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こびとが打ち上げた小さなボール

「こびとが打ち上げた小さなボール」 
チョ・セヒ
斎藤真理子訳

韓国映画やドラマ、KPOP、そして韓国文学は、今、世界中で、そして日本でも注目されている。
そして、きわめて、質が高い。
予測不可能なストーリー。息をのむカメラワーク。
テンポの良いリズム。
アーティストの層の厚さ。

なんでだろうと考えたとき、韓国の近代史と関係があるかもしれないと思った。
1980年代くらいまでは、軍事政権の国で、あまり豊かではなかった。
韓国よりも北朝鮮のほうが豊かで進んでいるという印象があった。
その後、国が豊かになるとともに文化が目覚ましく発展してきたので、映画にしても、音楽にしても、新しく芽生えた文化としての勢いがある。
そして、常に発信先は世界を目指している。

私が、韓国文学で一番好きなのが、
「こびとが打ち上げた小さなボール」である。
斎藤真理子さんの翻訳が本当に素晴らしくて、とても読みやすくなっている。

この小説は1970年代の韓国が舞台である。
韓国の経済発展に伴い、都市部の空気や川が汚染され、貧富の差が激しい格差社会のなかで、決して、上に上がっていくことのできない最下層の家族の話である。
父親はこびとで、子どもたちは高等教育を受けることができず、スラムで暮らしている。

こびとの知り合いは、いざり、せむしなど、障害を持った人たちである。
障害がなくても、栄養が悪く、環境が悪いこの町で育った人々は、とても小さい。
街の再開発で、こびとが住んでいる、「幸福洞」の家が取り壊されることになった。
取り壊されるとき、こびとの家族はご飯を食べていた。
スラムは社会病理だとされていた。

「こびと」「いざり」「せむし」という言葉は差別用語だけど、この作品ではしっかり使用している。
そういえば、私が子どものころは「ノートルダムのせむし男」という話があったが、今は「ノートルダムの鐘」などと呼ばれている。

「上」と「下」にははっきりと区切りがあり、決して相いれない。
しかし、こびとの息子は、「上」に対して行動をとり、そのため死んでしまう。
その息子の裁判を傍聴した上層部の息子は、
「上がきちんと仕事をしているのに、下は何もわからず、本当にしょうがない。服装もひどいし、匂いもする。せっかく上が仕事をあげてやっているのに。」と言い、自分の生活圏が当たり前で、貧困層が悪だと信じ込んでいる。
そんなものだろう。
現在だって、安全圏の「上」にいる人には、「苦しい下の暮らし」は見えない。
人間として見ていない。

そして登場するのが「めくら」である。
工場地帯では見かけないが、市街地では10分間に5人のめくらにあった。
次の10分間に3人。
世界には一時間以上歩いても、ひとりもめくらに出会わない都市もあるだろう。

この「めくら」は「こびと」「いざり」「せむし」が実在の人間であるのに対して、世の中の出来事を見ようとしない人のことだろう。

めくらがたくさんいるこの社会において、こびとである父さんがしたことは、月に向かってボールを投げるようなこと。
報われない行為である。
でも、行動し、発言しなくては何も変わらない。

このような1970年代を耐え抜いてきた人々が、1980年代から、やっと華々しい文化を開花させていったのではないか。
そして、新しいポップカルチュアとよばれる文化は、古くて忖度ばかりの昔の文化の根っこがないから、自由に世界に飛び立っていったのではないかと思う。

村上春樹が「1Q84」で、「こびと」という言葉がつかえず、「リトルピープル」と書かねばならなかった文化の国に、私は住んでいる。



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