風を取りに行く日

風吹き荒れる日のこと。
 
 
 
 
 
 
うちの家業は、
 
化粧品製造販売業だ。
 
 
 
ひいおばあちゃんの代から
 
宝明水という名前の
 
化粧水を作っている。
 
 
 
 
 
この地方では有名で、
 
昔は化粧品店に、
 
今はお土産物屋さんにも置かれている。
 
 
 
 
 
茶色の遮光瓶に
 
レトロな文字で
 
「宝明水」
 
って商品名が入ってて、
 
両脇には
 
「創業100年」
 
「滋養豊富」
 
と書かれてる。
 
 
 
 
 
 
 
薬みたいな匂いが
 
なんだか効きそうな
 
雰囲気を醸し出してる。
 
 
 
 
 
まあ、
 
実際に効くから百年、
 
ご愛顧いただいているんだけど。
 
 
 
 
 
 
うちの宝明水は、
 
原材料をただ混ぜ合わせただけでは
 
作れない代物なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
今でも覚えてる
 
ひいおばあちゃんとの会話がある。
 
 
 
まだ私が小さかった頃のこと、
 
寒くて風の強い日のこと、
 
ひいおばあちゃんは言った。
 
 
 
 
「風を、取りに行かんとな」
 
「かぜ?
 
 風邪なんて取りに行かない方がいいよ、
 
 ひいババ、鼻水出ちゃうよ」
 
 
 
 
 
「ほうか、ほうか。
 
 取りに行かん方がええか。
 
 
 でもなあ、
 
 これはひいババのお仕事だで、
 
 行かんといかんなあ」
 
 
 
「お仕事なの?
 
 じゃあ、お手伝いする!」
 
 
「おお、嬉しい! 
 
 大きくなったら、
 
 ひいババの代わりにやってくれるか?」
 
 
「いいよ!」
 
 
 
ひいおばあちゃんは
 
顔のシワとわからなくなるくらい
 
目を細めて笑った。
 
 
 
 
「じゃあ、明日はひいババがするけど、
 
 希美子も一緒に行こう。
 
 そばでやり方をみておいで」
 
 
 
 
 
 
 
 
それからしばらくして、
 
ひいおばあちゃんが倒れた時、
 
家の中は騒然とした。
 
 
 
 
 
 
おばあちゃんの命の心配も
 
さることながら、
 
宝明水の秘伝を
 
誰も受け継いでいなかったからだ。
 
 
 
 
 
工場で原料を混ぜても、
 
いつものような質に仕上がらない。
 
 
 
 
 
 
慌てた祖母と母は、
 
病床のひいおばあちゃんを訪ねたが、
 
 
ひいおばあちゃんに
 
 
「風の力を入れろ」
 
 
と言われて、
 
余計、困り果てたらしい。
 
 
 
 
 
 
結局、
 
 
「一番重要なのは、
 
 風を取りにいくことだ」
 
 
「それができるのは、
 
 ひいババがしてるのを
 
 見たことがある希美子だけだ」
 
 
ということになって、
 
 
7歳の頃から
 
私が風を取りに行っている。
 
 
 
 
 
 
風を取るためには、
 
風の強い日、
 
町外れの鎮守の森にゆく。
 
 
 
 
朝日が昇る前に水を浴び、
 
白い真新しい下着を身につけて、
 
宝明水に使う家の井戸水をひと瓶、
 
持っていく。
 
 
 
 
 
 
日の出の光を瓶に通したら、
 
そのあとはひと晩、
 
月光のさす
 
決められた場所に置いてから、
 
翌日に瓶を引き取りに行く。
 
 
 
 
 
 
 
 
成分的には「水」だし、
 
それ以上のことはない。
 
 
 
 
 
なんでこれだけのことが、
 
宝明水を全然違うものに変えるのか、
 
私たちもわからない。
 
 
 
 
 
不思議なのは、
 
祖母や母がやってもダメで、
 
ひいおばあちゃんと
 
私しかできないことだということだ。
 
 
 
 
 
 
だから早く結婚した方がいい、
 
子供や孫を作った方がいいと、
 
もう何十回もお見合いさせられているけど、
 
30過ぎてもまだ独身のままでいる。
 
 
 
 
 
結婚は、
 
いろんなことを飲み込んできた私が、
 
どうしても嫌悪感を持ってしまって、
 
受け入れられないことの1つだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
本当は、そういうことが
 
もっとたくさんあるのかもしれない。
 
 
 
 
 
随分と早い時期から
 
レールの引かれた人生に
 
諦めを持っていたけど、
 
時々、
 
「それ」の影が見え隠れしてたから。
 
 
 
 
 
 
私は知っている、
 
私が毎日、
 
少しずつ死んでいっていることを。
 
 
 
 
 
もしかしたらここは、
 
私が本当に
 
生きるべきところじゃないのかもしれないことを。
 
 
 
 
 
 
 
でも、
 
私がいなくなってしまったら、
 
ひいおばあちゃんの思いは
 
どうなるんだ?
 
 
 
 
 
それに、
 
一族も、従業員も路頭に迷ってしまう。
 
 
 
 
 
 
 
私が力を持つ子供を持てなかったら、
 
先々みんな
 
露頭に迷うかもしれないんだけど、
 
この仕事を辞めるなんてこと、
 
今の時点で自分的に
 
積極的に選べないことだった。
 
 
 
 
 
 
昨日から風が強い。
 
 
 
 
こういう日は、
 
風を取りに行くのがいい。
 
 
 
鎮守の森でお参りしてから
 
いつも通り瓶を取ると、
 
今日は定休日で誰もいない
 
工場の神棚に添えた。
 
 
 
 
 
 
 
風はガタガタと工場を揺らした。
 
 
 
私はいったい、
 
なぜ風を取りに行き続けるのだろう。
 
 
 
 
 
古い工場の隙間風は、
 
心に流れ込んでくるようだった。
 
 
 
 
 
「私は、私から離れられないし」
 
 
運命共同体のような工場で一人、
 
ポツリと呟いた。
 
 
 
 
 
 
「だから今、
 
 そんなに悲しいのではないか?」
 
 
 
急に高らかな声がして、
 
私はビクッとした。
 
 
 
 
 
 
見回しても、誰もいない。
 
 
 
 
 
怖いというのもあったけど、
 
ホロリとこぼしてしまった愚痴を、
 
誰かが聞いていたことの方が驚きだった。
 
 
 
 
 
 
また声がした。
 
 
 
「まるで滅亡した文明と
 
 運命を共にした神官のようだ」
 
 
 
 
 
胸の奥がチクッとした。
 
なんてぴったりなことを言うんだろう。
 
 
 
 
 
「ホラ、また悲しみが広がったよ」
 
 
 
 
 
「かなしい…なんでかなしいの?」
 
 
 
 
 
 
恐ろしく的確なことを
 
ズバッと言い当てられたら、
 
人って不思議と
 
色んなことを語ってしまうものだ。
 
 
 
 
「…たしかに、悲しいのかもしれない。
 
 でも、私、ここから逃げられないのよ」
 
 
 
 
「どうして?」
 
 
 
 
今まで、
 
誰にも突きつけられたことがない
 
問いかけだった。
 
 
 
 
「どうしてって…
 
 会社とかみんなが困るし…」
 
 
 
急に元気がなくなって、
 
尻切れトンボのようなことしか
 
言えなくなった。
 
 
 
 
 
自分で納得してきたことを
 
口に出してみたら、
 
ものすごく
 
薄っぺらい感じがしたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
「本当に?」
 
 
 
そんな私を、
 
声は追い込むかのようだった。
 
 
 
 
 
「ここは本来、
 
 自分がいるべきところじゃないって、
 
 ずっと思ってただろう?」
 
 
 
 
 
 
何かに射抜かれたようだった。
 
 
 
 
そう、違う。
 
 
私の気持ちじゃない。
 
 
 
 
 
 
 
自分の意思を通すために
 
立ち向かうのが大変なこと、
 
 
みんなを困らせてしまう罪悪感、
 
 
そういう面倒なことから背を向けて、
 
諦めて納得させようとしていた
 
ニセの自分の気持ちだ。
 
 
 
声はうなずくように続けた。
 
 
 
 
「受け入れるのは大変かもしれない。
 
 行動に移せないかもしれない。
 
 
 こちらができるのは、ここまでだ」
 
 
 
 
「…あなたは、誰なの?」
 
 
 
 
「7歳の頃から、
 
 君にはよくしてもらってきたよ」
 
 
 
 
含み笑いが感じられるような声と共に、
 
工場の中をくるっと舞い上るような
 
風が吹き上がった。
 
 
 
 
 
 
 
「風…
 
 鎮守の森の、神様!?」
 
 
 
 
 
 
 
ガタガタと、
 
工場の窓や壁が揺れた。
 
 
 
 
風を追いかけて外に出てみたが、
やっぱり何もいなかった。
 
 
 
 
「もし、辞めてしまったら…
 
 どんな風になるんだろう?」
 
 
 
 
 
 
また一段と強い風が
 
吹き付けた。
 
 
 
 
 
 
私の髪に、木の葉がからんだ。
 
 
 
 
 
見ると、
 
それは紅葉した葉っぱで、
 
見事なまでにハート形をしていた。
 
 
 
 
 
「心のおもむくまま、
 
 行けば大丈夫ってこと…?」
 
 
 
 
 
その先に何があるのだろう。
 
 
 
 
 
 
運命の人にでも出会うのだろうか?
 
こんなに結婚を毛嫌いしてるのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
どっちにしても、
 
もう気づいてしまったことには
 
変わりない。
 
 
 
 
 
 
 
「現実の問題よりも、
 
    心の整理が先につくものなのね」
 
 
 
 
 
 
相変わらず吹き付ける風だけが、
 
私の心を知っていた。
 

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