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「小児自閉症」 平井信義 1968   日本に「自閉症」がやってきた日   

私が都内の大学で心理学を専攻していたとき、一冊の本が刊行された。
その本は、あっというまに、教室中の話題になった。
そのぐらい、インパクトの強い本だった。
1968年出版の「小児自閉症」という分厚い本だ。
著者は平井信義。ウィーン大学で、アスペルガー教授に学んだ心理学者だ。
心理学専攻の学生たちでも、「自閉症」と言う言葉を初めて聞いたものが多かった。
それほど、日本には、それまで、「自閉症」の概念はなかった。

それまで、「自閉症」と思われる症例は、日本でも検討されていたが、その多くは、
幼児の分裂病
自閉的精神病質
などといわれていた。
「自閉」という言葉は、精神病の用語からきた言葉で、この言葉が原因となり、のちにややこしい問題を作り出すことになる。

教育現場では
重度精神薄弱児
動く重症児
情緒障害
などとと言われ、幼稚園、保育園、学校での受け皿はなかった。
だからほとんどの親は、就学猶予を申し出た。

当時は、知的障害という言葉はなく、精神薄弱児、略して、精薄などといわれていた。
精神薄弱は、その中でも、魯鈍、愚鈍、白痴と分類されていた。
差別用語のオンパレードである。
このことからも、当時の日本の障害者に対する差別の実際がうかがえる。

そのような時代に、「小児自閉症」の本が出たのだ。

内容は、題名からもわかる通り、小児だけの症例になっている。
まだこの時点では、成人の自閉症の存在は出現していない。

本の中には、自閉症の子どもの、いくつかの症例が紹介されている。
奇妙な言葉使い。イタダキマスをイタキリマスと言うなど。
抑揚のない話し方。
そして、「自閉症は親の養育が原因という心因論」が主流であった。
治療としては、遊戯療法を行うこと。
自閉症児の母親は、高学歴、几帳面、きっちりした人が多いとされていた。
冷たい養育環境による養育が、自閉症を引き起こすとみなされていたのだ。

自閉症に関しては、
利発そうな風貌。
特殊な能力。
不思議な言動。
などミステリアスなイメージが先行した。

1970年にラターが、「自閉症は中枢神経系の障害である」と報告するまでは、自閉症の原因は、母親の養育にあるとされ、冷蔵庫マザー、母原病などの言葉が、母親たちを苦しめた。

しかし、世の常で、ラターの中枢神経系の障害という論理がなされたのにもかかわらず、その後も、母親の養育原因説が、世間にはびこっていた。
ただでさえ、障害児を育てる苦労を抱える母親たちを苦しめ続けたのだ。
自閉症は治る。という人もいた。
自分は子どものころ自閉症だったと言う人もいた。

心理学の学生たちでさえ、あそこのお母さんは、整理整頓が好きだからとか、高学歴だからとか、冷たいとか、いう人もいた。

とにもかくにも、「小児自閉症」は日本に定着し、私はできたばかりの自閉症研究会に入った。
数校の学生たちが参加する自閉症研究会は、まだ、原宿にあった社会事業大学などで行われていた。
そこで、私は自閉症児のボランティアをすることになった。
自宅から遠く離れた有楽町の小学校に通う、自閉症の女児の母親が、担任の先生と話をする一時間ほど、女児の世話をするという仕事だ。
学校の校庭で、女児と遊ぶのは、楽しかった。
話し方は抑揚がなかったけれど、意思の疎通はできた。
心理学の学生らしく、ラポールが形成されたなどと言っていた。
お母さんは、明るく、はきはきした人だった。
話し合いが終わった後、山手線で女児の住まいまで、一緒に帰った。
手をつないでくれると、とてもうれしかった。
そしてとてもかわいかった。
女児には、妹がいた。妹は近隣の幼稚園に通うことができるような子だったが、姉に合わせて、有楽町の幼稚園に通っていた。
今でいえば、きょうだい児だ。
なんでそんな遠くの学校まで通っていたのかと言うと、近隣の学校では受け入れてもらえなかったからだ。
朝のラッシュ時の山手線に、自閉症の小学生と、幼稚園児を連れて有楽町まで通う母親は、どんなに大変だったろうか。

母親はみんな苦労していた。
でも、みんなパワフルだった。そうでなければ生きていけなかったから。
世間の冷たい目や、整わない教育事情のなかで、親の会を作り活動をしていった。
行政がやってくれないなら、自分たちで、というパイオニア精神に、行政が後から追いついていった。

私はというと、その後、障害児の母になった。
1973年のことである。
大学で学んだ心理学は、あまり役に立たなかった。
そうなのだ。ひとりひとり、違う子どもなのだから。
ただ分かったのは、子どもは発達の遅れがある、てんかんの発作があるということだった。

山あり谷ありの子育て、シングルマザーとなってからは、介護の仕事をしながら、社会のひずみをどうしていったらいいのか、ずっと考えていた。

いくつか資格を取った私は、役所の介護保険の認定調査員の仕事に就くことができた。
生活がひと段落した、2008年、私は社会人を対象にした、臨床心理大学院に入学した。
これで、自閉症についての勉強を再開できる。
なんと、37年ぶりの勉強だ。
37年間の間に、世の中は進化し、日本にいながら、オンラインでアメリカの大学院の、最先端の学問をおさめることができるようになっていた。
アメリカでの自閉症の研究は、とても進んでいて、私は、ありとあらゆる、文献や本をむさぼるように読んだ。
かわききって、かすかすになったスポンジのような脳に、富士山麓の湧水が、満ち溢れていくような、知識欲が満たされる素敵な体験だった。
私は特に、ローナ・ウィングとウタ・フリスが好きになった。
ローナ・ウィングは、スペクトラム(連続体)という言葉を使いだした人で、自身の娘さんが自閉症だった。

大学院の講義では、「発達障害」についてのトピックが取り上げられた。
アスペルガーという概念も取り上げられ始めた。
当時まだ日本では、発達障害の概念は普及していなかった。
ただ、自閉症スペクトラムという連続体の概念で考えていくと、皆つながっていた。
仕事中も、ご飯を作っている時も、いつも発達障害について考えていた。
そして、3年間の大学院の最終課題、修士論文は、
「自閉症スペクトラムをもつ成人女性の生きづらさ~包括的支援の必要性について~」をテーマに取り上げた。
これは大学院の3年間だけで書いたものではない。
37年前の大学生の時から、心の中で、大事に大事に熟成させてきた私の心の声だった。
だから、修士論文は一気に書き上げた。
最後の口頭試問は、スカイプだった。
鎌倉にいる主査のドクターと、ロスアンジェルスにいる副査のドクターと、自宅にいる私。

大学院での学びはとても楽しかった。
何がうれしかったかというと、自分自身が評価されて認められるということだった。
障害者の母は、障害のある子供の養育者として評価されることはあっても、自分自身を評価されることは少ない。

障害学についても、勉強したかったが、あきらめた。
お金も時間もない。

それでも、自閉症は、私にとって、永遠のテーマだ。
これからも、ずっと。

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