オレならいやだ。

療養型病院に送るという事は「直らない」事を意味する。この場合の直らないとは、「口から再び食事がとれるようになることはほぼ確実に無い」という事だ。口から栄養が取れないという事はそのまま死を意味する。

直らない人に中心静脈栄養補給をする事に意義があるとすれば本人が望んだ場合だ。「本人が望む」とはどういう事かといえば、生きてまだやりたい事があるという事だ。 子供や孫の顔を見るとか、面白いテレビ番組がある、でもなんでも良いと思う。中心静脈栄養の管理や寝たきりの状態、痰の吸引などの苦痛に耐えて尚生きたいと思うのであればそれは続けるべきだ。

彼は認知症で自分で判断が出来ない。生きて何かしたい事があるか、と言えば特にない。あえて言えば、ああして生きている事で医療スタッフの人と触れ合えて、生きているという感覚を味わえる事かもしれない。実はオレが病院の判断に躊躇したのはこの点だったのかもしれない。スタッフの人と触れ合っている時、その時の彼は良い顔をしている。

どんな人でも必ず死ぬ。100%だ。長く生きる人もいるし短い命の人もいる。生きる長さが違うという不条理があるにせよ、死んで居なくなってしまうという点に於いては人は、いや、生きとし生けるものすべては皆平等だ。死に方だって不条理だ。殺されてしまう人、事故で死んでしまう人、自殺、なかにはむごたらしくジワジワと苦しみを与えられながら殺されていく人もいる。そんな中、最終的に床の上で死ねるという事は死に方という観点では歓迎すべき事なのではないか。

結局、「死生観はひとそれぞれ」という他愛もない一言になってしまうが、自分の死生観を親とは言え、他人の彼に押し付けてよいのだろうか?確かにまだ認知症になる前の彼は威勢の良い事を言っていたが、今の彼は今の状態に不平不満を漏らす事もなく、ああして微笑む時さえある。どうしたい? オレならこのままの状態はイヤだ。



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