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『文章講座植物園』試し読み 安斉樹「吸水少女」

安斉樹「吸水少女」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。

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 風邪をひいて熱で苦しんでいるとき、お腹を壊してトイレから出られないとき、苦しみながらいつも考える。
『あたし、何かした?』

 大急ぎで教室を出てから約一時間。紫藤しどう陽花はるかは畳の上で大の字になりながら、日ごろの行いについて考えていた。
湿度が古い木の家独特の匂いと畳の匂いを引き出して、鼻の奥にまでまとわりついてくる。まだ六月だからと冷房をつけることを禁止されているが、帰宅した家族に怒られてもいい。今だけはしけった風を押し付けてくる扇風機じゃなくて、エアコンから出る地球にやさしくない温度の空気で部屋を冷やしたい。
 家に着いてから三十分は経ったのに、汗は一向にひく気配がしない。頭の中に小型のモーターが入っているみたいで、何の音だか、ぶーーーんと振動してそこから熱と痛みを生み出しているのがわかる。他にも体内で何かの化学反応でも起きているのか、身体はどんどん熱を帯びてくる。自分と視界が心臓の鼓動に合わせて波打つように揺れる。口の中は中途半端に渇いてねばついて気持ちが悪い。口も鼻も使って空気中の湿度からなんとか水分を取れないかと口をぱくぱく動かしてみるが、重くて生ぬるい空気が口の中にまとわりつくだけだった。座卓の麦茶ポットはとっくに空で、寝転がったときは少しひんやりしていて気持ちがよかった畳もすっかり自分と同じくらいの温度になってしまった。畳と共有される熱から逃れるように、顔を右に向ける。重たい腰を動かして、脚、肩の順に身体を右に向ける。枕にしている半分折りの座布団が、先ほどまで頭を置いていた部分よりもサラサラで、少し冷たくて気持ちがいい。方向転換を終えて一呼吸すると、帰宅してすぐに開け放ったふすまの先、夏至もとうに過ぎたのに薄暗い庭には、陽花が寝転がっている居間の真ん中からさらに、廊下を隔てたガラス戸越しに見ても一粒の大きさがわかるくらいの雨粒が、庭の飛び石の横にある青臭いアジサイの葉を打って、ぱたぱたと音を立てているのをしばらく眺めていた。
 熱でぼんやりする頭で、庭までの距離と冷蔵庫までの距離をくらべている。廊下までは三回くらい転がればたどり着けるだろう。いつも敷居を踏むと怒られるが、いまは誰も見ていない。冷蔵庫までは、二回転してふすまを開けて、そこから三歩。しかも立ち上がらなければならない。ざりっと畳の音を立てながらうつぶせになって、右手に力を入れる。少しだけ膝に力を入れて、腰が浮いた勢いに任せてばたりと仰向けになる。衝撃で頭の中のモーター音もぐおんぐおんと倍になる。それが治まるまで『今日の振り返り』という名の休憩をはさみながら、廊下を目指すことにした。

挿画:今村建朗

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続きは『文章講座植物園』にてお読みいただけます。

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