使えなかったお金
書類を整理していたら、10年以上前の会社員時代、名古屋から東京転勤になった際にいただいたお餞別が出てきた。名前から、名古屋ビルの駐車場の管理人のおじさんだと分かった。
毎朝ビルの入り口にいるので、出社するとこのおじさんに一番に挨拶する。いつも元気に「おはよう」と返してくれる方だった。
紅白のご祝儀袋に筆で書かれた名前、ピン札の一万円札。大柄でガハハ系なおじさんのイメージと、そのご祝儀袋にはギャップがあった。案外、折り目正しい人だったのかもしれない。
それほど親しかった訳でもなかったのに、どうしてこんな金額を包んで下さったのか。私が名古屋ビルにほぼ来なくなる県外転勤組だったからなのか、それとも別な理由があったのか。それは当時からわからない。
ただ、転勤する社員はたくさんいたし、全員にこんな金額を渡していたら、お財布が破産してしまう。おじさんの中で決めた人にしか渡していないことは確かだった。そして、理由はわからなかったけれど、何かしらの想いがあってしてくれたことには違いなかった。
そういう想いのあるものを使うのが苦手だ。
お金はお金でしかないのだけど、適当なものに使うのは忍びないと、つい思ってしまう。大事に使うものに使いたいが、そういうものはなかなか出てこない。長く使うからといって、鍋とか買うのはやっぱりちょっと違う気がしてしまうし、指輪とかアクセサリーとかを買うのもしっくりこない。
そんなわけで10年以上、タンス預金状態になっていたのだった。
今回ご祝儀袋を見た時、「あ、もう違うな」と思った。簡単に言えば、「思いを消化し尽くした感」みたいなのが醸し出されていたのだ。
かくして、「よし、このお金は使おう」と思ったのだけど、やはり適当なものに使う気になれない。色々考えた末、神社のご神事に浄財しようと決めた。
元々金融機関にいたので、人がお金で変わる様をたくさん見てきた。お金はお金でしかないのだけど、ある人にとっては誠意であり、ある人にとっては故人に対する思いである。「お金じゃない」と言いながら、結局はお金でしか解決できないことも多い。
当時はどこか冷ややかに、そういう人の営みを見ていたけれど、私は私で、手元にあるお金はやたらな形では使いたくないというこだわりがある。特に誰かの想いがあるものについては。「お金じゃないと言う人たちと、そんなに変わらないなー」と、ご祝儀袋を見て思った。吾輩も人、なのであった。
※画像は通過切り替え以前のトルコリラ
1ミリオントルコリラで50円くらいだったか?
ハイパーインフレ社会の通貨。
(了)
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