いまさらだが読んでみた名著はたしかに名著であった――丸山真男『日本の思想』(岩波新書)

言わずと知れた名著なのだが、名著だけにずっと積読だった。ある批評家の論考を読んでいたらサラッと言及していて、日本の批評的な「常識」であると再確認したので、非常識人である私は急いで積読山を崩したのであった。

本書は「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」の4つの論考からなる。後半の2つは講演をもとにしているもので非常に読みやすい。最初の2つ、特に「思想と文学」は、前提となる思想と文学についての歴史的な知識がないと、そもそも何を問題にしてるのかわからないので、じつは結構とっかかりにくい。邪道かもしれないが、まずは3つ目と4つ目の論考から読むことを強く勧めたい。

「思想のあり方について」は、まず私たちがイメージを通して現実を認識する、という話から始まる。イメージが分厚くなると現実からの疎外が起こり、日本の場合は「タコツボ型」と丸山が命名する文化の型がある。これは欧州のササラ型、一本のものが先端で複数に枝分かれしているものとは異なる。なぜこのような型が日本でできたかといえば、欧州から細分化した先端部分のみ完成品として輸入されたからだ。各タコツボ同士は共通言語を欠き、タコツボ内もさらに細分化されている。ややこしいことにタコツボの先はインターナショナルに繋がっている。タコツボ型のために、タコツボ内部のものは被害者意識を持ち、自分の周囲が「敵」に囲まれている気になってしまう、というのだ。この西欧の文化をその歴史・伝統から切断し、完成品として輸入することの弊害は「日本の思想」でもたびたび言及される。

次に「「である」ことと「する」こと」である。高校生向け現代文のテキストに選んでも良いぐらいの難易度(難しいことを理路整然と語っている、という意味)である。前近代的な社会は身分制であり、身分制とはその人間の中身が社会的身分によって規定されている社会である。善人は善行するというトートロジカルでアレゴリカルな社会。社会の近代化によって人々の社会的な身分は流動的になり、「〜である」という身分がその人間の中身を規定せず、代わりに「〜する」という行為が重要になってくる。ただ「する」ことが「である」ことよりも優れた価値を持っているかどうか、というのはケースバイケースで、慎重に考えていくべきだ、と丸山は指摘している。

で、最初の「日本の思想」である。丸山はこう問いかける。包括的思想史が日本にないのはなぜか。それは、座標軸にあたる思想的伝統が形成されなかったからだ。明治時代以降、西欧の思想を完成品として輸入したため、欧州の歴史・伝統においてはさまざまな思想的ときには暴力的な対立・葛藤のすえに定着していった思想が、ここ日本においてはなんの葛藤もなくするすると「日本の伝統の一部」として取り込まれていった。無時間的であり、歴史的な構造は失われてしまう。根本的に異なるものなのだが、その根本的な違いを言語化できないために、なんとなく同じものとして無限に受け入れてしまうという思想的な伝統が、思想史を語る困難の背景にある。さらに丸山は、戦前の国体(國體)が、西欧伝統を輸入する際に基軸として急いで立ち上げられたことを指摘する。じゃあ日本には天皇を中心とする国体があるから、それでいいじゃないかとならないのは、敗戦という結果をみればわかるし、そもそも天皇制自体が問題を含んだものであった。天皇を中心としているが天皇には責任がなく(無責任)、しかし天皇の臣民たる日本人には隅々まで責任が及ぶ(無限責任)構造。この無責任と無限責任の合体によって機能する天皇制は、確かに欧州のデカルト・ベーコン以来の主客の対立を軸とする(科学的)思考とは組み合わせが悪い。

2つ目の「近代日本の思想と文学」は日本の戦前におけるマルクス主義の文学的受容の話なのだが、私に知識がなさすぎて読むのが辛かったので、書けることはほとんどない。

以上4編、それぞれ別の切り口なのだが、問題意識は通底している。西欧の思想をその歴史・文化を切断して輸入したところで、なかなかうまくいかないということだ。近代日本で天皇制と国体をいわば「でっちあげた」明治のお偉いさんたちの努力はそれはすごいものであったわけだが、「日本(的なもの)とはなにか」という議論が、もっと必要だったのではないか。国民、いや国民が誕生していないのであれば、大衆レベルで。もっとも、国家がないのに国家がどうあるべきかを議論する主体があるというのは変な話なのだろうが。(2021年4月25日)

追記(2024年7月10日)

「である」と「する」の関係は興味深い。前近代から近代という社会の変化を、身分制から学歴による階級移動への移行ととらえるなら、近代からポスト近代という社会の変化は「する」から「である」への回帰ととれないか。マイノリティの差別・格差是正の思想としてあったマイノリティ・ポリティクスが、やがて「マジョリティ」にも流用され、非マイノリティ・ポリティクス(杉田俊介)とでも呼ぶべきアイデンティティをめぐる闘争が激化する。なんでもかんでも「する」ことができる社会で、その人にしかできないことは何かといえば「である」ことだ。ただ、丸山真男もいうように「どちらが偉い」わけでも、「どちらが進歩的」なわけでもなく、要は配分・塩梅の問題なのだろう。いまは「である」に振れている針も、20年くらいたてば、また「する」へと振れるのではなかろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?