ダサい。

勉強にしろ、運動にしろ、何かに秀でている人はスペックという言葉が好きだ。

ポテンシャルという言葉が使われることもあるが、大体のニュアンスは同じだろう。ハイスペック、ロースペック。ポテンシャルが高い、ポテンシャルが低い。頭の良い人は、得てしてカテゴライズしたがる。

スペックの高い人達が1ヶ所に集まるとどうなるか。始まるのは凄まじいマウント合戦である。「周りより優れている」ことで己のプライドを守りたいというのが根底にあるのだろう。「俺はお前より賢い」「俺はお前よりモテる」「お前のこういうところがダメだ」…会話の流れに沿った芸術的なマウンティングは、時に目を見張るものがある。日常の会話で駿台模試の偏差値の話をしているのは漏れなく高学歴の人たちだけだ。

「あいつは凄い。」この一言が口から出ればそれで済む話だ。しかし負けず嫌いであればあるほど、プライドが高ければ高いほど、この言葉は口から出てこない。

「相手を認める」ことは難しいとつくづく思う。

何をもって勝ち負けとするのかは難しいのだけど、僕は大学に入学してから負けることが格段に多くなった。スポーツでも、勉強でも、面白さでも。世の中が広がるということはそれだけ敵わない相手が増えるということだ。小さい頃から曲がりなりに作り上げていた自分のアイデンティティは、割と早くに簡単に崩れた。能力の差を感じざるを得ない場面にも幾度となく遭遇した。

あいつにはできることが、自分にはできない。

この1文の持つ攻撃力は限りなく大きい。

しかし、悪い事ばかりではないような気もするのだ。負けることが増えてから、僕は周りに優しくなった気がするし、周りの話を聞くようになった。本当に人の話を聞かない人間だったのだけど、自分より優秀な人間が「こうした方が良い」とアドバイスしてくれたことを取り入れるようになった。「間違っている」と指摘されたことも、昔と違って自分の中で咀嚼して改善するようになった。改善するのに能力が追い付いていない時もあるのだけど。

「負ける自分」「ダメな自分」「弱い自分」。要するに「ダサい自分」を許容する、あるいは折り合いをつける能力が身につくことが『成長する』ということなのかもしれない。勝っても負けても「そんな時もあるでしょう、帰ってビール飲もう」とニヤつけるようになれば立派な成長だが、それはまだまだかかりそうだ。

受験戦争の弊害だろうか、特に医学部生を始めとする高学歴の人には「ダサい自分」を許せない人が多いように感じる。「ダサい自分」になる可能性を消すために、「勉強してない」「本気でやっていない」と予防線を張る。そんなに無理をしなくていいのに。授業も出席して徹夜で勉強して追試に掛かったり、本気で挑戦して失敗して、何が悪い。僕は大学に入学してからずっとそんな感じだ。でも彼らには彼らなりの事情があるのだろう。

もっと要領よく生きたい。もっとコスパよく生活したい。部活も勉強も恋愛も遊びも全部ソツなくこなす理想の医学生になりたい。

でもまあ理想とは真反対の、毎日地面を這いつくばりながら生きている自分もそんなに嫌いじゃない。

この前もバイト先の学習塾で高校生に論破された。「う~ん、確かにその通りやな!お前やるやんけ!」と言っている自分がいた。

ダサい。でも、昔よりは成長したかな。

昔マウントを取った人たちに謝りたい。

あのころは、ごめんな。




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