「文化」は誰のものかーーカロリーヌ・フレスト『「傷つきました」戦争』(堀茂樹訳、中央公論新社)

筆者はフランスのジャーナリスト、評論家、映画監督。『シャルリー・エブド』にコラムも寄せる。反レイシズム、反差別主義者であるが、反アイデンティティ至上主義者である。近年、主にアメリカの大学内で、今ではその外へ、そしてヨーロッパにも広がっているアイデンティティ至上主義者(と筆者が呼ぶ)による「反レイシズム」が、実はレイシズム(人種主義)に行きつき、左派の希望とは裏腹に保守主義・右派を利するだけではないか、と主張する。

筆者が豊富な例で示す「文化盗用」がその一例だ。文化盗用とは、ある属性の人たちがもつ文化を、別の属性の人たちが支配や搾取の意図を持って利用すること、と定義される(OED)。「支配や搾取の意図」という「意図」が抜け落ちることで、「盗用された」=「傷つけられた」と主張すれば、文化盗用とされてしまう。マイノリティが「盗用された」と言うこともあるが、非マイノリティの反レイシストが「これはマイノリティの文化盗用だ」と告発することもある。極端(?)な例では、ヨガのレッスンや大学学食のベトナム料理が、文化盗用(料理の場合は間違ったレシピ)と非難される。

演劇や映画などで、マイノリティが登場人物に出てくる時、彼ら彼女らを演じる役者も、そのマイノリティの属性を持っていないと「文化盗用」と指摘される(指摘された事例が、紹介されている)。演劇、映画を含めた芸術は「自分ではない人の気持ちになる」ものであり、演じるとはそもそも自分ではない人になることだ。その際、役者と役のアイデンティティのどの差異が許容され、どの差異は許容されないのか。近年、アイデンティティの差異が許容されなくなっている。アフリカ系アメリカ人の詩を、外国語に翻訳するとき、最初に仕事を振られた白人の翻訳家はけっきょくは降板した。翻訳家のアイデンティティが、翻訳元の詩の作者のアイデンティティと異なっているからだ。

むろん同一のアイデンティティをもった人間なんてこの世界にはいない。だから究極的には程度問題なのだが、その「程度」をどこまでも広げていけるのが、今の時代の問題点だ。筆者は自身も反レイシストだとしながら、反レイシズムには二種類あるという。一つはアメリカ的なアイデンティティ至上主義的反レイシズムで、もうひとつはヨーロッパ的な普遍主義的反レイシズムだ。筆者はフランスやヨーロッパの歴史的背景をふまえて、自身を後者の普遍主義的な立場におくが、ヨーロッパにもアイデンティティ至上主義的な反レイシズムの波がやってきていると警告している。

反レイシズムの作品が「レイシズムだ!」と非難される奇妙な事態が起こっている。レイシズムとは人種的属性によってその人を決めつけることだが、レイシズムに反対する立場でありながら/であるがゆえに、「この属性をもった人を表象するのは、同じ属性をもった人しかゆるされない」となる。例えば、白人が黒人にしてきた残虐な行為を告発する作品を指して、黒人をダシに白人(の芸術家)を利している、と。作り手は「作品を見れば反レイシズムとわかる」と言うし、事実その通りなのだろうが、残念ながら作品の意味は作品だけでは決まらない。作品が置かれた文脈、誰が作り、誰が干渉し、どこの国でいつどのように発表されたのか、といった歴史・文化的な文脈がないと、意味は決まらない。歴史的にみて、現代ほど文脈が意味を決める時代はないのではないか。文脈から作品を切り取り、別の文脈に付け替える、ウェブ/SNSがプラットフォームとして整備された現代は、文脈の流動性が高まり、相対的に発信者/受信者のアイデンティティの決定力が高まっている。繰り返すが筆者は反レイシストで、筆者自身も自身のアイデンティティ・セクシュアリティをめぐって闘争をしてきた。しかし、現在主流になりつつあるアイデンティティを前面に押し出した反レイシズム運動は、活動家の意図とは別に、けっきょくは右派・保守派の利益になっているのではないか、と危惧している(その一つは、トランプ大統領の誕生である。)

文化盗用は存在しない、というわけでもない。植民地において支配国が非支配国の文化を略奪し自らのものにした事例は事欠かない。他方で、文化は混淆するものである。私が大学で履修した「比較文化論」では、初回の講義で教授が「文化は混淆するものであり、比較なんてできない」と言っていたのを思い出す。例えば、アメリカの食文化ひとつとってみても、「純アメリカ文化」なんてない。ないといえばない、あるといえばある。文化とは何か、混淆とは何か、と言う話になる。そうした時に、何が「正しい文化か」を決める最終審級が、個人のアイデンティティになる(ならざるをえない)のは、論理的必然なのだろう。

竹田ダニエルが紹介していた文化盗用の事例は、白人TikTokkerがダンス動画をバズらせて利益をあげるものの、実はその振り付けは黒人のダンスを「参考」にしたものだった(パクリとも盗用ともいえるが)というもの。これは「インスパイア」なのか、「触発」なのか、「レスペクト」なのか、「盗用」なのか。ずっと昔に、日本のインターネットで、とある企業がネット発のミームを自社の商品に使おうとしたら批判され、「ネットにインスパイアされたものだ」と弁解していた。日本のネトジャーゴンでは、カッコ付き「インスパイア」は「パクリ」の別名称である。すべての文化が混淆するとして、しかし誰かが利益をあげている。参照元を秘密にすればパクリで、明示すればレスペクトなのか。参照元として明示される人・ものが、はたして存在しているのか。存在していたとして、その人は文化の「持ち主」なのか。線引きは難しい。誕生日に日本の着物パーティーをした白人家族がSNSに様子をアップしたら、「文化盗用」と批判された事例を、本書は紹介している。SNSがなければ、批判されなかっただろう。SNSにアップしなければ良い、という意味ではなく、SNSは作品の意味を作品から文脈にシフトさせ、かつプライベートなものでありながらもインフルエンサーたちはそこから利益をあげているプラットフォームなのだ。

ちょっと思ったのは、アイデンティティ至上主義者が時に暴力的に抗議活動をするのは、ジジェクが『暴力』で指摘した、リベラリズムの根源的暴力性とつながっている可能性。


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