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『文章講座植物園』試し読み 松本寛大「舎利の花」

松本寛大「舎利の花」より抜粋。
友人の死。彼が残した願掛けのしきみの謎。主人公が弔問に訪れた家で明らかになる秘密とは。
※ 全編をモリノ凛による朗読でお楽しみいただけます。▶︎ Part1 / Part2 / Part3 

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 田村が死んだ。肺の病気だそうだ。
 報せをくれた友人によれば、仕事にかまけて体調が優れないのを放っておいたために発見が遅れたとのことだった。まだ五十を出たばかりだった。
 田村とは学生時代に知り合った。その時分の田村はやせぎすで髪を伸ばし、暗い目をしていた。
 年齢はかれが上だが、尋ねてみると同学年である。二度、進級し損ねたのだという。どうやら学業をおろそかにしてあちこちを放浪していたらしい。
 再び旅に出る日のためか、それとも放浪時代に身についた習慣か、かれの主義のひとつはものを持たないことだった。
 読み終えた本は惜しげもなく人に配った。わたしもずいぶんもらったものだ。田村は目利きだった。かれに教わらなければ手に取らなかった作家との出会いは多い。
 田村の下宿には荷物などほとんどなかった。畳の上に布の包みをふたつ並べ、洋服を入れていた。片方の包みの服を上から順に着て、汚れるともう一方に詰め込んでいく。たまれば汚れ物を洗う。これを繰り返す。身軽が一番だと笑っていた。
 しばらくして田村の結婚を耳にしたときには、あんなふうに気ままに生きている男と一緒になる女性がいるとは不思議だと思った。わたしも若かった。身軽という言葉からもっとも遠いものが結婚だと単純に考えていた。
 夫人には一度だけ会った。
 痛飲した田村を送った日のことだ。家は車が入れない狭い道をのぼったところにあった。かれの酔い方はひどく、その夜は雨だった。さすがに坂の下に放り出すのも心苦しい。それで肩を貸した。
 つづら折りの坂道をあえぎあえぎ行くと、田村が借りている家があった。雨だというのに緑の香りが強く漂っていた。植え込みに隠れて、路の半ばからは玄関が見えない。水銀灯の光を受けた葉の陰から夫人があらわれたときには驚いた。
 こういってはなんだが、冴えない女性だった。まだそれほどの年齢ではないだろうに、肌は青白く、髪は乱れていた。白髪が目立つ。顎が奥まっており、ほほは膨れていた。不健康そうな膨らみ方だった。
 しなびた煮豆のような目をして、「田村がお世話になっております」といった。前歯が抜けて暗い穴になっていた。わたしはあいまいな作り笑顔をした。
 その後、田村とは疎遠になった。深い理由はない。わたしも多忙な時期だったのだ。それでも、たまには酒を飲んだ。
 最後に会ったのは一昨年おととしだ。外出先で偶然に顔をあわせ、そのまま酒場へ流れた。田村はやつれた様子だった。身体でも壊したのかと訊くと神経衰弱だと力なく笑った。並べられた皿に箸を伸ばすことはほとんどなかった。
「知っているか。焼酎は夏の季語なんだ。本来は暑気払いに飲むものなのさ」
 田村は麦焼酎の杯を重ねた。もう若くもないのに無茶な飲み方をするものだと思った。わたしの顔をのぞきこむようにして、
「奥さんとはうまくいっているのか」
「どうだろうな。うまくいっているのか、そうじゃないのか。その中間のどこかだと思うよ」
 そう嘘をつきながら、どうして田村はぎらぎらと光る暗い目をしているのだろうと考えていた。なにかあったのかと水を向けると、
「実は、別れようと思っている」
 意外ではなかった。夫婦仲が良いときいたことはない。青ぶくれした夫人の顔を思い浮かべた。
「もう切り出したのか?」
「何度も話した。取り合わないんだ。またわがままがはじまったと」
「こじれると厄介だけど」
「ずっと耐えてきた。最初からだ。もう無理なんだ」
 卓の上に豚の角煮が置かれる。八角が添えられていた。甘く香ばしい匂いがした。
「知っているか」田村が八角を箸でつまむ。星の形。「八角は唐樒とうしきみの実だ。しきみとよく似ているが、そちらには毒がある。樒は抹香の原料で、仏事とも関わりが深い」
 それから豚肉を二度三度噛み、麦焼酎で流し込むと、
「おれの故郷には、正しく生きた人間は、死ぬときに樒の実の形の痣が胸に浮かぶという言い伝えがあったものさ」
 あのとき田村はすでに肺を悪くしていたのだろうか。
 田村の亡き骸に樒の痣はあったのだろうか。

 翌日の午後にまた電話があった。今度は小川からだった。田村のことはと尋ねられた。
「きいているよ。週末に弔問に行こうと思っていたところだ」
「心筋炎だってな」
「変だな。肺だときいたぞ」どこかで話が歪んでいる。首をひねった。小川はさほど意に介さなかった。
(つづく)

挿画:今村建朗

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続きは『文章講座植物園』にてお読みいただけます。

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