『エビス・ラビリンス』試し読み(12)

「喫煙所マップ」 檀やく

 事故を起こしたその足で事務所へ向かった。事務所は渋谷区東の川沿いにある。自転車なら恵比寿西からほんの五分ほどの距離だが、車体を押し、足を引きずりながら歩いていたら三十分以上かかってしまった。
 建物は昔からあった木造立ての平屋を改装したもので、内部に自転車置き場を作り、社員がいる業務スペースと直接繋げている。自転車を停め奥に進むと、直属の上司の秋川がカップそばをすすりながらパソコンと向き合っていた。わざと大げさな足音を立てながら近づくと彼は首だけで振り返り、眉をひそめて言った。
「合羽着たまま入らないでほしいんだよな。床が濡れるだろ」
「すみません」
 おれが合羽を脱いでいる間に秋川は再びパソコンに向き直ってしまった。仕方が無く声をかける。
「秋川さん、実はちょっと事故っちゃいまして」
「ええ?」
 秋川は少し慌てた様子で立ち上がり、自転車置き場の方へ向かった。
「壊してないだろうね」
「自転車は大丈夫です」
「ああそう。対物? 対人? わかってると思うけど、君はうちの契約先であって社員じゃないから、賠償金とか払ってあげられないよ。申し訳ないけど」
 本当に悪いと思ってるのか判りかねる目で、秋川が眼鏡の奥からこちらを見る。
「対人ですけど、運良く丸く収まりました。ただ、足怪我しちゃって」
「へえ?」
 おれはデニムの裾を捲り上げて左足首を見せた。患部は赤く腫れ上がっている。
「うわあ、見せなくていいよ。ひどいな。それ、自転車漕げないだろ。もちろん休んでもいいけど評価は悪くなっちゃうから、復帰した後割りの良い仕事は振ってあげづらくなるよ」
「今日は休ませてもらいますけど、たぶん大丈夫です。明日から働けます」
 実際一日休んだくらいでどうにかなるとは思えなかったが、背に腹は変えられない。
「そうは言ってもね……。大丈夫そうには見えないけど」
 少しの沈黙の後、秋川は思い出したように言った。
「そういえば、この前交通協会の集まりに行ったとき、向こうのお偉いさんが変なこと言ってたな。ガラスキセルを探してるとかなんとか。うろ覚えだけど、恵比寿でどうこうって言ってた気もする」
「なんですかそれ。ガラスキセル? ガラス製の煙管ですか?」
「僕も立ち聞きしてただけだからよく分からないけど。とにかく、恵比寿のあたりでガラスキセルを探してるみたいなんだよ」
「はあ。ええと、それがどうしたんですか?」
「いやねえ……。君、探してみる?」
「はい?」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。改めて秋川の顔をまじまじと見たが、からかいと優しさが入り混じったような表情をしていて真意が読み取れない。
「見つけてくれたらお礼はするし、復帰したときの評価も配慮しとくよ。駄目で元々だと思ってやってみてくれない? どうせその足じゃ配達の仕事は無理だろ」

 左足を庇いながら恵比寿南にあるアパートの自室まで戻ってきた。きしむドアノブをゆっくり回し、音を立てないように部屋に入る。
 結局秋川に押し切られる形でガラスキセル探しをする羽目になってしまった。正直面倒なことに巻き込まれたと思ったが、確かに秋川の言うように駄目で元々だ。ただ部屋に引きこもって大家に追い出されるのを待っているよりはいいだろう。
 横になると、疲れと共に左足首の痛みがぶり返してきた。煙草が吸いたいと思った。喫煙は共同スペースの中庭以外では許されていない。部屋に来る前に吸っておけばよかった。
(続く)