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着飾らない自由を得て

久しぶりに髪を切った。
髪の毛というものは、服や体のように自分ではなかなか整えられない。幼少時は母親がカットしてくれていたが、もうそんな年でもない。やはりその道のプロの手にかかるのが安心できる。
生来クセが強く、量も多い。鎖骨くらいまで伸びて手入れが大変になってきたので、思い切ってロングのツーブロックにしてみた。
髪の量は予測通り減ったので洗うときなど楽だが、この時期にはちょっと寒かったな、と苦笑してしまった。髪の防寒性能、侮るなかれ。

髪を切りに行った理由は、勿論しばらく放置していたのでむさ苦しくなってきたからだが、週末に人に会う予定もあったので、それに合わせるためでもあった。
会う人に失礼のないよう、身だしなみを整えるのは礼儀というものだろう。

会社に勤めていたころは髪を整える頻度ももう少し高かったし、服も買う回数は多かった。いずれにしても基準は『無難なもの』である。
それが自由の身になり、色々変化した。
髪は色味も含め好き勝手に変えた。
服は『古くなったものの代替品』を買うことが基本で、それ以外はよっぽど気に入ったものだけを購入する。

精神衛生上、実に良いことだ。
もう無理をしてオフィスカジュアルという名のコスプレ(誰が言ったか忘れたが秀逸な表現である)をする必要はないのだ。
服務規程が緩いようで厳しいようなところだったので、その匙加減が面倒だったし、後輩に指摘をするのがまた一際憂鬱であった。
『好きなカッコしたらええやん、内勤やし』と思いながらも、『さすがにピンクのインナーカラーを堂々と出すのは止めとけ…』とも思ったり。
何故この年になって学生の服装検査のようなことを……。

『人は見た目が9割』という本が流行ったとおり、見た目で色々な判断することはごく普通のことだ。視覚から得られる情報は重要である。
しかしその判断基準は、合理的なものだろうか。
単純に髪を染めているかいないかだけで、人は判断できるものではない。
視覚から得られた情報だけにこだわりすぎて、その他を大事なこと見過ごしてはいないだろうか。そもそも大事なことがあるかもしれない、と見ることすら止めてしまっていないか。

今が自由だから、こんな風にいえるのだろうと分かっている。
件の後輩に対しては、まぁ社内規定で決まってるし…、君の社会的信用度とかそういうのが見た目で下がってしまっては勿体ないことだし…、というくらいしか出来なかった。
会社という規則の中に取り込まれたら、やはりまた同じことを言うだろう、と想像できる。
多様性の受容が謳われて久しいが、なかなかこれは一朝一夕に変化出来ないだろう。日本という国の閉鎖的性格の根強さを今更ながら、痛感している。

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