第4代皇帝・洪熙帝か)に守らせ、東に出て、遼東の江陰侯・呉高を永平より駆逐し、そこから転じて大寧に至って~に入った。景隆は燕王が大寧を攻めたのを聞いて、軍団を率いて北進し、ついに北平を囲んだ。
北平の李譲、梁明らは世子を奉って防衛に努めたが景隆の軍勢が多く、将軍として優れた者もいて、都督・瞿能の如きは張掖門に攻め入って大いに奮戦し、ほとんど城門を破った。しかし景隆の器の小さな事よ、能が功をなしたのを喜ばず、大軍が来るのを待ってから進軍せよと命令し、機に乗じて突撃しなかった。
ここにおいて守る者にとって好都合になり、毎晩水を汲んで城壁に注ぐと、寒さのためたちまち氷結して、次の日になると登ることができなくなった。燕王はあらかじめ景隆を自分の守りの堅い城の下で殲滅するつもりだったので、景隆が既に矢頃に入ってきたのをどうして矢を放たないことがあろうか。
燕王は太寧より戻ると会州に至り、五軍を立てて、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬を右軍に、徐忠を前軍に、投降した将軍房寛を後軍の将にして南下し、京軍と向かい合った。
十一月、京軍の先鋒の陳暉が河を渡って東に進んだ。燕王は兵を率いて到着し、河を渡るのが難しいのを見て黙祷していった、
天よ、もし私を助けたいのであればどうか河の水を凍らせ給え。
すると夜になって河の水は凍った。
燕軍は勇躍して進軍し、陳暉の軍を破った。
景隆の兵が動く。
燕王は左右の軍を展開し挟み撃ちにし、七つの営を破って景隆の営に迫った。張玉らも陣をつらねて進軍し、城でもまた兵を出し、内からも外からも攻めた。景隆は支えることができずに逃れ、他の軍も兵糧を棄てて敗走した。
燕の将軍たちはここにおいて頓首して王の采配は誰も真似できませんと祝った。
燕王はいった、
「なに単なるまぐれだ、諸君の言った策はみな万全のものだった。」
戦いの前には断行し、その後では謙遜する。
燕王は英雄の心を掴むのも巧みであった。

李景隆の大軍は功なく退いて徳州の守りについた。
黄子澄はその敗戦を帝に報告せず、十二月になってかえって景隆を太子太師の官に就かせた。燕王は南軍(建文帝軍)を寒さに乗じて奔命に疲れさせようと軍を出し広昌を攻めてこれを降伏させた。

以前上奏して削藩を諫めた高巍は、言が用いられず、ついに天下動乱になったのを嘆いて、書を奉って、私をどうか燕に使わし一言述べさせてくださいと願い、許されて燕に至り、書を燕王に奉った。
 その概略は以下の通りである。

太祖が亡くなってから大王と朝廷とが不和になろうとは思ってもみなかった。私が思うのに戦争するよりは和解したほうがいい。自分は死んでもいいから大王に謁見したい。昔、周の周公は流言を聞いて〜。もし大王が首謀者を斬り、護衛兵を解き、子孫を人質にし、~の疑いをとき、残った賊が仲違いさせようとする口を塞げば、周公のように~。
それなのにこのことに考慮を及ばせなさらず、出兵し襲撃なさった。〜
今大王は北平を拠点とし数郡を取りましたが、この数ヶ月でなお小さな片隅の地を出ることができず、これを天下と比較すれば、十五のうちまだその一をも所有していない。
大王の将士も、疲れてないことがありましょうか。
大王の統率される将士も大体三十万を越えることはないでしょう。
大王と天子は君臣であり親も血がつながっているのに、なお仲が悪い、三十万の~どうして ~殿下のために死なねばならぬことがありましょう。
自分はこう思うごとに大王のために泣けてしかたない。
願わくば大王私の言葉を信じて、上表し謝罪して武具を脱ぎ兵を休めなされば朝廷も必ず罪をお許しましょう、天も人もともに喜んで、太祖の霊もご安心されるでしょう。
もし血迷って引き返さず、小さな勝ちに拘り、大義を忘れ、少ない兵で大軍に刃向かい、やってはいけない道理に外れたことを~をあえてすると言うのなら、私は大王のためにもう何も申すことはありません。
まして喪に服す期間もまだ終わらぬのというのに、無辜の人民は驚いております。
仁を求め国を守るの道理と隔たりがあるのも甚だしい。
大王に朝廷を粛清する誠意がありましょうとも天下に嫡流を簒奪するのに異議のないわけがないでしょう。
もし幸いに大王がお敗れにならず簒奪に成功したとしても、後世の世論は大王をどのような人と言うでしょうか。
私はもはや白髪の書生でもうじき死ぬはかない身です、もとより死を怖れてはおりません。
洪武十七年、太祖高皇帝のご恩を受けて~
孝に死に忠に死ぬのは自分の望むところです。
幸いにも天下の為に死んで太祖の霊に見えることができるなら、自分も恥ずべきことはありません。
自分は真心からこう申しておるので
~死を賜っても悔いはありません、どうか大王考え直してください、と憚ることなく申し上げた。
 
しかし燕王は答えなかったので、何度も書を奉ったがすべて効果はなかった。

高巍の上書は人情の純、道理の正しさに立論したものである。燕王がこれに対しどう思ったかはわからない。ただ燕王はすでに決起し開戦したのであって、巍の言葉はもっともだが、大河はもう決壊し一本の葦がこれを支えるのは難しい。
だが巍は誠実を尽くし信念をもって申し上げたのであって、その心と言葉は忠孝敦厚の人というにそむかず、数百年後の今でも、なお読む者を悲しませるものがある。
高巍と韓郁は建文の時、人情の純粋さと道理の正しさにおいて言を為した者である。

【原文】
李景隆は大兵を率いて燕王を伐たんと北上す。帝は猶北方憂うるに足らずとして意を文治に専らにし、儒臣方孝孺等と周官の法度を討論して日を送る、此間に於て監察御史韓郁(韓郁或は康郁に作る)というもの時事を憂いて疏を上りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康の手足なりとなし、之を待つことの厚からずして、周王湘王代王斉王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為に計る者の過にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為し、諺に曰く、親者之を割けども断たず、疎者之を続げども堅からずと、是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧め、干戈を罷め、親戚を敦うしたまえ、然らずんば臣愚おもえらく十年を待たずして必ず噬臍の悔あらん、というに在り。其の論、彝倫を敦くし、動乱を鎮めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既に去り、勢既に成るの後に於て、此言あるも、嗚呼亦晩かりしなり。帝遂に用いたまわず。 

景隆の炳文に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆を具せるを指摘し、我之を擒にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平を世子に守らしめ、東に出でゝ、遼東の江陰侯呉高を永平より逐い、転じて大寧に至りて之を抜き、寧王を擁して関に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲、梁明等、世子を奉じて防守甚だ力むと雖も、景隆が軍衆くして、将も亦雄傑なきにあらず、都督瞿能の如き、張掖門に殺入して大に威勇を奮い、城殆ど破る。而も景隆の器の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟ちて倶に進めと令し、機に乗じて突至せず。是に於て守る者便を得、連夜水を汲みて城壁に灌げば、天寒くして忽ち氷結し、明日に至れば復登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱さんことを期せしに、景隆既に彀に入り来りぬ、何ぞ箭を放たざらんや。大寧より還りて会州に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬を右軍に、徐忠を前軍に、降将房寛を後軍に将たらしめ、漸く南下して京軍と相対したり。
十一月、京軍の先鋒陳暉、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷して曰く、天若し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果して合す。燕の師勇躍して進み、暉の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃し、遂に連りに其七営を破って景隆の営に逼る。張玉等も陣を列ねて進むや、城中も亦兵を出して、内外交攻む。景隆支うる能わずして遁れ、諸軍も亦粮を棄てゝ奔る。
燕の諸将是に於て頓首して王の神算及ぶ可からずと賀す。王曰く、偶中のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙す。燕王が英雄の心を攬るも巧なりというべし。

景隆が大軍功無くして、退いて徳州に屯す。黄子澄其敗を奏せざるを以て、十二月に至って却って景隆に太子太師を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌を攻めて之を降す。 

前に疏を上りて、諸藩を削るを諫めたる高巍は、言用いられず、事遂に発して天下動乱に至りたるを慨き、書を上りて、臣願わくは燕に使して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上りたり。
其略に曰く、

太祖升遐したまいて意わざりき大王と朝廷と隙あらんとは。臣おもえらく干戈を動かすは和解に若かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見えん。昔周公流言を聞きては、即ち位を避けて東に居たまいき。若し大王能く首計の者を斬りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質にし、骨肉猜忌の疑を釈き、残賊離間の口を塞ぎたまわば、周公と隆んなることを比すべきにあらずや。然るを慮こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉くことを得て、殿下文臣を誅することを仮りて実は漢の呉王の七国に倡えて晁錯を誅せんとしゝに効わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠りて数群を取りたもうと雖も、数月以来にして、尚蕞爾たる一隅の地を出づる能わず、較ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其一をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則ち君臣たり、親は則ち骨肉たるも、尚離れ間たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍が念こゝに至るごとに大王の為に流涕せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言を信じ、上表謝罪し、甲を按き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥あり、天人共に悦びて、太祖在天の霊も亦安んじたまわん。倘迷を執りて回らず、小勝を恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為す可からざるの悖事を僥倖するを敢てしたまわば、臣大王の為に言すべきところを知らざる也。況んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜の民驚きを受く。仁を求め国を護るの義と、逕庭あるも亦甚し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪するの批議無きにあらじ。もし幸にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何の人と謂い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣の微命、もとより死を畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩を蒙りて、臣が孝行を旌したもうを辱くす。巍既に孝子たる、当に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見ゆるを得ば、巍も亦以て愧無かるべし。巍至誠至心、直語して諱まず、尊厳を冒涜す、死を賜うも悔無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。

と憚るところ無く白しける。
されど燕王答えたまわねば、数次書を上りけるが、皆効無かりけり。

巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此に対して如何の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦を開く、巍の言善しと雖も、大河既に決す、一葦の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言と、忠孝敦厚の人たるに負かず。数百歳の後、猶読む者をして愴然として感ずるあらしむ。魏と韓郁とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正に拠りて、言を為せる者也。

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