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非日常的が日常になる-diary-

非日常的な日々が続いている。

外出自粛要請から非常事態宣言に切り替え約2週間経つ。
海外ではロックダウンがもう1か月にもなる。

仕事が休業になり自宅にいる人も、休むことも出来ずに外に出て働いている人も、みなそれぞれが当たり前だと思っていた日常が大きく変わってしまったことを強く実感するこの頃。

それなのに空は今日も青い。

呑気で長閑な日本

それでも日本はまだのんびりしてる。
海外のニュースではご遺体が袋のまま次々と運ばれ埋められたり、棺が積み重ねられていたり悼ましい映像が流れてくる。

世界の感染者数のグラフを見ると何千人単位で人が亡くなる。
アメリカの第二次世界大戦での戦死者が4年間で民間人・軍人含めても41万人ほどだと言う。

そのアメリカでは今回のコロナは感染が認められてからたった3ヶ月ですでに4万5,000人を超えている。
ヨーロッパでも毎日何千人単位で亡くなっている。ワクチンも特効薬もない状態でのこの数字がどんなものか想像するだに恐ろしい。41万人などすぐに超えてしまうかも知れない。しかもこの病気についての情報はまだまだ少ない。

そうは言っても私も1日1度は外に出て様子を見る。ネガティブなニュースや国や都の呼びかけとは裏腹に、仲良く家族や友だちと一緒にスーパーや公園で人が集まっているのが目立つ。
高齢者の方もご夫婦で仲良く買い物している。

スーパーになぜ子どもを連れて来るのかわからないけど、子どももけっこういる。これが昨年までだったら、ただただ微笑ましい状況なのだけど今は違う。

これだけ大勢の人間が集まれば、いまこの瞬間にも確実に感染は拡大しているのだろうなと思う。

ただの微笑ましい日常が非常識で恐ろしい光景に変わってしまった。そしてその光景を見ている自分も非常識に出歩いている1人にカウントされるわけだ。

スーパーに1日一回、往復1時間未満の外出とは言えかなりのリスクはある。

もしかしたら自分が既にキャリアであるかも知れない。何も気づかずにウィルスを媒介していたらどうしよう。妊娠検査薬みたいに自宅で判定できるキットでもあればいいのに。

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非日常が日常になる

今のこの非日常は日本中、いや世界中で同時に起こっている。外には出れない。人に会ってはいけない。

自分が感染するのも媒介するのも阻止したい。今まで何も疑問を持たずに普通にしていたことが突然できなくなる。常識が常識でなくなる。

人間、生活が激変すると元に戻ろうするホメオスタシスが作動して、不安になったりパニックになったり鬱になったりするものだ。私
は以前、生活が変わったことで鬱状態になったことがある。不安や焦燥感や罪悪感が押し寄せてくる。

しかし今回は不安になって周囲に相談したくても、周囲とて結局は似たようなもの。

生活不安と健康不安。政府にしても国連にしても誰に聞いても今のところ答えは出ない。

正解が見えない。こんな状態が長引けば外に出るのがもっと怖くなる。恐怖が心を支配する。
 
先の見えない未来はゴールを失ったも同然だ。どこに向かっているのかすら分からなくなる。

これまで映画や漫画では核戦争で世界が破滅するストーリーや謎のウィルスによって人類が滅亡に向かうストーリーや宇宙人に侵略されるストーリーがあまたある。

まさかと思うが今目のまえの現実にそれがある。もちろん人類の滅亡はないだろうけど価値観や常識は大きく変わる。そしてその現実は全く現実味を帯びていない。

考えると不安になるので考えるのをやめるのがいいが、そうもいかない。今自分たちにできることと言えばネガティブな情報に無用に怖れないことと、予防に努めることくらいしかない。

非日常がはじまり、世界はもう元には戻らないだろう。この非日常が近いうちにだんだんと日常になっていくだろう。コロナも恐ろしいがそれより怖いのは心の病いだ。心が折れると生きるのがつらくなる。たしかにその通りで心の病は怖れや不安が原因赤十字が恐怖を手放そうという動画をあげていた。


何のために生きるのか?

労働の在り方が変わりつつある。
働く意志があっても働く場所をやむなく休業閉鎖している人もいる。

生活の補償はどこまであるのかわからない。それでも今外で働いている人もいる。命がけだ。  どちらにしても『働くことの意味』を少しずつ皆考えはじめているのではないだろうか。いや考えてない人にも考えて欲しい。

何のために働いているのだっけ?
生活するため。
何のために生活しているのだっけ?
食べて寝るため。
何のために食べて寝るのだっけ?
生きるため。
何のために生きてるんだっけ……?

ここで思考が止まる。

もしここで、例えば子どものためとか家族のためとか答えられたならそれもいいだろう(しかし私には配偶者も子どももいないのでちょっと違う)じゃあ好きなことを生きがいにするため?だいぶ近い気がしてくる。でもそうなると、それをやるために働く、に戻る。働くことに個人がどれだけのモチベを持っているかは千差だが、
ゴールを見失いかけている今の社会で働くことだけを生きがいや目的にするのには危険を感じる。

しかも現状、働く以外の趣味や生きがいも奪われはじめている。

何のために生きる=働くためは正解ではない。

今の現状(あるいは傷病や高齢などの理由により)から働くことができない人がいる。
労働者がいないと経済が回らない、経済が回らないと生活ができない。

生活ができないと食べることができない。食べることができないと生きていけない。そして私の疑問はふりだしに戻る。

何のために生きるのか?

例えば動物たちに政治はない。縄張りやボスはあっても少なくとも貨幣経済はない。
今日を生き延びる食料を捕り、安心して眠る場所を確保する。子を作り育て独り立ちさせたら、また個になりそれを繰り返す。
やりがいや生きがいなど考えてはいない。

そしていずれ身体は経年に耐えられずその生命を全うする。動物たちを見ていると生きることに理由っているのだろうか、と思う。
もしかすると理由なんか要らないのかも知れない。

地球に生まれたんだから地球にいればいいだけ
なのかも知れない。

ただし動物と人間と大きく異なる点がある。  

それはこうして思考して悩むことだ。わざわざ思考して悩み、解決するために文明を進化させることができる人間だけがもつ能力。

それを考えると生きるのに理由は要らない説ではないような気がしてくる。

この問題はソクラテスやプラトンとか、もう何千年も前の哲学者たちが同じように取り組んできた。でも未だに答えはわからない。答えを出せた人はいない。


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魂がきっと知っている

では何故?喜怒哀楽があるのか、
羞恥心が芽生えて原罪が生まれたのか、
煩悩が108つもあるのか、夢を見るのか?心が喜んだり折れたりするのか?
苦しくなるのか?少なくとも人間の身体の内側に『魂』があるのだけは誰でも理解している。

何のために生きるのかは『魂』が答えを知っている。
つまり死んでみるまでわからないのかも知れない。

生きるのに本当は理由など要らないのかも知れない。
それなのに理由を求めてしまうのが人間だ。

この非日常が今後どんな日常になるのかはわからない。
怖ろしさと不安のあまり思考が時々止まる。

ひたすら様子を見るしかできない。『いま』はそれしかできない。

救いなのは自分だけではない、先が見えずに不安なのは世界中で共有しているということだ。『いま』できること、家にいてできること、それは原点に返って食べることと眠ることくらいしかできない。

ウィルスが発生したことで脆く崩れる生きにくい社会で、人は何のために生きるのだろう?と考えながらスーパーに出向く。

人混みがすごいな、感染危なっかしいなと思いながらも、脳は今日のメニューを考えはじめる。

何のために生きるかの人間最大の悩みは、今日何を食べるかの悩みにかき消された。スーパーを出て空を眺めた。

とりあえず空は青かった。


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2020年4月23日の空 真ん中の雲から佐藤二郎さんのホトケ(勇者ヨシヒコ)が現れそうな嘘みたいな青い空でした。






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